後編:未来を捨てた私を救ったのは、明日を怖がる君の体温だった。
あらすじ:
高校生で子宮を失い、誰かを愛する資格を捨てた日向陽葵。国立大学に進学した彼女は、感情を排した「誠実な孤独」の中に安住していた。しかし、文芸サークルで出会った金髪の少女・月城満月が、その静寂を鮮烈に塗り替える。「女の子を好きになるのは、もったいなくないよ」――。欠落を抱えた陽葵と、孤独に震える満月。正反対の二人が、互いの「空洞」を埋めるために、不器用で切実な、夜の航海へと漕ぎ出す。
登場人物:
* 日向 陽葵: 子宮を失い恋を諦めた女子大生。誠実さという名の防衛線を持つ。
* 月城 満月: 派手な外見に孤独を隠す少女。陽葵の誠実さに救いを見出す。
* 工藤 杏菜: 陽葵の友人でサークル仲間。二人の関係を観察し、加速させる。
# 第25話 鏡の破片
海嶺大学の少し外れにある使われていない別館の建物でした。そのさらに奥まった突き当たりにある古いトイレの個室は外の世界の喧騒から完全に切り離されていました。天井の薄暗い蛍光灯が一定のリズムで微かに明滅を繰り返していました。黄ばんでひび割れた古いタイルからは長年のカビと僅かなアンモニアの匂いが立ち昇っていました。ひどく湿った冷たい空気が密室の底に重く澱んでいました。外の明るい光はこの閉ざされた空間には一切届きませんでした。換気扇の低いモーター音だけが単調に響き続けていました。それは二人の間に横たわる重たい沈黙をただ無意味にかき混ぜているかのようでした。
個室の隅の冷たいタイルの上で膝を抱えてうずくまっていた満月の背中が少し和らぎました。激しい過呼吸の波から少しずつ解放されていったのです。ひどく乱れていた彼女の息遣いが冷たい空気の中で徐々に規則的なリズムを取り戻していきました。酸素を求めて引きつっていた真っ青な唇にほんの少しだけ生身の赤みが戻ってきました。激しく上下していた華奢な肩の動きがゆっくりと落ち着きを取り戻していきました。肺を無理やり広げるような痛ましい音が静まっていきました。代わりに彼女の荒れた不規則な吐息だけが白い空間に溶け出していました。
陽葵は狭い個室のドアの前に立ったまま微動だにしませんでした。動くことも声をかけることもなくただ自らの両手をスカートのポケットに深く突っ込んでいました。満月の過呼吸が完全に収まるのをただ静かに待つという対応でした。自分が不用意に動くことでこれ以上満月の感情を波立たせることを避けたかったのです。極めて理性的で正しいと信じ込んでいる行動基準に則っていました。ただそれだけを暗い空間の中でひたすらに実行し続けていたのです。
トイレの湿度を含んだ重たい空気の中に二人の全く異なる体温が鋭く浮き彫りになっていました。満月の身に纏っている甘いバニラの香水が彼女の高い体温と汗の湿気に混ざり合っていました。それがひどく濃密に立ち込めて陽葵の鼻腔の奥にまで入り込んできました。それは陽葵にもはや後戻りできないほど深く介入してしまった二人の関係性の重さを突きつけていました。冷たく静かな領域にまで他者の匂いと温度が否応なく侵食してきていたのです。
呼吸を整えた満月がふらつく頭をゆっくりと持ち上げました。潤んで真っ赤に充血した瞳でドアの前に立つ陽葵の顔をじっと見上げました。その視線は自分をパニックから救ってくれたことへの感謝の光などではありませんでした。捨てられることを確信した迷子の子供のような深く暗い色で縁取られていました。それは陽葵の腹の底へ向かって真っ直ぐに突き刺さってくるような重さを持っていました。同情も哀れみもすべてを跳ね除けるような強い痛みの訴えだったのです。
満月の熱を帯びた頭の中であの光景が残酷に繰り返し再生されていました。先ほど目撃してしまった森先輩と陽葵が並んで歩く光景です。普通に会話をして普通に笑い合う健康で真っ当な社会の風景そのものでした。陽葵の本当の居場所はそちら側にあり自分はただの暇潰しだったのだという激しい疑念でした。それが彼女の精神を猛烈な勢いで黒く塗りつぶしていきました。自分という存在が陽葵の人生から完全に切り離されてしまうという確信に似た痛みでした。
「……陽葵だって、ほんとはあんな風になりたいんでしょ」
満月のひび割れた掠れた声が狭い個室の冷たい壁にぶつかって金属的な反響を生みました。
「普通に誰かと付き合って、結婚して、普通の家族になりたいんでしょ」
それは彼女自身の心臓を深く切り刻むと同時に放たれた刃でした。陽葵が最も触れられたくない最も深くえぐられる急所へと真っ直ぐに突き立てられたのです。
普通の家族という言葉が陽葵の胸の奥底に横たわる古い傷に鋭く突き刺さりました。それは高校時代に浴びせられた同情という名の無遠慮な刃の記憶でした。普通に生きられないのは可哀想だという悪意のない社会からの圧力です。その記憶が鮮明にフラッシュバックして彼女の喉の奥をカラカラに乾かせました。自分が社会から欠落していると見なされた時の息苦しさが再び全身を強く締め付けてきたのです。
この耐え難い精神的な摩擦から逃れるために陽葵は咄嗟の行動に出ました。自らの心の中に分厚くて冷たい氷の壁を即座に構築しようと試みたのです。他者の無責任な同情や社会の型に嵌められる痛みから自分を守るための防壁でした。だからこそ満月に対しても感情の揺れを理性の裏側に隠蔽しようとしました。他者のためを想う誠実な人間としての仮面を必死に被り直そうともがいたのです。
「……それは、事実とは異なります。私はただ、あなたが落ち着くのを待っているだけです」
陽葵の口からこぼれ落ちたのはひどく平坦で乾いた音声でした。声帯の微かな震えを強引に圧し殺した無機質な響きでした。相手を傷つけまいと選んだ言葉の羅列だったのです。それがいかに冷酷に響いて相手を突き放すものか彼女自身も気づいていませんでした。狭い個室の床に向かってぽとりと落ちるような温度のない音の塊でした。
陽葵のその冷速な言葉を途中で完全に遮るような異音が響き渡りました。バンという乾いてひどく暴力的な破砕音が個室の壁を大きく揺らしました。立ち上がった満月がドアの内側に張られていた安っぽい鏡に向かって自らの右拳を思い切り叩きつけた音でした。その衝撃でひび割れた銀色のガラスの破片がパラパラと空を舞いました。冷たい水たまりの広がるタイルの床へと次々に崩れ落ちて乾いた音を立てました。
「嘘ばっかり! いつもいつも、そうやって上から目線で私を可哀想な子扱いして!」
無惨に割れた鏡を殴りつけた満月の右手の甲から赤い血がじわりと滲み出しました。
「ほんとは、こんな私と一緒にいるの、面倒なんでしょ!」
満月はついに限界を超えて喉から血がにじむような声で泣き叫び始めました。彼女の底知れぬ深い孤独と激しい見捨てられ不安でした。それが真っ黒な濁流となって個室の狭い空間を完全に埋め尽くしました。
血を流して自分に向かって激しく泣き叫ぶ満月の姿がありました。まるで致命傷を負って逃げ場を失った手負いの美しい獣のようでした。その凄惨な姿を目の当たりにした瞬間でした。陽葵がこれまで必死に積み上げてきた誠実さという名の堅固な氷壁でした。そこにピシリ、ビシリと決定的で取り返しのつかないほどの深く大きな亀裂が一気に走り始めました。自らの指先がガタガタと制御不能な震えを起こし始めていました。
相手を守るためだと思い込んでいた自分のその場の冷静な対応でした。それが逆に目の前の相手の不完全な魂をこれほどまでに深く残酷に抉り取っていたのです。自分の誠実な距離感が彼女を傷つけて大量の血を流させていたという暴力的な事実でした。そのあまりの事の重大さに陽葵の頭の中に恐ろしい真実が稲妻のように奔りました。相手の未来を重んじて深入りを避けるという自分勝手な理屈が完全に崩壊していったのです。
狭い密室の中に満月の荒い泣き声の呼吸と共に吐き出される匂いが充満していました。割れた鏡の破片と満月の手から滴る血の匂いでした。立ち昇る生温かい鉄の匂いがバニラの香水と混ざり合っていました。それがひどく重たい空気の塊となって陽葵の顔面を打ち据えました。それは社会から距離を置くという陽葵の静かな逃避を一切許容しない匂いでした。圧倒的な他者の生の質量が間違いなくそこに存在し続けていたのです。
