『婚約破棄の慰謝料で孤児院を建てました――十年後、私が育てた子どもたちが王家の借金を取り立てに来ました』
初冬の薄暮が、冷え切った大理石の床を青白く染めていた。
王城の大広間には、甘ったるい香水の匂いと、好奇に歪んだ貴族たちの嘲笑が満ちている。
「レイチェル・クロイツァー侯爵令嬢! 貴様との婚約をこれにて破棄する! 私と運命を結ぶ真実の愛の相手は、この可憐なるミリアムだけだ!」
第三王子エドガーが、桃色の髪をなびかせる男爵令嬢の腰を抱き寄せ、高らかに叫んだ。
二人が見せつける芝居がかった抱擁を、私は眉ひとつ動かさずに見つめていた。胸を焼くような嫉妬も、裏切られた絶望もない。ただ、冷え切った冬風が胸の隙間を吹き抜けるような、乾いた虚しさがあるだけだった。
「承知いたしました、エドガー殿下」
「……な、なんだと? 取り乱しもしないのか!?」
「ええ。真実の愛をお見つけになった殿下を縛る権利は、私にはございませんもの。ただし――」
私はすっと右手を差し出し、侍女から受け取った羊皮紙の束を広げた。
「我がクロイツァー家と王家が交わした婚約約定書、第十四条。一方の有責による一方的破棄の場合、違約金として金貨五万枚を即刻支払うこと。……耳を揃えて、一週間以内にお納めいただきますわね?」
エドガーは顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「金の亡者め! 愛のかけらもない冷血女が! そんな汚い金で、生涯孤独に暮らすがいい!」
大広間の扉が閉まる音を背に、私は城を去った。
冷たい星々が凍てつく夜空に瞬いている。孤独に暮らす? いいえ、とんでもない。
私はこの汚らわしい男の血税から毟り取った五万枚の金貨で、もっと尊く、血の通った未来を作るのだ。
◇
王都の城壁の外、見捨てられた下町の一角に、私は広大な敷地を買い取った。
看板に掲げた名は『曙光の家』。戦災孤児やスラムの捨て子たちを受け入れる孤児院である。
「レイチェル様、あの子たちに文字や計算を教えるのは結構ですが……一体何を学ばせるおつもりですか?」
元王宮書記官で、私を慕ってついてきてくれた老眼鏡の執事、トーマスが心配そうに尋ねてきた。
私は机の上に積まれた、異国の古い知恵が記された書物をトントンと叩いた。
「トーマス。ただ施しを与えて『かわいそうな子』として育てるのは、本当の慈悲ではありませんわ。知識こそが、誰も奪うことのできない唯一の財産です。この子たちには、自立して生き抜くための厳格な教養と、数字の真理を教え込みます」
私が孤児院に導入したのは、かつて世界中を流浪しながらも知恵と経済で栄え続けた民――ユダヤの教えだった。
「今日から、十三歳を迎えた男の子と、十二歳を迎えた女の子は、子ども扱いをやめます。自らの行動と、金銭の管理に全責任を負う『成人の儀式』を執り行います」
子どもたちがぽかんと口を開けて私を見上げていた。泥だらけの頬、すり切れたシャツ。かつては道端でパンを盗み、大人に棒で叩かれていた孤児たちだ。
「レイチェル先生、おとなになるって、なにをするの?」
片目を前髪で隠した十二歳の少女、サラがおずおずと手を挙げた。
私はしゃがみ込み、サラの冷たい手を両手で包み込んだ。
「サラ。大人はね、誰かにすがって生きるのではなく、自分の頭で考え、約束を守り、正当な対価を得て仲間を守る人のことよ。あなたたちには、十歳から複式簿記を、十二歳からは契約書の読み方と国際交易の仕組みを教えます。十四歳になる頃には、この国のどんな無能な貴族よりも、世界の歴史と経済の本質を理解できるようになってもらいます」
それからの日々は、情熱と活気に満ちていた。
朝は冷たい井戸水で顔を洗い、朗々とした声で経済史と論理学を輪読する。
昼は院の畑で収穫した野菜の原価計算を行い、市場へ出て実地での価格交渉を学ばせた。
子どもたちは貪るように知識を吸い上げた。文字が読めることの誇り、数字の辻褄がぴったりと合う瞬間の快感。彼らの濁っていた瞳に、知性の強い光が宿り始めていた。
「先生! 羊毛の先物取引の仕組み、分かりました! 春の寒波を予測して買い支えれば、農家も損をしないし、うちにも手数料が入ります!」
「先生、この商会の貸借対照表、粉飾されています。在庫の評価額が異常です!」
十三歳で成人の儀式を終えた少年少女たちは、もはや立派な若き会計士であり、投資家だった。
◇
十年が流れた。
王都の秋は、以前にも増して重苦しい空気に覆われていた。
かつて「真実の愛」に浮かれていたエドガー王子とミリアムの贅沢三昧、そして無謀な外征と無駄な公共事業のせいで、王国の国庫は完全に底をついていたのだ。
