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真実でない愛があるということ?~語学ができるからってコミュ力あるとは思うなよ~

掲載日:2026/06/24

勢いで書きました。細かいことは気にせず読んでください。



「すまない、エチカ。婚約を解消してほしい」

「え?」

「真実の愛を見つけてしまったんだ」


 シモンにとって、婚約者のエチカ・ラランサールはおおむね扱いやすい女だ。


 その容姿や性格の平凡さは一目見れば誰でも分かる。

 エチカはとても地味なのだ。

 顔も地味。服装も地味。

 社交性も低く、ぼんやりして輝くところがない。


 髪は掃除をしていない池のような暗い緑、不健康で青白い肌、目に至っては落ちくぼんだ眼窩と前髪で虹彩の色すら判然としない。


 ではこれは望まぬ婚約かと言えば、元々は必ずしもそうではなかった。

 求婚をしたのはシモンの方で、決して異性として心を奪われてというわけではないのだが、それなりの利益を見込んで申し入れた。


「真実の……愛?」


 問い返す声が揺れている。


「ああ、俺はベロニカ嬢を愛している」


「真実、しんじつ……とは、嘘や偽りのないこと、ですよね。ベロニカ?様?への、お心だけが、真実で嘘偽りがない……?」


 ぽつぽつこぼれるエチカの言葉は最初こそ自問のようでもあったが、どうもシモンへの質問らしく、最後は問いかけのイントネーションになり、彼女の頭は下から伺うような仕草を見せた。


「そうだ。……すまない」


 くっ、と顔を背けてシモンはもう一度詫びた。


「その方以外への愛は、本当の愛ではない、のですか」


「ああ」


 頷き、認める。


「彼女は俺の、唯一無二だ」


 呆然としているのか、エチカの厚い前髪の下ではぐるぐる彷徨うような伺うような挙動不審の目の動きが感じられる。


「おっ…………」

「お?」


「お父さまーーーーー!」


 小さめだと思っていたエチカの口がぱっかりと開いて、そこからつんざくような声が飛び出した。

 ここはラランサール伯爵邸の応接室。

 エチカの父親は領地のない学務宮廷伯で、宮廷への出仕とこの自宅での勤務が半々だ。つまり半分の確率で家にいる。


「エ、エチカ、落ち着いてくれ」


 ぼんやりおっとりでいつも煮え切らないエチカの性格から、まさかノータイムで伯爵家当主を呼ばれると予想していなかったシモンはにわかに慌て出す。


「どうしたんだい、エチカ。おや、シモン君」

「はっ、伯爵」

「お父さま、真実の愛です! 真実の! 愛!!」

「んん?」

「エチカ……!」

「嘘偽りなき唯一だと、シモン様が。だからつまりこれってある種の例外をあらわす表現と言えて唯一およびそれ以外を示すという前提認知の」

「エチカ落ち着きなさい」


 ラランサール伯爵は興奮する娘を優しくたしなめる。彼は濃い灰色の頭髪をきちんと撫で付けた、上品で年齢不詳な雰囲気のある男性だ。片手には磨き込まれた木目の美しい硬いステッキを携えている。

 向かい合って座った若い男女を一瞥し、彼は使用人へ杖を渡してごく自然にエチカの隣に腰掛ける。


 ぽん、と娘の肩を叩いて。


「話をする時は最初から順序立ててみようね」

「はい!」

「まっ、お待ちください、伯爵」

「シモン様はベロニカ様というご令嬢がシモン様の真実の愛なので、婚約を解消するというお話をしにきてくれました」

「エチカ!」

「……おお」

「真実の愛というのは唯一の愛ということで、ここではその愛の対象を指す代名詞的な表現みたいに聞こえました。愛そのものと人間を表すのとでは、後者優位か、あるいは両方かなーと思います」