陽葵はついに自分自身への一つの残酷な結論へと到達しました。これ以上自分を守るための綺麗な嘘で彼女を突き放すことは絶対に許されません。自分がなぜ社会の普通から距離を置き深い関係を拒絶してきたのかという根源的な痛みです。それを彼女の前に完全に晒し出すしかないのだと痛烈に悟りました。理屈や建前をすべて捨てて自分の本当の弱さを目の前の少女と共有するしか道は残されていなかったのです。
狭いトイレの室内で手洗いの蛇口から水滴の落ちる冷たい音が一定の間隔で静かに響いていました。陽葵は大きく開かれた満月の赤い瞳を真っ直ぐに見据えたままひどく緩慢な動作を始めました。自らの白いブラウスの裾へと激しく震える両手を伸ばしました。一番下の小さなプラスチックのボタンに彼女の冷え切った指先が触れました。二人の間に分厚く横たわっていた社会への擬態と自己防衛が完全に崩落しようとしていたのです。
砕け散った真新しい鏡の破片が散らばる冷たいタイルの上でした。もはや引き返すことのできない臨界点へと二人の関係は突入していきました。陽葵の強張っていた呼吸が少しだけ深く吸い込まれました。これから目の前の少女と痛みを分け合うという未知の領域への最初の一歩でした。暗く湿った個室の密室の中で二人の存在だけが異常なほどの鮮明さを保って息づいていました。
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# 第26話 空洞の開示
別館の薄暗いトイレの個室の足元には無数の銀色の破片が散らばっていました。先ほど満月が自らの小さな拳で叩き割った安価な鏡の残骸でした。タイルの窪みにはどこからか染み出した冷たい水たまりが広がっていました。その水面に鋭利なガラスの破片たちが天井の明滅する蛍光灯の光を不規則に乱反射させていました。それは二人の間の限界まで張り詰めた空気を視覚的に切り裂くように白く冷たい光を放っていました。密室の中の酸素の欠乏を錯覚させるほどの極度の緊張感がそこに横たわっていました。
血を滲ませながらさらに何かを喚き散らそうとしていた満月の右手首でした。陽葵はその細い骨格をこれまでにないほど強い指の力で固く握りしめました。陽葵のひどく冷え切った細い指の関節が白く変色するほどに満月の脈打つ手首の皮膚に深く食い込みました。そこから発せられる激しい感情の動揺による小刻みな震えを今はただ力ずくで押さえ込んでいました。それは彼女からの逃避や拒絶ではなく暴走する不完全な魂を必死に現実に引き留めようとする切実な物理的拘束でした。
陽葵はただ満月の右手首を強く握りしめたままもう片方の空いた自らの右手をゆっくりと下へと動かしました。清潔にアイロンがけされた白いブラウスの裾を腰のタイトスカートの中から引っ張り出しました。そしてひどく血の気のない激しく震える指先で一番下の小さなプラスチックのボタンをつまみました。ひどく時間が引き伸ばされたような決して後戻りできない重みを伴った確かな決意の動作でした。その小さな丸いボタンを震えながら一つずつ外していく微細な衣擦れの音が静かな個室の壁に反響しました。
突然の陽葵の予期せぬ行動を間近で目の当たりにして叫び続けていた満月の喉の奥がヒュッと不自然に鳴りました。彼女の頭の中で荒れ狂っていたパニックの濁流が急激に凍りついたようにその全身の動きが完全に不自然に固まりました。涙と過呼吸でぐしゃぐしゃになっていた彼女の赤い瞳孔が限界まで大きく見開かれたまま静止していました。陽葵の白い指先が自らの皮膚を覆う防壁の布を一枚ずつ律儀に剥がしていく不可解な過程でした。それをまるで言葉と呼吸を完全に奪われたかのようにただ無言で凝視し続けていたのです。
ブラウスの前が完全に外れて左右に大きくはだけました。陽葵のひどく青白く痩せ細った不健康な腹部の肌が薄暗いトイレの空間に直接露出しました。湿ってカビ臭い冷たい空気がその無防備で柔らかい皮膚の表面に直接這い上がってきました。通常なら身震いするほどの急激な不快な温度差でしたが陽葵の身体は全く動きを見せませんでした。彼女はさらに自らのタイトスカートの金属製のホックにまで右手の冷たい指先をかけました。その金具を鈍い音とともに外しスカートごと無造作に少しだけ床の方へと押し下げて更なる深部を曝け出しました。
「……よく見て。これが、あなたが私に抱いている、普通の人間だという幻想の答えよ」
陽葵の両唇からこぼれ落ちた声は相手を冷たく突き放すためのものではありませんでした。自分の最も見せたくない脆い部分を強制的に外部へ晒すひどくかすれて切実で震えるトーンの響きでした。自分も目の前のあなたと全く同じようなどうしようもなく暗い穴の底にいるのだという証明でした。血を吐くようなひどく静かで熱を帯びた対等な開示の始まりの合図でした。
陽葵の大きく露出した下腹部の中心から少し下にかけての場所でした。一本の重たくて凄惨な巨大な手術痕が皮膚を盛り上げて赤黒く斜めに横たわっていました。それは彼女が社会の期待する女性としての普通の未来から永遠に切り離されたという個人的な苦痛の歴史そのものでした。これまで決して誰の目にも触れさせまいと衣服の下で必死にひたすら隠蔽し続けてきた最後の防壁の核でした。それを今こうして自分を誤解する他者の暴力的な視線のど真ん中へと無防備に投げ出したのです。
自らが十六歳の春に冷たいメスによって刻み込まれたこの決して消えることのない醜い傷跡でした。それを他者の残酷なかもしれない視線に真っ直ぐに曝け出すというこれまでの人生で初めての経験でした。陽葵の脊髄を強烈な未知の悪寒が駆け抜けましたがこれは決して安っぽい同情を引くための行為ではありません。私もあなたと同じようにひどく不完全で世の中の当たり前の幸せのレールの上でうまく息ができない人間なのだという切実な訴えです。圧倒的で対等な痛みの共有を図るための文字通り自らの身を削るひどく痛ましい儀式だったのです。
そのひどく生々しい赤黒い傷痕が外のひどく冷たい空気に直接触れた瞬間のことでした。何年もの月日が経っているにもかかわらずあの凍りつくような手術台の硬い感触が皮膚の表面に唐突に蘇りました。絶望して泣き崩れる両親の悲痛な顔やすべての他者から可哀想な欠陥品として同情的に扱われた息苦しい日々の痛覚の記憶です。それが鋭い物理的な刃となって陽葵の胃の裏側をこれ以上ないほど強く締め上げました。彼女は無意識のうちに奥歯を強く噛み締めてその過去からの猛烈な記憶のフラッシュバックにただ耐えていました。
陽葵の下腹部に刻まれたその強烈で赤黒く盛り上がった死のような手術痕でした。それを至近距離で正面から目の当たりにした満月でした。彼女の開いた口から肺の底に溜まっていた空気をすべて絞り出してしまうような音が漏れました。かすかな非現実的な悲鳴にも似た「あっ……」というひどく弱々しい震えた呼気の塊でした。それは恐怖や嫌悪ではなく想像すらしていなかった圧倒的な質量の真実を前にして思考機能が完全に停止した瞬間の音でした。
それまで狭い個室内を満たしていた満月のパニックによる叫び声や過呼吸の耳障りな音が完全に消失しました。代わりに奥の手洗いの蛇口の端から水が滴るポタリ、ポタリという無機質な水音だけが支配的になりました。それが異常なほど大きく増幅されて二人の鼓膜を重く打ち据えるようになりました。陽葵の提示したあまりにも重すぎで生々しい事実の巨大な質量でした。それがその場のすべての音を引き込んでは完全に圧殺してしまうような絶対的で重苦しい真空の沈黙空間がそこに生まれました。
陽葵のひどく冷え切った透き通るような青白い肌の中央でした。その盛り上がった赤黒い傷口の周辺の歪んだ皮膚だけがひどく異質な存在感を周囲へ放っていました。まるで体内のすべての血流がそこだけに過剰に集中しているかのようにひどく生々しく赤黒い異常な熱を帯びているように見えました。長年暗闇に固く隠蔽され続けてきた痛みが初めて外の世界の冷気と他者の視線に触れて浅く不規則にドクドクと脈打って主張しているかのようでした。
「私は、病気で子宮を摘出したの。だから私にはもう、あなたがさっき思い描いていたような、普通の人が子供を産んで普通の家族を作る資格や、そんな未来を選ぶ権利は、最初から持ち合わせてなんていないの」
