Ⅰ シャム
昔々、ある国にひとりの女王様が仰せでした。
女王様はそれはもうたいそう美しく、サファイアブルーの瞳、闇のように吸い込まれそうなほどの豊かな黒い髪、白い絹のようにきめ細かい柔肌をお持ちでした。いつも愉快そうに微笑む唇はまるで乙女の生き血を吸ったかのように真っ赤で、首から下にかけては豊かに膨らんだ胸に緩やかに曲線を描いた腰、スリットの入ったドレスから惜しげもなく出されたすらりとした脚を組み、ルビーの埋め込まれた黄金に輝く王座にお座りになられているのでした。
そんな女王様のご容姿に男たちは心を奪われ、女たちは羨望の眼差しを送るので御座います。傾国の美女などという言葉が御座いますが、そのような言葉など、とてもじゃございませんがこの女王様に与えるに相応しくないのでございます。傾けるのは国などでは小さすぎるのです。世界を、いえそれ以上のものを傾けてしまうでしょう。それほど女王様には魅力がおありなのです。
そんな女王様のお話を僭越ながらこの私がひとつ、させていただきたく存じます。どうかご静聴下さいませ。
大理石の広がる広い床に男が一人鎮座している。そしてそれを蔑むように見つめる女が一人。
「して、そなたは妾から如何にして信用を勝ち得るのじゃ」
口元は笑っているが瞳は笑っていない。気怠そうに鉄扇を仰ぐ姿さえどこか色めいて艶麗である。
「は、望みとあらば命まで」
男は片膝を折り手を胸に当てる。低く頭を下げたまま抑揚のない声で答えた。
「…命とな」
女王は興味のない目で男を見つめた。ついた手に顎を乗せゆるりと鉄扇を動かす。
「御意にございます。必要とあらば冥土の道までいつなりと」
女王は冷めた瞳で男を見つめた。そして、長く細い脚を組み替えたその瞬間に立ち込める薫りは頭の芯が痺れるほどくらくらとし、深くひどく濃密で扇情的なものだった。しかし決して不快なものではない不思議な香物の薫りである。普通の男ならばその薫りだけで堕ちてしまうであろう。だが目の前の男に変化はない。
「妾はのう、死ねと言って死ぬような男はいらぬのじゃ。そのような男は妾には五万といる」
女王は鉄扇を持つ手を止めた。
「簡単に命を預ける男など、つまらぬ」
女王は退屈そうに目を細めた。口を開く間も、閉じている間も、男からその冷たい視線は離さない。だが真っ赤な唇だけは常に弧を描いている。瞳と唇の形が合わないのが不自然でいて自然である。
「そなたは、妾を満足させられる答えが、はて出来るのか」
弓なりになる瞳と更にニィっと上がった唇が男を誘う。そしてまた、ぱっと鉄扇を見事に開くと気怠そうに仰いだ。
「先程の答えでは満足を得られませんでしたか。そうですね、ならば、」
男は顔を上げた。その瞳は恐れなど映してはいない。挑戦的に歪み、面白そうに笑みを浮かべている。
「小指を差し上げましょう」
男は右手の小指を高らかに掲げた。女王は鉄扇を仰ぐ手を止めた。
「ほう、小指、とな」
「ええ、小指にございます」
女王は口元を鉄扇で覆い、黒曜石の瞳で男を見た。
「理由を、聞こうかの」
男はニヤリと笑うとすくっと立ち上がり更に高く小指を上げた。
「さる国の娼妓は、意中の旦那に己の小指を贈るそうで御座います。それほどの覚悟があると示すために御座います。そうに御座いますれば私もその儀式に従いましては、あなた様に私の小指を贈る所存に御座います。私の覚悟の証に利き手の小指に御座います」
高らかに告げた男の口は強気に笑みを浮かべている。
「あなた様は命はいらぬと申しました。私も命は惜しゅうございます。かつてあなた様に小指を贈った男性がこの世におられましたでしょうか。いえ、いらっしゃらなかったでしょう。あなた様さえよければ、どうか私の小指でご勘弁頂けないで御座いましょうか」
そう言うと男はまた片膝をつき正式な礼をした。
「このようなお答えで如何に御座いましょう」
男は頭を下げたまま視線だけを女王にやった。
「妾が切れ、と申せば切るのか」
「御意にございますれば、望みとあらば、これこのようにいつなりと」
男は腰から小刀を抜き、きらりと光る刃先を己の小指に当てた。
「はっはっは!!」
男の答に女王は愉快そうに声をあげ笑った。
「面白い。実に面白いぞ。この妾にそこまでの強気な態度、笑み、そしてその答。そなた、ほんに愉快な男よのう」
女王は腹の底から面白い、と笑みを浮かべた。
「この妾を本気で笑わせるとは」
女王は不敵な笑みではなく、玩具を手にした幼子のような笑みを浮かべた。そして鉄扇をパチンと閉じると、男に向けた。
「気に入った!そなたを妾付きの仕えとする。本日より存分に励むが良い」
「有り難きお言葉、恐悦至極にございまする」
男は深く腰をついた。女王は満足そうに鉄扇を開いた。
「して、そなた名は」
「名はございませぬ」
「ではそなたは今までどのように呼ばれてきた」
「フェル、と。世間の者はみなそのように私を呼びます」
女王は片眉を上げ男を見た。
「みなが呼ぶのなら、それがそなたの名ではないのか」
男は頭を下げたまま答えた。
「いえ、それは世間がつけたもの。私の真の名にございませぬ。真の名はとうの昔に消え失せますれば、今の私には名はございませぬ。お好きなようにお呼び下さいませ」
「そうか、ならばそなたは今日から來だ」
「らい、にございますか」
女王は鉄扇を開いた。
「そうじゃ。來だ。妾が幼き頃に飼っていたお気に入りの猫の名じゃ。そなたにやろう」
気に入らぬか?
女王は鉄扇で顔を隠し、瞳だけを現した。その瞳は楽しそうに笑っている。
「いえ、とんでもございません。有り難き幸せ、大変な名誉にございます」
女王は満足げに笑みを浮かべた。
こうして來様は女王様の直近となったのでございます。この日から女王様の側には必ず來様の存在が見受けられ、女王様はどこに行くにも來様を連れてあそばしました。しかし、來様が何者で、どこから来なすったのかは誰も、女王様ですら存じ上げなかったのでした。女王様にすれば來様の過去など、肩についた小さな埃と同じく、気にするほどのことではなかったのでございます。そして來様も、ご自分の過去については一切を口には致しませんでした。來様は一体何者なのでございましょう。それを知るのはまだ先の、遠い未来のお話にございます。
シャム猫は別名サイアミーズ。全体的にとても細くスレンダーだけど筋肉質で、顔もほっそりしたV字型。大きく広がった耳、アーモンド型でやや釣り上がり、綺麗なサファイアブルーをした瞳をもつ。動きはとても優雅で、とても愛情深く感受性豊か。一人の人に執着する気質もある。