「なるほど」

「すごくないですか、お父さま、真実の愛です」

「真実の愛」


「シモン様の愛はベロニカ様以外の方に対しては嘘偽りの愛だということです!」


「はあっ!?」


 とんでもない言い草にシモンは素っ頓狂な叫びを上げた。


 横の父親に向いていたエチカの顔が、ぐりん、と勢いよく回って正面のシモンに向く。


「そうですよね、シモン様!?」


 振り回された沼色の髪の毛がばらりと揺れて、両目、特に右目がはっきり見えるようになった。過去に一度も見たこともないほどその目はぱっちりと開いていて、茶色い瞳がオレンジの炎に思われるほどきらきらと異様な明るさに輝いている。


「ベロニカ様への愛は唯一無二かつ真実なんですよね!?」

「そうだが!」

「だったらそれ以外は『真実でない愛』です!」


 違う、そうだけどそうじゃない。


「素晴らしいです。例外とは規則の存在を確からしく証明できることを意味するんです! あっその、つまり、規則が存在しなければ例外になりようがないということなんですけど」

「エチカ、エチカ、シモン君が驚いてしまう。フィールドワークやヒアリング調査の時は専門用語をなるべく使わないものなんだよ」

「えっ、補足入れたのに分かりにくかったです?」


 言語学者の娘の言葉遣いが(ザツ)い。


「分かりにくい、とか、そういう話ではなく、だなっ」

「たとえばシモン様のご家族への愛とか、お友達への愛とか、それは真実じゃないので」

「お前今断言したか!?」

「ベロニカ様への愛は真実の愛じゃないと!」

「違う! 真実の愛だ!」

「ならオッケー!」

「違あぁぁう!」



 * * *



 ラランサールは学者の家系だ。

 別分野に進む者もいるが、一族に最も愛されてきたのは言語学である。現ラランサール伯爵もまた気鋭の比較言語学者で、まだ四十代の身空でありながら既に多くの論文を著し安定した評価を得ている。


「いいかい、エチカ。人の言い間違いや、辞書とは違う言葉の使い方を見つけても、よっぽどでなければそれを指摘してはいけないよ」


 幼い頃、ラランサール伯爵はそうエチカに教えた。

 エチカは辞書を枕に育つラランサールの娘にふさわしく言葉に敏感で、五歳ごろになると他人の言葉を訂正したがる癖を見せ、言い募りすぎて嫌がられるような場面が生じてしまったのだ。


 日本語で喩えるなら、「延々と」を「永遠と」と書く者がいれば「延々と」が正しいと真っ赤なペンで修正し、「耳障りの良い」と聞けば飛びついて「耳に障る、は、気に障る、と同様に嫌な場面で使うものだ」と指摘を入れるようなこまっしゃくれた講釈垂れであったのである。

 まして五歳児のこと、年の近い子供といれば「とうもろこし」を「とうもころし」と発音するような可愛らしい言い間違いや覚え間違いとの出会いは数限りない。また幼児ゆえ、視野が狭く自分のこだわりを手放せず、ターゲットに見定めた相手をガン詰めしがちなのも悪かった。


「どうして、お父さま? 間違ってるのにどうして教えてあげちゃいけないの?」


「うん。ひとつはね、言葉のことでなくても、正しいというのは、とても暴力的だというのがある」

「ぼうりょくてき」

「いじめっ子が自分より弱い子をいじめて痛がらせたり怖がらせたりするのと同じ、怖いことということだね」

「エチカ、ぼうりょくは分かるよ」

「そうか。ならそれだ」

「『正しい』は『ぼうりょく』?」

「同じではない。でも、暴力っぽいところがある」


 エチカは目をぱちぱちさせて考え込んだ。


「教会のミサや孤児院に行くと、たまに、なんでもすぐ『あーっ、駄目なんだー』って言う子がいるだろう? いけないことをしてるのを見ると、それを悪く言っても悪口を言っているような気がしない。自分が偉くなったような気がする。別に偉いわけじゃないのにね。これは気持ちいいから怖いんだ。正しさはよく切れる刃物みたいなものだから、気をつけて使わなくてはいけない」


「うぅーーん」


「難しいね。すぐ分からなくていい」


 父親はそっとエチカの森の神秘めいた深緑の髪を撫でて微笑んだ。


「それからふたつめに、言葉の正しさはいつもぐらぐらしているというのがある。言葉の意味は多数決なんだ」


「ぐらぐら?」


「お婆さまの時代には普通だった言葉も、今は意味が違ってしまったりする。『せっかく努力する』と言ったら昔はすごく頑張ることだったけど、今は頑張ったけど駄目になることでだけ使われたりね」