陽葵の極めて静謐で冷たくてひどく血の味のする告白が密室の硬いタイルに小さく反響しました。それは自分自身に残されたいつか普通になれるかもしれないという最後の淡い希望すらも完全に焼き尽くす無慈悲な事実の朗読でした。
自らのこの決定的な身体的かつ社会的な欠落の証明を強く突きつければどうなるか陽葵の冷静な頭は十分に理解していました。満月が一人で勝手に抱き続けていた陽葵は強くて完璧な人間で自分を高みから見下しているのだという一方的な疎外感です。それがこの瞬間に音を立てて木端微塵に粉砕されるという事実を自覚してこの痛ましい言葉を紡ぎました。私たちはどちらも光の当たる真っ当な広い道を堂々と歩くことのできない不器用で壊れた不完全な人間なのだという強烈な宣言でした。
満月の大きく見開かれた眼差しが陽葵の痛々しい傷痕の生々しい縫い目に強く縫い付けられたまま微動だにしませんでした。その小刻みに震える視線は一瞬たりともそこから逸らされることはありませんでした。それは残酷なものへの恐怖や生理的な嫌悪というよりもある強烈な崩壊と再構築の過程を間近で目撃している深い衝撃の色でした。自分がこれまで信じ込んでいた強固で完璧な陽葵という高い壁の偽像が音を立てて瓦解していく瞬間でした。全く未知のひどく脆い一人の傷ついた不完全な人間として目の前で一気に再構築されていくのをただただ目の当たりにしていたのです。
この決定的な評価の瞬間を前にして陽葵の胸の奥の心臓を鋭い不安の氷柱が一瞬だけ冷たく貫きました。陽葵がどれほど不完全で決定的な痛みを抱えた存在であるか満月は完璧に理解したはずです。こんな消えない傷跡を持った女として醜くて不完全な自分を満月は深く失望して激しく拒絶して逃げ出してしまうかもしれないという本能的な恐怖でした。しかし同時にこれでついにもう自分を強くて完璧な人間だと偽る重たい嘘をつき続けなくて済むというひどく澄み切った諦観と安堵感もありました。
しかし次の瞬間陽葵のその悲観的で孤独な予測はひどく静かに裏切られることになりました。陽葵が自らの冷たい右手で固く握りしめ続けていた満月の人肌ほどのぬるい左手首でした。それが陽葵の拘束を強引に振り払ってこの重苦しい密室から外へと逃げ出そうともがく気配は全くありませんでした。むしろ満月の薄い皮膚の下の血管の脈打つ早い鼓動が恐怖からではなく何か別の強い共鳴によって伝わってきました。陽葵の古い痛みに深く打たれたような温かくてひどく力強い生命の波長でした。それが陽葵の冷たい指の腹を通してドクドクと確かな質量を持って暖かく流れ込んできたのです。
自分よりもはるかに強くて立派な人間だと思い込んでいた陽葵でした。そのひたすらに隠された最大の決定的な傷跡を目前に突きつけられた満月は決して陽葵を哀れむことも目を逸らして顔を背けることもしませんでした。ただ陽葵の傷痕に真っ直ぐに縫い付けられた自らの赤い瞳の奥底に得体の知れない熱い涙の膜をポツリと広げました。陽葵と他者を隔てていた最後の冷たい防衛線である絶望がその一滴の熱い涙によって静かにゆっくりと溶解し始めようとしていました。
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# 第27話 誠実さの刃
別館の古いトイレの狭い個室の中は完全に時が止まっていました。カビの不快な匂いと絶え間ない水漏れの音だけが現実感を僅かに繋ぎ止めていました。それ以外の一切の環境音が完全に排除された地獄の底のような空間でした。陽葵が自らの手で剥き出しにした赤黒い手術痕の凄惨な光景が広がっていました。その絶対的な欠落の証明が二人の間の客観的な時間の流れを完全に凍結させていたのです。どこまでも深く重苦しい沈黙がその場を完全に支配し尽くしていました。
陽葵はただ無言のまま自らの醜い欠陥を見つめる満月を見下ろしていました。極度の緊張と恐怖で激しく震えそうになる自らの声帯を強靭な意志の力で完全に制御しました。最後にして最大の拒絶の言葉を短く出力するための準備でした。これまでの人生で最も残酷なトーンを慎重に選び出しました。相手の魂を根本から破壊し尽くすための冷え切った音声データの構築でした。
「私はね、満月」
陽葵の口から滑り落ちたのは氷のように冷たくて鋭い言葉の刃でした。
「あなたのように普通に恋をして結婚して、お母さんになって自分の子供を抱くという……」
陽葵はほんの少しだけ息を飲み、そして最後の一撃を完全に振り下ろしました。
「当たり前の女の子としての素晴らしい未来の可能性を完全に奪い取る、ただの身勝手な加害者なんです」
それはおよそ愛の言葉などとは対極にある致命的な呪いの宣告でした。相手が持つべきであろ輝かしい人生の可能性を土足で容赦なく踏み躙る行為でした。健康な未来を持つ少女を自分だけの不浄な地獄へと強引に引きずり込むための鎖でした。陽葵自身の心臓さえも切り刻むような誠実さの最悪の形態でした。真っ暗な絶対的孤独の空間へと鋭く振り下ろされた絶望のナイフそのものだったのです。
陽葵のシステムは冷たい計算予測をすでに完全に終えていました。このあまりにも恐ろしい呪いの言葉を直接耳にすれば誰もが逃げ出します。どれほど自分に対して異常に依存していた満月であっても例外ではないはずでした。さすがに恐怖と致命的な嫌悪感に美しい顔を醜く歪めるだろうと確信していました。そしてこの不浄な密室から一目散に外の光の世界へと逃げ出していくはずだったのです。陽葵はただその凄惨な別離の瞬間を静かな諦観とともに待ち構えていました。
ところが彼女の緻密な予測システムはここで完全に裏切られることになります。陽葵の腹部のグロテスクな傷痕をただじっと凝視し続けていた満月の反応でした。彼女は決して恐怖に怯えることも後ろへと退くこともありませんでした。泣きはらして真っ赤に充血した瞳のまま、ひどくゆっくりとした動作を始めました。しかしその動きには一切の迷いがない絶対的な確信が満ちていました。自らの細くて熱を帯びた指先を陽葵の下腹部の方へと真っ直ぐに伸ばしてきたのです。
満月の震える冷たい指先が陽葵の青白い肌に直接触れました。赤黒く盛り上がって無惨に縫合されたあの凄惨な手術痕の凹凸の上でした。まるで世界で最も壊れやすくて神聖な宝物にでも触れるかのような手つきでした。一切の躊躇いがなく極めて優しくその醜い傷跡の輪郭をなぞり始めたのです。
自分の最も醜悪で完全に隠蔽すべき絶対的なエラーの象徴である墓場でした。そこに他者の予測不能な体温が直接侵入してきた瞬間のことでした。背筋を駆け上がるような強烈な悪寒が一気に全身の神経回路を突き抜けました。そしてそれと同時にシステム全体が甘く痺れるような未知の異常な肯定感に包まれました。その二つの相反する巨大な情報処理に陽葵の論理回路は完全にショートしてしまいました。
陽葵が信じられない思いで満月の顔をゆっくりと見下ろしました。そこにあったのは陽葵が計算していたような恐怖や嫌悪の表情では決してありませんでした。自分が陽葵の求める普通の世界の代用品ではないという確信でした。自分だけがこの絶望の底で彼女の唯一無二の存在になれるのだという気付きです。狂気に満ちた恐ろしいほどの幸福感と恍惚の表情が満月の顔に浮かび上がっていたのです。
「……陽葵がここから全部なくなって、からっぽになったのなら」
満月は陽葵の最大の絶望の空洞を完全に見事に逆転させてみせました。
「わたしが、わたしの全部で、そこにすっぽりと入ってあげるよ」
自分だけが彼女を独占できる物理的証明としての恐ろしい解釈でした。底知れず重い絶対的な歓喜の響きをもって満月は暗闇の中でそう囁いたのです。
その決定的な宣告の言葉を聞いた瞬間にすべてが変質しました。陽葵がこれまで自分自身を罰しそして他者を遠ざけるために使ってきた防衛線でした。誠実さという名の鋭い刃がシステムの中で完全に意味を反転させました。満月の抱える凄惨な魂の孤独とカチリと完璧な音を立てて噛み合ったのです。二人を地獄の底で永遠に結びつける唯一の強固な鎖へと完全に変容を遂げました。