「ぐ、軍の遠征費が足りんだと!? 増税だ! 平民どもからもっと絞り取れ!」
王宮の玉座の間で、すっかり贅肉のついたエドガーが机を叩いて喚いていた。隣には、流行遅れのド派手なドレスに身を包んだミリアムが青ざめている。
そこへ、青い顔をした財務大臣が駆け込んできた。
「も、申し上げます! 国内のどの商工ギルドも、王家への融資を拒絶いたしました! 『返済計画のない放漫財政には一銅貨も貸せない』と……!」
「無礼な! 王族の命令に逆らう商人がどこにいる! ならば王都で最も急速に台頭している、あの巨大投資商会『曙光』の頭取を呼べ! あの成金どもから金を巻き上げてやる!」
数刻後。
豪奢な扉が開き、凛とした足音が響いた。
「お呼び立てにより参上いたしました、エドガー殿下」
入ってきたのは、仕立ての良い漆黒のスーツを纏った二十歳前後の青年と、知的で美しい夜会服を着こなした娘だった。
書類鞄を胸に抱いたその立ち振る舞いには、宮廷貴族の誰もが持たない、圧倒的な知性と威厳が満ち満ちている。
「貴様らが『曙光』の……? ふん、若造どもが気取りおって。いいか、王家が特別に貴様らの商会に国債を発行してやる。今すぐ金貨十万枚を差し出せ!」
エドガーが尊大に顎をしゃくると、娘――かつて十二歳で成人の誓いを立てたサラが、冷徹な微笑を浮かべて書類の束を開いた。
「お断り申し上げます、殿下。王家の現在の債務比率は限界を突破しており、利払いすら不可能な状態です。これ以上の無担保融資は、投資家に対する背信行為となります」
「な、なんだと!? この小娘が生意気な! 無礼打ちにして首を刎ねるぞ!」
「どうぞ、ご随意に」
隣の青年が、涼やかな声で遮った。
「ただし、私が今夜戻らねば、王都内の穀物倉庫および港湾施設にかけられた担保権が即座に行使され、明日の朝には王宮への食糧供給が完全に止まりますが」
「ひっ……!?」
エドガーがたじろぐ。
「だ、大体、貴様らのような得体の知れない孤児上がりの連中が、なぜこれほどの財力と組織を動かせるのだ! 誰の差し金だ!」
サラと青年は静かに顔を見合わせ、誇らしげに胸を張った。
「私たちは、十三歳で自らの足で立ち、契約の神聖さと数字の真理を学びました。感情で帳簿を汚すあなた方とは、鍛え抜かれた知恵の重みが違うのです」
そして、サラが振り返り、優雅に一礼した。
「――お入りください、オーナー」
玉座の間の扉が、再び開かれた。
静まり返った広間に響く、軽やかな靴音。
姿を現したのは、深緑の上質なドレスを身に纏い、凛とした美しさを湛えた私――レイチェルだった。
「ひ……っ、レイチェル!?」
エドガーの顎が外れんばかりに落ちた。ミリアムが悲鳴を上げて後退る。
「ご無沙汰しておりますわね、エドガー殿下。十年ぶりかしら」
「な、なぜ貴様が……! 汚い金で孤独に朽ち果てていたはずの女が、なぜ『曙光』の頂点に……!」
「汚い金? ふふ、おかしなことを仰いますのね。あの日、殿下が投げつけてくださった違約金は、この子たちの尊い知恵へと姿を変えました。感情に流されて財政を破綻させた殿下と、厳しい規律と教養をもって経済を動かしてきた私たち……どちらが真に豊かなのか、結果は火を見るより明らかですわ」
私は冷淡に告げ、手元の羊皮紙をエドガーの足元へ放り投げた。
「これは……?」
「王家の全負債を、我が『曙光』が買い取らせていただきました。本日より、王室財政は私たちの管理下に置かれます。無駄な夜会、愛人への宝飾費、すべて即刻差し止めです。殿下には、下町の開拓地で一日十二時間の労働に従事していただき、借財を一から返済していただきますわ」
「ふ、巫山戯るな! 私がそんな屈辱を受け入れると思うか!」
「受け入れなければ、破産を宣告し、王位継承権を剥奪するまでです。選ぶのはあなたですよ、エドガー様」
青ざめ、ガタガタと震えながら床にへたり込むエドガーと、みっともなく泣き喚くミリアム。
かつて私を嘲笑った貴族たちも、今や私の前にひれ伏し、救済を乞うて震えている。
私は彼らを一瞥もせず、誇らしげに私を取り囲む、大きく育った子どもたちへ向き直った。
その顔には、かつてのスラムの影など微塵もない。世界を動かす自信と誇りに満ちた、美しき成人たちの顔だった。
窓の外を見上げれば、冬の初めの澄み渡った青空が広がっている。
冷たい風はもう痛くない。
自分たちの足で大地を踏みしめ、知恵を研ぎ澄まして生きる者たちに、暖かな暁の光が降り注いでいた。
◇◇◇
『ガラテヤ人への手紙』6章7節〜8節
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」