「意味が、変わるの?」


「そう。だから面白いんだよ。最初は間違いって言われてても、それは新しい言葉が生まれる芽なのかもしれない。理由を探るとおどろくほど筋が通ってるんだ。舌や唇の動きが言いにくくて変わってしまったり、みんなの社会の考え方が変わったり。今までと少し違う言葉の組み合わせや、今までと違う表現は毎日生まれている。……新しい言葉を、エチカは見つけられるかな?」


 エチカは、シモンと婚約を結んだ直後、幾度か同じ間違いをやらかした。

 いずれ身内になるのだと思って、他の相手なら見過ごしても、シモンが相手だと言い間違いを指摘したりしてしまったのだ。


 シモンがそれを煙たがる顔をした時、エチカははっとなり、父の教えのひとつめを思い出して反省し、しっかり口をつぐむことにした。彼女の行き過ぎた正義感、つまり他者の表現を直したがるという悪癖は、そうして押さえ込んでいた。


 一方でふたつめの教えにストッパー機能はない。

 新しい言葉への興味は、彼女の心に消えない火を起こし、ごうごうと燃え盛り続けていた。


 よって彼女は、新語や流行表現に対して大変な愛情を抱いており、それが今この時、婚約解消の場において突如餌を与えられた獣のように猛り狂ったのである。



 * * *



「違う、そうじゃ、そうじゃなくて」


 シモンは必死に言葉を探した。


「ベロニカに出会って、俺は、これが真実の愛なんだと、エチカへの愛は愛ではなかったと」


 脳裏を彷徨いすぎてぶつぶつ喋るような形になってしまい、シモンはその時、正面のエチカが目をまんまるく開いたのに気付けなかった。

 エチカが何か声を出そうとした瞬間、父親の手が軽くエチカの腕を触れて発言をやめさせる。


「だっ、だいたい、ラランサール家は国内随一の言語学の専門家だと聞いて、エチカもいくつも外国の言葉が分かるという触れ込みで、それなら外交の場できっと助けてもらえると思っていたら」


 ああ〜……、と、気の抜けた吐息がエチカの薄い唇からこぼれた。話の先が見えたのだ。


「外国語ぺらぺらだと思ってたんですか。私が」

「そうだよ!」

「それは、すいませんでした」


 よくある勘違いだ。

 言語学の学徒は必ずしも会話術やリアルタイム通訳に長けているわけではない。

 車を分解して目を輝かせるエンジニアを前に、自動車レースのトップドライバーになれと言うぐらい技能と適性が異なっている。両方をこなせる人材もいるにはいるかもしれないが、少なくともエチカはそのタイプではなかった。


「他国人の多いパーティーに同伴してもぎりぎり愛想笑いしてるだけで気の利いた一言も言えやしない。むしろ急に壁際に行って何かメモを取り出す始末!」


「――シモン様、大変残念なお知らせですが」


 ひどく神妙に両手を膝の上に置いて緑髪のエチカが告げる。


「自国語ですらコミュ障な人間は、外国語が分かったところで喋れる話題も、話を転がせる技術もありません」


 真正面から、まっすぐに。

 揺らがぬ茶色い二つの目はどちらも力強く輝き、宝石のように透き通っていて、美しい。


「……………………」

「………………」

「……とても、残酷な現実だねぇ」


 呟いた父親に重々しくこっくりと頷く娘。

 国さえ違う異文化の人間を相手に小粋なトークができる性格ではないことなど顔合わせの時点から分かっていただろうに……という雰囲気で何故かエチカの方がシモンを憐れむような顔をしてきた。「かわいそうなものを見る目で見るな!」と思わず叫ぶ。