陽葵の高度な論理回路全体にある破滅的なシステムコードの真理が駆け巡りました。自らの子宮がないという絶望的な欠落こそが最大の武器だったという真実です。この美しい狂気に満ちた異物を完全に絡め取ってしまうための仕掛けでした。自分のもとへ永遠に繋ぎ止めるための最強の引力を放つブラックホールとして機能したのです。その恐ろしい論理の帰結に陽葵は言葉を完全に失いました。
陽葵は満月の過剰な肯定と絶対的な受容の圧力にシステムが完全に耐えきれなくなりました。両脚から急激にすべての力が抜け落ちていきました。冷たくて不衛生な個室のタイルの床へ向かってそのまま静かに崩れ落ちました。まるで神の奇跡を目の当たりにして祈る信徒のような姿勢でドサリと膝をついたのです。
常に氷零下で論理を保ち続けてきた陽葵の完璧なシステムが完全に決壊しました。感情のノイズを完全に封殺していたはずの彼女の両目からの溢出でした。取り返しのつかないシステムのエラーを告げる熱くてしょっぱい大量の涙の雫でした。それが次々と溢れ出し彼女の青白い頬を濡らして床のタイルへと激しく落ちていきました。
もはや陽葵の視界は大量の涙で完全にぼやけて使い物にならなくなっていました。目の前にいる満月の美しい輪郭すら正確に認識できないほどの状態に陥りました。しかしただ一つだけ確かな情報が彼女の肌から直接伝わってきました。それは満月の放つ暴力的なまでの絶対的な安心感と圧倒的な熱量でした。その温もりが自らの空洞の奥底にまで直接的に深く深く響き渡っていたのです。
膝をついて子供のように泣きじゃくる陽葵の身体を満月の細腕が捉えました。陽葵の背骨を砕いてしまいそうなほどの強い執着の引力でした。まるで自分の獲物を完全に捕食するかのような恐ろしいほどの力強さでした。満月は陽葵を強く強く暗闇の中の自らの胸郭へと抱き込んでいきました。
陽葵はもはやこの美しい化け物の引力から自らを切り離すことを諦めました。光の世界へと一人で生還するという論理的で健康的な判断能力の一切を完全に手放しました。二人きりでこの理不尽な泥の底へと永遠に一緒に沈んでいくことを決めたのです。究極のバグであり純粋な狂気の選択を彼女はついに完全に受け容れました。
タイルの床に座り込んだまま互いの生々しい傷口を剥き出しにして泣き濡れる二人でした。その顔がまるで磁石の絶対的な+と−極のように抗いようのない引力で近づいていきました。ゆっくりとそしてひどく凄惨な静けさの中で二人の運命が完全に交差しようとしていました。
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# 第28話 涙の味
別館の古いトイレの密室空間を満たしていた破壊的で切迫した叫び声は完全に途絶えていました。今はただ二人の静かなしかし確かな熱を持った荒い吐息だけが狭い個室に響いていました。床の中央に広がる冷え切った水たまりの上に座り込んだままでした。二人の身体はまるで一つのひび割れた彫刻が元の形を取り戻したかのように分かち難く深く抱き合ったまま静止していました。二人を隔てていた分厚くて冷たい防衛線が完全に溶解し切った後のどこまでも静かで満ち足りた真空空間のようでした。
満月の細くてしなやかな両腕が陽葵の華奢な背中を崩れ落ちないようにしっかりと支え続けていました。その確かなぬくもりの中で陽葵は自らの大量の涙でひどく濡れた顔をゆっくりと上げました。二人の顔の距離はもはや互いの鼻先が僅かに触れ合うほどの極限の近さまで自動的に引き寄せられていました。互いの睫毛の震えさえも直接肌で感じ取ることができるほどの圧倒的な距離感でした。その隙間に冷たい外気が入り込む余地はもはや一ミリも残されていませんでした。
陽葵の視界はいつまでも後から溢れ続ける感情の涙でひどくぼやけて滲んでいました。しかし重なり合うほど近くにある満月の大きく開かれた瞳の中心だけが鮮明に彼女の網膜を強く捉えてきました。その赤い瞳の奥には陽葵の巨大な痛みを可哀想だと見下すような濁った同情の光は微塵もありませんでした。ただ真っ直ぐに彼女の抱える不完全な存在そのものを肯定し深く自分の内側へと受け入れようとする純粋な強い意志の静けさがありました。
満月の少しだけ開いた熱い唇が陽葵のひどく泣きはらして震えている薄い唇へと滑るように押し当てられました。そこに一切の躊躇や恐れによる迷いはありませんでした。最初の柔らかな接触は様子を探るような浅いものでは決してありませんでした。自分の最も大好きな他者の抱える深い傷跡にそっと直接触れようとする確かな重さを伴った優しくて深い唇の重なりでした。それは二人の間のすべての嘘を打ち消すための明確な物理的証明でした。
満月の柔らかい唇から伝わってくる不器用で微かな高い体温でした。それが陽葵の長年ずっと凍りついて麻痺していた感覚器官をゆっくりと内側から溶かし始めました。思春期からずっと他者の同情を徹底して拒絶し続けてきた彼女のひどく強張っていた全身の防衛のための筋肉でした。それがその真摯な熱量によって少しずつ解きほぐされるようにゆっくりと弛緩していったのです。ひどく心地の良い麻酔のように抗いがたいぬくもりが静かに隅々まで浸透していきました。
塞がれた口内をいっぱいに満たしたのは二人から流れ落ちた大量の涙のひどくしょっぱい味でした。そこに満月の体温から立ち昇る微細な潮の匂いが混ざり合っていました。それは決して明るく甘いロマンチックな夢のようなキスなどではありませんでした。互いの底知れぬ孤独と痛みを直接お互いの舌の先で確認し合うような不器用で切実な命の擦り合わせの儀式のようでした。社会から疎外された二つの魂が寄り添うための泥臭くて美しい最初の契約だったのです。
陽葵の頭の片隅にはまだ辛うじて冷徹な理性の残骸が微かに機能していました。自分のような欠落した人間はこの真っ直ぐな少女と一緒にいる資格などないのだという自責の強い本能でした。しかしそれも満月の深くて優しいキスの引力に完全に巻き込まれついには音を立てて跡形もなく完全に崩れ去るのを感じていました。陽葵はついに残されたわずかな自制心も手放し満月の細い首裏へと自らの震える両手を回してその不完全な存在に強くしがみついてしまったのです。
二人の泣きはらした不規則な呼吸がぴったりと塞がれた唇を起点にして徐々に深く静かに同調していくのを感じました。陽葵が苦しげに熱い息を吐き出すとそれを満月がすべて受け止めるように優しく自らの肺へと吸い込みました。そして満月からの温かい甘い呼気が陽葵の震えるひび割れた喉の奥底へとそっと大切に送り込まれてきました。それはもはや二人の命の境界線がどこにあるのかすら曖昧にしてしまうほどの深い呼吸の交換でした。
陽葵の下腹部にある決して満たされることのない巨大な喪失の痕跡である空洞でした。その暗い底の奥へと満月が注ぎ込んでくる過剰なまでの不器用な愛情の熱量が静かに沁みとどまるように流れ込んでくるのをはっきりと体感しました。自分が一生隠して孤独に生きていくはずだった一番醜い傷跡のすべてでした。それが今この瞬間だけはこの少女によって何よりも大切なものとして愛でられているという奇跡のような錯覚にとらわれていました。
陽葵の細い身体から完全にすべての強張りと抵抗の芯が抜け落ちました。その体重のすべてが満月の確かな熱を持った腕の抱擁の中へと静かに完全に沈み込んでいきました。もはや一人で強がって立ち上がるための虚勢の鎧は一枚残らず完全に剥がれ落ちていました。冷え切った水浸しのタイルの上であることもすっかり忘れてただ満月の優しい熱源へと心から身を委ねるように深くしなだれていました。
個室の外に広がる世界からは廊下を歩く誰かの足音や遠くの学生たちの賑やかな話し声が微かにドア越しに聞こえていました。つい先ほどまでその音は自分を普通になれと急き立てて押し潰そうとする恐ろしい社会の圧迫ノイズでした。しかし今この確かな腕の中に自分を無条件に受け入れてくれる他者の存在を感じている陽葵の耳には違って聞こえました。その音はもはや自分たちを傷つける刃ではないただの通り過ぎていく遠い背景音へと完全に性質を変えていたのです。
永遠にも感じられたひどく長くて切実な接触の後でした。息も絶え絶えになった二人の濡れた唇がほんの少しだけゆっくりと名残惜しそうに離れました。互いの赤く腫れた唇からこぼれるひどく荒い吐息でした。それが暗い個室の中で二人の決して逃れられない共有の証として白く交差して結びついていきました。二人の間に再び入り込んだ冷たい外気すらももはや二人を冷やすことはできないほどに熱を帯びていました。
「……もう、一人で全部背負い込まないでね。ひまり」
満月の涙で潤んだ赤い瞳が陽葵の手の届く至近距離で静かに見つめ返してきました。その言葉はひどく泣き濡れて震えていましたが全く迷いや強がりのない確かな強い意志を持った囁きの声でした。
その決定的な言葉を至近距離で聞いて陽葵は自らの深いところで完全な敗北と救済を自覚しました。自分はこれから先も一生一人で冷たい夜を生き抜いていかなければならないのだという凍てついた諦観でした。それを今この瞬間永遠に手放したのだとはっきりと認識したのです。この不器用で傷ついた美しい少女と共になんとか不完全なままの世界を二人で這いずってでも生きていこうという覚悟が静かに決定づけられました。
陽葵の下腹部の赤黒い手術痕がもはや自分を社会から疎外する絶望の欠落としてではなくじんわりと温かく脈打っているのを感じました。満月というかけがえのない他者と深く結びつくためのかけがえのないきっかけを与えてくれた痛みの歴史としての脈動でした。陽葵の中で長年一人で抱え込んできた大きな痛みが他者と共に明日を生きるための確かな錨へと静かに昇華されていったのです。
陽葵はもはや震えの完全に止まった自らの指先をゆっくりと前へと伸ばしました。満月の涙で汚れ先ほどの鏡の破片で小さなかすり傷を負ってしまっていた白い頬を優しく親指の腹で撫でました。
「ええ……もう、逃げないわ。あなたの前からも、自分の、この身体からも」
陽葵の口から初めて自分の痛みを他者へ差し出す安堵と誓いの声がこぼれました。
その答えを聞いた満月が再び嬉しそうに小さな嗚咽の声を漏らしました。陽葵の細い首筋にひどく強く顔を埋めてその全体重を預けてきました。足元の水たまりの冷たさなど気にも留めず二人は社会の普通という枠からはみ出してしまった互いの存在を確かめ合うように再び深く抱き合いました。
古い別館の壁を打つ時計の針が重い音を立ててゆっくりと進んでいました。もはや自分は不幸な欠陥品だという孤独な嘘の世界へ一人きりで戻る理由を完全に失った二人の姿がそこにありました。この冷たくて暗い密室の底から明日をどうにかして生きるための二人きりの第一歩を踏み出そうと確信した瞬間でした。自分たちだけのための新しい確かな砦を築くための静かな夜の始まりを告げていました。
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# 第29話 新しい朝の光
陽葵の住む味気なかったワンルームアパートの室内の空気はあの出来事から数日のうちに見事に変容していました。もともと生活感の薄かった無機質な一人暮らしの空間でした。そこに今は満月の脱ぎ捨てられた明るい色のカーディガンや派手なメイクポーチが無造作に置かれていました。しかしそれらは決して自分のテリトリーを侵す不快な異物ではありませんでした。ひどく温かな生活の確かな色彩として部屋全体を柔らかく彩っていました。それは社会から切り離された孤独な暗室ではなく二人の命が確かに交差する陽だまりのような空間でした。
朝の七時を少し回ったところでした。窓辺の薄手のカーテン越しに秋のひどく澄んだ爽やかな光が差し込んでいました。陽葵は小さな狭いキッチンに立って二人分のコーヒーを丁寧に淹れていました。手動のミルで豆を挽く時の微かな心地良い振動が腕を伝わってきました。そこから立ち上る香ばしくて深い苦味が陽葵の冷えやすかった指先を中からじんわりと温めていました。それは逃避や絶望の末の狂気的な朝ではなくひどく穏やかで等身大の日常の始まりの風景でした。
陽葵の背後にある小さなシングルベッドの上でした。そこでは満月が少しはだけた薄いパジャマ姿のまま陽葵の枕を愛おしそうに抱きしめて健やかな寝息を立てていました。かつてのようにいつも何かに怯えてすがるような丸まった寝姿勢ではありませんでした。無防備に手足をだらしなく広げたひどく安心しきった幸福な寝相でした。それは自分の不完全な魂がここでは決して見捨てられないのだという絶対的な信頼からくる深い眠りの形でした。
陽葵はコーヒーポットを持つ手を静かに止めてキッチンの小窓から外の世界を見下ろしました。通りの向こうのバス停へと急ぐ通勤客や学生たちの姿が見えました。以前の彼女ならその真っ当な社会の歯車として機能する群れを見て激しい疎外感を覚えていたはずでした。自分がそこから永遠に脱落しているという致命的な欠落の焦燥感に胃を痛くして冷や汗を流していたはずだったのです。
しかし今の陽葵の喉の奥には不思議なほど全く痛みがありませんでした。自分はあの普通と呼ばれる群れには到底入れない不完全で傷だらけの人間です。しかし今は背後に自分のその不完全さを丸ごと愛してくれるひどく温かくて確かな重力が間違いなく存在していました。その揺るぎない事実が社会に対する恐怖の圧力を静かに跳ね返していました。この部屋は社会から逃げて隠れるための泥沼ではなく外の厳しい風に再び立ち向かうための自分たちだけの確かな安全基地だったのです。
「……ひまり、こっちきて」
背後のベッドから少し鼻声のしかしひどく甘えたような満月の声が静かに響きました。陽葵が振り返ると目を半分しか開けていない満月が毛布の中から細い腕をこちらへと真っ直ぐに伸ばしていました。
陽葵はキッチンの火を止めて真っ白なマグカップをカウンターにそっと置きました。そして足音を忍ばせて冷たいフローリングを歩きベッドへと歩み寄りました。伸ばされた満月の熱い手首を自らの両手で優しく包み込むように握りました。そのまま彼女のベッドの端へとそっと体重を預けて腰を下ろしました。そこにはもはや相手を突き放すための冷たい誠実さの壁は一ミリも存在していませんでした。
満月が嬉しそうに身をよじって陽葵の細い腰に自らの熱い頬を擦り付けてきました。彼女の柔らかい首筋から香る甘いバニラの香水でした。そこに陽葵の服に染み付いたコーヒーの香ばしい苦い匂いが混ざり合いました。それらが朝の澄んだ光の中でひどく自然にそして穏やかに調和していました。全く異なる二つの痛みを抱えた不完全な命がこの空間でだけは完璧な形として互いを補い合って満ち足りていました。
陽葵はもはや誰に対しても頼りになるしっかりした先輩や他者思いの誠実な人間という重たい鎧を着ることを完全にやめていました。満月が今自分に対してそうしているのと同じでした。陽葵もまた自分のひどく冷たい指先を満月の温かい頬の肌に遠慮なく押し当ててただその熱を分け持ってもらうという無防備でわがままな甘えを素直に許容できるようになっていたのです。
「……スマホ、鳴ってるよ」
満月が少し不満そうな顔をしてベッドの横のサイドテーブルを指さしました。陽葵のスマートフォンの画面が微かに光っていました。そこには最近不自然に連絡を絶っている陽葵を心配する森先輩からのメッセージの着信が表示されていたのです。それは陽葵を現実社会の真っ当な人間関係に引き戻そうとする光の世界からの明確な呼びかけでした。
以前の陽葵であればここで瞬時に冷徹な社会への擬態のスイッチを入れていたことでしょう。満月の心から目を逸らして適当で誠実な嘘の返信を打ってその場を取り繕っていたはずでした。しかし陽葵は満月の様子をじっと確かめるように彼女の赤い瞳と真っ直ぐに視線を交わしました。そしてゆっくりとした動作で迷いなくスマートフォンを手に取りました。
満月は少しだけ不安そうに陽葵の顔を引き攣らせて見上げました。自分たちのこの完全な世界が外の光の住人によって壊されてしまうかもしれないという怯えでした。しかし決してスマートフォンの画面を覗き込もうとしたり陽葵の手を止めようとして暴れたりはしませんでした。彼女もまた陽葵の自分に対する絶対的な愛情を痛いほど信じようと必死に努めていたからです。