「きっと、もっといい人、見つかりますから」

「なぜ俺の方が残念な扱いをされるんだ!?」

「ふぁいと」

「雑な応援もやめろ!」


 シモンとエチカは婚約して三ヶ月半。

 十九歳と十六歳の二人には決して短い時間ではないが、あまり親睦は深まっていなかった。これほど取り繕いのない長い会話をしたのもこれが初めてだ。


「第一、その言葉遣いもなんなんだ。さっきから妙な庶民のような言葉も混ざって……、もっと令嬢らしい、上品な話し方があるだろう。今まで猫を被っていたのか」


「そ、それは」


 たじろぐエチカの隣で伯爵がかすかに眉を上げる。


 シモンの言葉遣いが乱れているのは予想外の方向に振り回されてテンションが振り切れているせいだが、他方でエチカがぽんぽんと話ができていたのは自宅内と家族同席という二枚のカードがそろった圧倒的ホームの環境に加えて話題の中心が言語関連だからだ。エチカは折り紙つきの内弁慶で、これら要素の何か一つでも欠ければすぐさま顔を前髪で隠してうつむき貝のように口を閉じてしまうだろう。


「申し訳、ありません。家族内では、このような話し方をすることも多いので、シモン様がご不快だとは、思わなくて」


「学者の家でか!?」


「話し方の引き出しが多い、と言っても良いのだけれどね」


 やんわりと伯爵が笑った。


「エチカは新語表現にも興味が強いので雑駁な語彙にも接していて家族にも色々教えてくれるんだ。言葉が崩れるのは多くは親しみの現れなのだけれど、今回はお互いの感性が少しずれてしまったのかな。すまないね」


 繰り返すが、知識が多いというのと運用能力が高いというのは別のパラメーターだ。

 エチカは自分の好きな話でだけ盛り上がってしまいがちで相手との感覚のチューニングや会話相手のもてなしが下手くそな系統の勉強オタクである。


「言葉の話をし始めると幾晩あっても時間が足りないよ。今は些細な問題から片付けよう」


 娘の婚約者が次の発言をするより一歩だけ先に、ラランサール伯爵はそう言って微笑する。


「今回シモン君は、婚約を申し込んだ時点で期待していた能力がエチカにないことが分かり、他に心から愛せる人ができたから婚約を解消したいと、そういうことでいいのかな」


 は、とシモンは息を呑んだ。

 善悪の色付けのないフラットな叙述は分かりやすすぎて、異論を挟む余地がない。ないのだが、このラランサール邸を訪れる前に夢想していた説明とニュアンスが違う。なんだか結構自分が悪いような気がしてしまう。いやシモンが悪いのは悪い。だが、愛ゆえにどうしても仕方ないことなのだという事情がそっくり抜け落ちている。


「エチカの意見は?」


 否とも応とも言いにくくて固まってしまった若い令息を責めることもせず、伯爵は横の娘に視線を移す。


「お父さまがよろしければ、婚約がなくなることに異議はございません」

「お前自身はシモン君に未練はないかい?」

「ないです……、いえ、ございません。シモン様には申し訳のないことでございました」

「申し訳ないとは?」

「シモン様が私に何をお求めか、きちんとした意思疎通を怠りました。愛情でも実利でもお役に立てず、申し訳ないです」

「そうか。それは反省点だね」

「はい」


 沈痛な様子で俯くと、沼の色のうねる髪の毛が再びその表情を隠す。

 こうも素直に従順な姿勢を見せると思っていなかったシモンは――いや、たった数時間前までは当然のようにそれを当て込んでいた気がするが、あのはっちゃけたズケズケした物言いを浴びた後では――、いささかの驚きを抱かずにいられない。


(これは、俺の責任は問われない流れ、か?)