自分はもう森先輩のような光の世界の真っ当な住人たちに必死に歩幅を合わせて心をすり減らしながら無理な笑顔を作る必要はないのだ。陽葵の心臓をずっと縛り続けていた透明で重たい糸が音を立てて完全に解け落ちました。自分はこの不器用な少女と共に生きるために社会に対して新しい自分たちなりの無理のない距離感を取り結んでいくのだという確信でした。
陽葵は満月の前で隠し立てすることなく画面に向かって短い返信を打ちました。「心配をおかけしてすみません。でも、私には今、一番大切にしなければならない人がいるので、しばらく少しお休みをください」。それは誰かへの言い訳や弁明ではなく自分自身の今を誇りを持って肯定するひどく強くて静かな宣言でした。社会の期待に応えるための嘘の自分を完全に手放した痛快な決別の言葉でもありました。
メッセージを送信し終えて伏し目がちになった陽葵の横顔でした。窓の隙間から差し込む朝の黄金色の光がひどく優しく柔らかく照らし出しました。その光はかつて彼女を普通の正解のルートへと急き立てるような暴力的な圧力のシャワーではありませんでした。ただそこにある彼女たちだけの静かな命の営みを静かに肯定し祝福するような暖かな優しい温度を持っていました。
「……ちゃんと、言えたよ」
陽葵がスマートフォンを完全に裏返して伏せひどく穏やかに微笑みました。満月はそれを聞いて心底安堵したように肺から深く息を吐き出しました。陽葵の膝に再び自分の顔を埋めて静かに泣き笑いのような声を漏らしました。「うん。陽葵は、ほんとに不器用だね」。それは社会ではうまく生きられない自分たちのひどく愛おしい不器用さへの最高に優しい賛歌でした。
陽葵はこれでようやく自分をこれ以上傷つけずに社会と向き合う準備ができたのだと深い部分で実感しました。大学を辞めてこの暗い部屋へ閉じこもるための隔離生活では決してありませんでした。傷ついた二人が再び外の厳しい世界の風に打たれて歩き出すための強固で最高に温かいテントがここに完成したのです。前へ進むための十分なエネルギーが二人の間に静かに充填されていくのを感じました。
窓の外では始発のバスが重たいエンジン音を響かせて通り過ぎていきました。新しい朝の始まりを告げる小鳥の声が遠くの木々から静かに響いていました。二人が互いの体温を分け合うこの小さなアパートの部屋の中だけは外の世界のノイズに侵されない絶対的な安全地帯でした。しかしその部屋の玄関の扉は決して外の世界に向かって固く閉ざされてはいませんでした。いつか二人でそこを開けて歩き出すための確かな未来の予感が部屋を満たしていました。
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# 第30話 歩き出すための選択
薄手のカーテン越しに朝の爽やかな明るい光が陽葵の狭いワンルームの部屋へと真っ直ぐに差し込んできました。その強い光は床に散乱したブランド物の服の山や読み捨てられた百合小説の束を容赦なく照らし出していました。ひどく乱れて皺くちゃになった大きなシーツの有様までもが生々しく浮かび上がっていました。しかしそれは決して堕落や無機質な絶望を示す風景ではありませんでした。どこまでも温かくひどく肯定的な新しい生命の営みの温度として照らし出していたのです。
陽葵はゆっくりと少しだけ重たい瞼の裏をこすって開けました。自分にぴったりと寄り添うようにして静かな寝息を立てている満月の顔をまばたき一つせずにじっと見つめました。外の道路からは通勤の車のタイヤがアスファルトを擦る大きな摩擦音が絶え間なく響いていました。しかしこの自分の腕の中にある小さな他者の体温だけは外界の喧騒から完全に隔離されていました。ひどく静かで侵すことのできない絶対的な平穏な空間をそこに作り出していました。
満月の細い腕が陽葵の肋骨に軽く押し当てられていました。彼女の素足が陽葵の被っているシーツに重く布ずれの音を立てて絡みついていました。かつては他者の体温を自分の乱れない心をかき乱す不純物として激しく拒絶してきた陽葵の身体でした。それが今やこの不器用で柔らかい他者の温もりがなければ自分の一日の始まりすら実感できないほどでした。この新しい重力にひどく優しくそして深く順応してしまっていたのです。
完全に目覚めたクリアな頭で陽葵特有の冷徹で計算高い事実確認の機能が静かに稼働し始めました。自分が昨日までで約一週間も大学の講義を完全に無断で欠席しているという重たい事実です。両親が何気なく電話口で口にするであろう将来や就職という言葉からもうこれ以上逃げ隠れできないという事実でした。それは社会がひどく一方的に規定する普通の女性として生きるプレッシャーでした。それを自らの意思で完全に手放してしまったという清々しくも生々しい証明の確認作業でした。
この先やってくるであろう親からの深い失望の溜息や社会からの好奇の目を正確に想像していました。しかし今の陽葵の胃の底には不思議なほど一切の恐怖による冷え込みを感じませんでした。むしろすべての隠蔽物を外に曝け出したことによるひどく澄み切った秋の風のような軽やかさがありました。それが陽葵の胸の奥全体を満たして静かに隅々まで広がっていくのを感じていたのです。
陽葵は自分の胸元にうつ伏せで顔を向けている満月のサラサラとした金色の髪の毛に触れました。自らの少し温まり始めた指先でその柔らかな髪を梳くようにゆっくりとなぞり始めました。指の間に絡まるその細い毛束の絹のような心地良い滑らかさでした。そこから立ち昇る甘い香水の微かな寝起きの残香が陽葵の呼吸を深く穏やかなものへと変えていました。
陽葵の優しく撫でる指先の心地良い動きに反応するように満月が寝言を漏らしました。小さく「んん……」とかすれた甘い声を響かせてさらに陽葵の体温を求めてきました。自分の細い身体を陽葵の身体に直接すり寄せてひどく深くしっかりと抱きついてしがみついてきたのです。
陽葵はこの恐ろしく傷つきやすく脆い少女を守らなければならないと強く決意していました。しかしそれは決して彼女を自分だけの所有物としてこの暗い部屋の奥へと永遠に閉じ込めるような真似ではありません。ひどく静かでそして強靭で力強い自立への覚悟でした。私たちがようやく手に入れたのは暗闇から逃げ込むための底なしの泥沼ではありません。再び外の明るい光の下を二人で胸を張って歩いていくためのひどく丈夫で温かい靴なのだという確信でした。
ここに至り自分を十代の多感な頃からずっと孤独な底へと呪縛し続けてきた痛みの記憶でした。子どもを絶対に産むことができないという身体の決定的な欠落の精神的な意味の反転です。それが陽葵の認識の中で完全に美しくパラダイムシフトを起こしていました。それはもはや一生悲しみ続けるべき身体の致命的なエラーの傷跡などではありませんでした。満月という他者の抱える深い痛みを世界中の誰よりも深く理解し寄り添うためです。自分にだけ特別に与えられた大切な共感の余白なのだという希望に満ちた強い再解釈でした。
パジャマのズボンの布のすぐ下であの醜いと言い聞かせてきた赤黒い手術痕の周辺の皮膚でした。それが満月の熱い体温を直接間近で感じ取ってまるでそこに新しい生命力が芽吹いたかのようでした。ドクドクとひどく暖かく穏やかな強い鼓動を脈打って主張し始めていたのです。
陽葵はその古傷の奥の熱を満月の脈打つ熱と完全に一体化させるように動きました。自らの細い両腕を満月の華奢な背中にそっと隙間なく回しました。決して相手を痛めつけることのないひどく大切で慈しむような優しい力加減でした。自らの身体へと満月の不器用な身体を優しく静かに密着させて引き寄せました。
陽葵のその優しい抱擁の大きな力に押されて満月の長いまつげが小刻みに震えました。やがてゆっくりとその涙で潤んだ赤い瞳が朝のまばゆい光にさらされて見開かれました。その寝起きの焦点の全く合わない視線が真っ直ぐに陽葵の顔の輪郭を捉えました。そしてふにゃりとだらしない無防備でこの世の誰よりも幸せそうな笑みへとゆっくり歪んでいきました。
「おはよう、陽葵……」
満月が完全に寝惚けたままの可愛い顔をこちらへと不用意に近づけてきました。陽葵の白い頬に無造作にしかしひどく体重の乗った重くて甘いキスを一つポツリと落としました。その仕草からはかつてのような自分がいつか見捨てられるのではないかという不安からくる必死さは微塵も感じられません。深く根を張った絶対的な信頼の匂いだけが周囲に漂っていました。
「おはよう、満月」
陽葵は自分の口角からこぼれ落ちた微かな乾いた笑い声を自覚しました。ひどく静かで全く揺るぎのない真っ直ぐな声で彼女へと応えました。
「私ね、どうやら本当に、一生一人で生きるつもりだった孤独な計画を、完全に崩されてしまったみたいなの」
それは他者と一緒にこの先も生き続けるという陽葵の完全な降伏宣言でした。
満月はその陽葵の重たい決意の言葉の意味を正確にすべて理解したはずでした。しかし彼女はそれに対して少しの驚きの声も大げさな反応を示すこともありませんでした。むしろこれでようやく陽葵が本当の意味で自分の隣の低い土地へと降り立ってくれたのだと安堵したようでした。再び陽葵の胸に深く顔を埋めて喉の奥で優しく満足そうに息を吐き出しました。
これで自分は普通の女性であることを期待される家族の価値観から完全に脱落しました。厳しい偏見の風の吹く場所へと真っ直ぐに立たされることになるはずでした。しかし陽葵の胸の奥にあるこの恐ろしく温かくて重たい満月との絶対的な絆と引き換えにするのであればどうでしょうか。社会的な普通という薄っぺらい見栄などという代償は驚くほど取るに足らないものだと結論づけられました。彼女の中で最も理路整然とした幸福の計算が瞬時に弾き出されたのです。
陽葵は今日から再びあの海嶺大学へと重たい足を運んで行くことをっきりと心に決めました。森先輩や杏菜たちという社会の真っ当な友人たちの前にきちんと顔を出して向き合うという決断でした。それは決して逃げて偽りの自分を演じ続けるためではありません。自分が自らの強い意思で選び取ったこの不完全で尊い絆をただ堂々と世界の中で証明していくための始まりでした。
暴力的なまでに明るい朝の真っ白な陽光が差し込むシーツの上でした。二人は完全に互いの存在だけを信じ合いながらゆっくりと深く抱き合い続けていました。それは社会の暗い洞窟の奥深くへと退行していくための時間ではありませんでした。これから始まる彼女たちだけの新しいそして厳しい太陽の下の人生へと力強く再び歩み出すための準備でした。そのための短くてひどく優しい休息の終わりの時間が静かに確かな音を立てて告げられていました。
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# 第31話 朝の来ない部屋
陽葵の住むワンルームアパートは昼間の明るい時間帯であっても厚手の遮光カーテンが固く閉ざされたままでした。外の秋の澄んだ光や街の喧騒が部屋の内部へ入り込むのを完全に遮断していました。しかしその薄暗くてひどく隔離された空間にはかつてのような息苦しい人間関係の澱みや社会からの逃避の重苦しさは微塵もありませんでした。代わりにピンと張り詰めたような心地よい静寂とある種の清浄な熱気がその場を満たしていました。ノートパソコンの青白いバックライトが放つ硬質な知の光だけが部屋の空気をひどく透明に研ぎ澄ましていたのです。
陽葵はデスクに向かって真っ直ぐに背筋を伸ばして固い木の椅子に深く腰掛けていました。ターン、タタタタというプラスチックが弾ける規則的で一切の淀みがないタイピング音が静かな壁に一定のリズムで反響し続けていました。彼女の細くてひどく冷え切った指先はまるで熟練のピアニストのようにキーボードの配列の上を滑るように正確に叩き続けていました。自分の頭の奥底に沈殿している重たい記憶の塊たちを次々と明朝体の黒い文字という形のある記号へと白い画面の上に絶え間なく打ち出し続けていたのです。
現在陽葵がひどく熱中して狂ったように書き進めているのは大学のゼミに提出するための無機質な卒業論文ではありませんでした。それらと並行して彼女の中でどうしても形にしなければならないという強固な使命感とともに生まれ始めた一本の小説でした。それは他でもない陽葵自身が十代の頃の手術台の上で残酷に体験したあの大きな喪失の物語でした。それを抱えてひどく不器用な満月という少女に出会うまでの血を流すようなひどく個人的で生々しい痛みの記録そのものだったのです。
かつてはその出来事を頭の片隅で思い出すだけで強烈な胃液が逆流するような深い絶望と激しいパニックを伴っていました。自分はどうせ一生普通になんてなれないというあの残酷で冷たい呪いの過去の記憶たちでした。それが今の陽葵の指先を通ってパソコンの白い画面上で一つ一つの精緻で客観的な言葉の羅列へと着実に変換されていきました。その過程で自分自身を内側から切り刻んで破滅させていた猛毒の性質を完全に失っていきました。それはもはや陽葵を殺す刃ではなく自分自身を救済するためのただの美しい物語の素材へと静かにゆっくりと昇華されていくのを感じていました。
キーボードを叩き続ける陽葵のすぐ背後から新しく丁寧に手回しのミルで挽かれたコーヒー豆の芳醇で深い苦い匂いが漂い始めました。それは部屋の澄んだ空気を乱すことなくゆっくりと空間全体に行き渡っていきました。タイピングのリズムを決して遮らないように気遣うようなひどく慎重に細くお湯を注ぐ小さな水音が微かに背中越しに聞こえてきました。それはこの孤独な執筆作業が自分一人の冷たい閉鎖空間で行われているものではないことを証明する確かな命の生活音でした。
満月が自分の足音を立てないように靴下を履いた足で爪先立ちになりながら陽葵の小さなデスクの横へとそっと近づいてきました。彼女の両手には濛々と白い湯気を立てる大きさが不揃いな二つのマグカップがひどく丁寧に大切そうに握られていました。満月は陽葵の鬼気迫る作業の邪魔にならないようデスクの端の書類が置かれていない安全なスペースを慎重に見極めました。そこへ音を立てないようにそっと陽葵の分の白いマグカップを置きました。
陽葵は目の前の白い画面の文字列から決して視線を外さないままでした。それでも満月が自分のすぐ横にそっと置いたそのマグカップから放たれる温かさを右の頬で確かに感じ取っていました。以前の情に飢えていた満月であれば自分がこうして仕事に集中して構ってやらないと強い見捨てられ不安からすぐに不満を漏らしてパニックを起こしていたはずでした。
しかし今の満月の佇まいからは陽葵を束縛しようとする焦りや不安の棘は完全に消失していました。むしろひどく静かな熱波のようなものが伝わってきました。陽葵が自分の救済の物語でもあり二人の痛みの歴史でもあるこの記録を必死に紡いでくれているという絶対的な安心感と深い誇りの念でした。それは自分たちがここに存在しているという確かな証明の儀式を陽葵が代行してくれていることへの深い感謝の熱量となって陽葵の背中を暖めていました。
「……ありがと」
陽葵がタイピングに合わせてキーを激しく打つ両手を一瞬だけ小刻みに止めてひどく小さな掠れた声で呟きました。その声がかき消えそうになる前にすぐ背後から安心しきった満月の声が降ってきました。
「ううん。頑張ってね」
それは陽葵の作業を一切邪魔したくないというひどく穏やかで満ち足りた静かなる囁きでした。
この厚手のカーテンを完全に閉め切って昼夜の感覚すらも曖昧になった暗い部屋の中での密室の時間でした。それはもはや過呼吸を起こして社会という戦場から永遠に逃亡するための破滅的な引きこもりの時間などではありませんでした。自分たち二人が受けた深くて生々しい傷跡を一度完全に外に開示して言葉として完璧に言語化し消化し切るための絶対に必要な時間でした。外の世界へ再び二人で手を取って歩み出すためのひどく前向きで熱狂的な最高の助走と回復の期間だったのです。
陽葵の真っ直ぐに見据えるパソコンの画面の最上部には『月を抱く空洞』という仮のゴシック体のタイトルが太く打ち出されていました。その文字の羅列を眩しそうに見つめる陽葵の茶色い瞳の奥を観察すればもう分かります。かつて自分をがんじがらめに縛り上げていた社会的な生産性や子宮がないという欠陥に対する恐怖の濁った色はもうどこにも存在していませんでした。それは見事に自分自身を満月に寄り添える特別な存在たらしめるための器の証明へと美しく反転して光を放っていたのです。