「私、先ほどとても驚いたのですが、シモン様は私を愛そうとしてくださっていたのですね」

「え?」

「私への愛は愛ではなかった、真実の愛ではなかったと。おっしゃいましたよね」

「あ、ああ、そう言った」

「シモン様は本当は、パートナーには愛の溢れる関係を求めていらしたのですよね。当初よりシモン様は私の見た目がお好きではなさそうでしたし、会話も弾みませんでしたので、私てっきり、愛を求められることなどないと勘違いしておりました。シモン様の方は、真実でない愛でも、私に愛を持とうとしてくださっていたなどと、まったく、夢にも思わなかったので……、愛を返して差し上げられなくて悪かったというか、同じようにシモン様に対して『偽りでも愛を持とう!』という気になれなかった自分が、誠に申し訳なく…………」


 なんだろう。

 本当に、心底申し訳なさそうな声なのだが。

 なぜかどうしてか、シモンが振られた側みたいに聞こえて仕方ない。


 エチカへの愛という言葉はあの場の勢いで出ただけだし、そもそも話の焦点はベロニカへの愛だったはずなのに、何やらシモンがエチカに愛されたかったのが上手くいかなかったような話にも感じられる。


「シモン君」

「は……、はい?」

「エチカの足りないところは、我が家の中でも後でちゃんと話をすることにするよ」


 すまないね、と謝罪したわけではないのだが、そう言われたのと同じ感覚をシモンは味わった。エチカが不足のある娘で、その責任はラランサール家にあると当主が認めたわけだ。

 ちょっと釈然としない感覚は残っているが、大きな流れは良さそうである。


「それより、君は大丈夫かい。エチカとの婚約がなくなればその女性と縁を結べる約束はしているのかな。君の片想いではない?」


 ラランサール伯爵は、暖かい母親のような労りと心配の眼差しで、とても優しくそう尋ねた。


 これまでで充分に察せられることであるが、シモンという男は、基本的に都合よく物事を考えがちで見通しが甘く、頭が軽い。

 であるから、彼は背筋を伸ばしてきりりと元気よく答えた。


「はい!」


 と。



 * * *



「シモン君、思った以上に考えなしだったねぇ」


 関係を進めたり交際を申し入れる前に身綺麗になろうとしたのではなく、婚約中から不貞を働いていたのだと元気に認めたシモンは、その後にも同情的なそぶりで根掘り葉掘り状況を聞き取られたのち、ラランサール伯爵からの書状を持たされてそっと帰路についた。今日のうちに返書を預かるためラランサール家の使用人と馬車もついでに添えた。

 いずれ有責事項に基づく違約金と賠償を粛々と突きつけられるだろう。


「すごく悪い人ではなかった気がします」

「エチカが傷付いてないなら良いよ」

「あまり、いじめないであげてくださいね……?」


 初めはそう言っていたエチカは、後に、王族の覚えもめでたいと噂のラランサール家ならどれだけ利益があるかと思っていたらコネの紹介もなく、当主も娘も交渉ごとのいろはも分からぬぼんくらで実に丸め込みやすかったと放言したと聞いて、これは駄目だと情状酌量を諦めた。

 自宅に帰って気が緩んだのだろうが、どうしてまだラランサール家の使用人がいると分かっている状況でそんな発言をできてしまうのか。


「コネを頼りたかったなら、相談してくれたら良かったのに」


 エチカは呟く。


 言語学者が外国語がぺらぺらなのが偏見に近いステレオタイプだとするなら、学者という生き物が全員交渉下手で立ち回りが下手だったり、清廉で無害だというイメージもそれに近い誤解だ。学閥の争いのえげつないことと言ったら筆舌に尽くしがたく、エチカの父は政治の鬼である。

 噂されているより王族とのパイプも太いし、宮廷にも役場にも毛細血管のようにコネと伝手を張り巡らせている。

 研究というもののほとんどが直接的には富を産まないものであり、そしてまたあまりに大きな富を産んでしまうものが存在し得るために、予算や寄付金の争奪は時に現実の血が流れるほどの事態になる。その時、ラランサールが無力な存在であってはならないのだ。


『君はいくつもの言葉を修めていると聞いたよ。本当に素晴らしい。婚約者として誇らしく思う』


 そう言って花束を差し出してくれたシモンに、愛と呼べるほどのものはなかったけれど、嬉しかったのも本当だ。

 何か役に立てるなら立ちたかった。

 エチカはコミュニケーション能力の低いオタクだったので、花を握って俯き、ぼそぼそと礼を言うことしかできなかったが。


 シモンが関わるという、いくつかの国の言語で咄嗟に見せて使えるような指差し単語帳を作ったところだったし、特に難解なある言語については、辞書の編纂チームを立ち上げていた(なお完成までは六年かかる計画である。ありがた迷惑に類する単語がその辞書に載るかは未知数だ)。

 パーティーで挨拶させてもらったのに上手く話せなかった相手には後で手紙を送っていて――エチカには言えなかったことをメモしておいて後で落ち着いた環境で取捨選択し、必要だと思ったことだけを書簡で連絡する癖があった――交流が始まった高位貴族もいると聞いたらシモンも違う行動が取れたかもしれない。


「褒めてくれたの、そういう意味だったんだな……」


 人当たりがよく話術巧みな通訳というのは自分には荷が重い。

 結局シモンのしたことは浮気でしかなかったが、エチカはエチカでシモンの意向確認もせずにずいぶん空回りしていたことが今になると分かる。


「あれ、お父さま、調べ物ですか?」

「教会での七歳の洗礼式と、貴族子息の社交界入りの時の、それぞれの誓約文言の正確なところを書き起こしておこうと思ってね」

「あ」


 エチカが気まずく口元を押さえる。


「気付いてた?」

「えーと、あのう、その……」


 誤魔化そうとしたが、ラランサール伯爵はにこにこするだけで返事を待ち続ける。


「ちらっと、引っかかりそうだなー、とは、少し」


 教会での洗礼式。

 貴族子息の宮廷デビュー。


 この国で貴族に生まれて成長すれば必ず通過するそれぞれのイベントで、定型の誓いの言葉がある。そこにしっかり入っているのだ。


 『神への愛』を告白する決まり文句と

 『国家への愛』を捧げる誓約文が。


 確かに所詮は言葉の綾、ではある。


 しかし、ただ一人への女性の愛のみが真実でありそれ以外はいかなる愛も偽物であると宣言したという過去は、本人にはそんな宣言をした意識もないだろうが、レトリックを上手く突けば宗教と国の両方を敵に回すぐらいの破壊力がある。それすなわち人権のすべてを失うに等しい。


「大丈夫だよ、エチカ。使わなければ使わないでいいんだ。でも」

「でも?」

「一度敵に回した相手の生殺与奪の権は、手段があるなら握っておくに越したことはない」

「ふぁい、ご当主サマ…………」


 せめて鳴かずに撃たれずいておくれとエチカは遠くで願うのみである。



 結局しばらくしてもシモン青年は愚かな行動に出ることはなかったので彼のその後をエチカは知らない。

 だが真実の愛とはエチカの新語・流行語センサーを大きく揺らすだけあって他の人々にも魅力的なキーワードだったらしい。演劇か詩人の歌か、何かしらそのような言葉が広まる理由があったのだろう。

 シモンとエチカの婚約終了とは関係なく、これよりわずか二ヶ月後の大きな夜会にてこの国でも随一の公爵子息ほか数名が『真実の愛』の宣言を衆目の前でぶちかました。彼らはシモンよりも数段悪辣で冤罪捏造までやらかしたため、ここでラランサールの文書が火を噴くことに相成ったのは、また別のお話である。




エチカの悪癖(人の言葉を直したがる)は私自身が幼少期からやっておりました。生まれ育った家族がお互いに指摘し合うスタイルだったので、良くないという意識がなく、加害性に気が付けたのは最近になってからです。本当にごめんなさい被害者の皆様。


なお、私の小説は誤字報告大歓迎です!

いつもありがとうございます、誤字職人様方!!


明日から入院することになり、あんまりにも手術が怖いので明るい気持ちになれるお話が読みたく(書きたく)なって二日で書きました。お前ら結局何語で話してるんだとか細かい点は気にしないでいただけますと是幸い。楽しんでいただけたら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
当主なお父様が隙がなくて素敵! エチカはのびのびと語学を研究してくれればなと思いました。
手術頑張って下さい。 シモンはエチカとエチカの家を舐め腐ってたんだろうけど、有責で婚約破棄された時点で廃嫡&浮気相手からも振られて、エチカの視界に入ってこなかったから追撃されなかっただけでは。 も…
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