陽葵はタイピングの激しい雨のような手の動きを完全に止めました。ひどく疲労の溜まった自らの身体を固い背もたれに深く預けました。こり固まった細い首の筋肉を少しだけほぐすようにゆっくりと左右に回しながら横に置かれたコーヒーのマグカップを静かに手に取りました。熱い液体を一口だけ口に含むと心地よい深い苦味と確かな強火の温かさがひどく乾燥した喉の奥の疲労を優しくじんわりと洗い流していきました。
陽葵がゆっくりとその椅子を回転させて背後を振り返りました。満月がすぐ後ろのベッドの上にペタンとだらしなく座り込んでいました。自分の分厚い海外の百合小説の翻訳本を膝の上に広げながらもこちらを一切の瞬きもせずにじっと見つめていました。その赤い潤んだ瞳はまるで世界で最も尊くて偉大な芸術家を狂信的に崇拝するかのようにキラキラと純粋な畏敬の念に満ちて陽葵の疲れた横顔を完璧に捉えていました。
「……どう? 順調?」
満月が自分の見つめる視線や存在そのものが執筆の邪魔になっていないかと少しだけ気遣うような仕草をしました。不安そうに小さく首を傾けながら陽葵の顔色を窺うように尋ねてきました。
陽葵は相手を安心させるために無理やり作る営業スマイルではありませんでした。自分の頬の筋肉と口角がひどく自然にかつてないほど柔らかくそして優しく上がっているのをはっきりと自覚しました。
「ええ。過去の自分を殺す作業って、意外と悪くないわね。文字にしていくたびに、あの醜くて痛かった古い傷が、勝手にかさぶたになってポロポロと剥がれ落ちていくみたい」
陽葵の口から出たのは自分でも驚くほど晴れやかな肯定的な独白でした。
陽葵のその嘘や強がりの混じっていない晴れやかな本心からの言葉を聞いて満月の顔がぱぁっと明るくなりました。まるで春の陽光の下で大輪の花が開くようにその表情がひどく嬉しそうに綻びました。陽葵が自らの手で重たい言葉を紡ぐことで過去の強固な呪縛から解放されていくあの過程のすべてでした。満月はそれをまるで自分自身の切り刻まれた身体が同時に救済されていくかのように全く同じ温度で完全に共有して喜んでくれていたのです。
陽葵はこのどうしようもなく不器用で傷つきやすくしかし誰よりも純粋で美しい魂を持った目の前の少女の存在をただの思い出として消費してはならないと強く思いました。絶対に自分だけの密室の脳内の記憶の中で終わらせてはいけないのだと固く前を向きました。社会の普通という画一的な枠から理不尽にこぼれ落とされ大量の血を流した二人の痛みの歴史でした。それを確かにここに存在したのだという確固たる証明として世界へ向けて言葉として刻み込まなければならないという強烈な使命感の炎が燃え上がっていました。
陽葵はマグカップをデスクに置き再び真っ白なキーボードの上へと両手の冷たい指先を正確に構えました。
「さあ、今日のノルマの分、もう少しだけ進めるわ」
そう言って再び無機質な画面に向き直る陽葵の逞しい背中でした。それを満月はひどく愛おしそうに何ものにも代えがたい宝物を見るような目で静かに見守り続けていました。
厚い遮光カーテンで遮断された狭い部屋の壁の向こう側からは依然として平和な世界が続いていました。海嶺大学へと向かう学生たちの賑やかな笑い声やや通勤の日常の車の排気音が微かに壁越しに届いていました。しかし今の二人にとってその音の刃はもはや自分たちを脅かす存在ではありませんでした。彼らはこの朝の来ない部屋という名の完璧で安全な創作の揺りかごの中でやがて必ず自分たちの意思で開けることになるその重たい扉の向こうの光景をひどく静かにそして力強く描き出していたのです。
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# 第32話 両親との対峙
数日間の短い休暇を利用して大学のある都市から帰省した陽葵を静かに迎えたのは地方都市にある実家の完璧に整理整頓されたリビングルームでした。高性能な最新式の空気清浄機が微かに低いモーター音を一定のリズムで立てながら稼働し続けていました。冬に向けて強めに設定された床暖房とエアコンの風によって室内の空気はひどく乾燥しきっていました。分厚い一枚板のローテーブルの上には陽葵が中学生の頃から好物だった地元の高級な和菓子が過剰なほど見栄え良く並べられていました。それはかつて病気によって大切な娘にひどく痛くて理不尽な思いをさせてしまった両親の無意識の「償い」にも似た重たくて息苦しい愛情の陳列そのものでした。
陽葵はその座り心地の良すぎる反発力のある柔らかい革張りのソファの端に背筋を真っ直ぐに伸ばして静かに腰を下ろしていました。対面には少しずつこめかみ付近に白髪の増え始めた父親と休日でも化粧が完璧に施された母親が横に並んで座っていました。彼らは久しぶりに帰ってきた一人娘の少し痩せたような様子をまるで少しの衝撃で粉々に砕け散ってしまう壊れやすいガラス細工でも扱うかのような過剰に気遣わしげな視線でひっそりと見つめ続けていました。
その両親から無言で注がれる視線の束には一切の悪意も娘を責める敵意も含まれていませんでした。しかしそれは今の目の前に座っている陽葵という人間の「現在の姿」をありのままに見ているのではありませんでした。彼らの脳内に深く焼き付いて離れない「かつては健康で将来有望だった可哀想な欠損のある娘」というひどく痛ましいスライドショーをただ空間に投影しているだけのようでした。それは陽葵の呼吸を浅くさせるようなひどく息苦しくて重たい粘り気のある善意の眼差しでした。
「……最近、体調はどう? 大学生活は、きつくない? 就職のこととか、今はまだ無理して考えなくてもいいのよ」
母親がテーブルの中央に置かれた陽葵のために淹れた温かい緑茶の湯気を挟んでひどく遠慮がちになぞるような声色で尋ねてきました。しかしかえってその過剰なまでの優寥と遠慮が陽葵の「普通の人間からの完全な逸脱」という冷酷な事実を容赦なく強調する針のように突き刺さってきました。
その母親の心配そうな少し震える声を聞いた瞬間でした。陽葵の脳裏にあの十六歳の春の残酷な光景の残像がフラッシュバックして通り過ぎました。真っ白な手術室の分厚くて冷たい扉の前で手術着に着替えた自分よりも激しく子供のように泣き崩れていた両親の悲痛な姿です。かつての陽葵はこの両親から「完全で健康な身体」を無惨にも奪い取り彼らが当然のように思い描いていた「孫の顔を見るという普通の家族の未来予想図」を完全に引き裂いてしまったのは自分なのだという凄惨な加害意識の檻の中に何年も囚われ続けていました。
しかし今ここでその過去の亡霊のような両親の悲しみに満ちた顔を正面から真正面に見据えていても陽葵の胃の底が恐怖で冷え切ることはありませんでした。激しい動悸に襲われて視界が歪むようなかつてのパニック症状の欠片すら微塵も湧き上がってはきません。自分の下腹部にあるあの誰に見せることもできずに隠し続けてきた赤黒い手術痕のさらに奥深くの暗い空洞の中でした。そこに満月という強烈な不完全で愛おしい他者との血を流すような絶対的な絆が確かに存在していました。それが決して揺らぐことのない極めて重たくて温かい強靭な錨となって陽葵の精神の重心を深く低くそしてひどく安定した状態に保ち続けていたからです。
陽葵は自らの両手で分厚くて重たい陶器の湯呑みを静かに包み込みました。少しだけ室温でぬるくなった緑茶を一口だけゆっくりと喉の奥へと飲み下しました。茶の素朴な渋みと奥深い苦味が乾燥した喉を滑り落ちていく確かな感覚とともにひどく明晰な思考が巡り始めました。陽葵は自分の内側でずっと長い間抑圧して隠蔽してきた本当の言葉たちをもはやこれ以上隠蔽することなく真っ直ぐにこのテーブルの上へと取り出して並べる準備を完全に整えました。
「お母さん、お父さん。私……実は少し前に、正式にお付き合いをしている人ができたの」
陽葵の声は澄み切った秋の空のように一切の濁りがなく不思議なほど穏やかでよく通る響きを持っていました。
その陽葵の決定的な言葉を聞いた直後でした。密閉されたリビングの空気が急激に熱を帯びて膨張したかのように両親の顔が驚きとはち切れせんばかりの大きな喜びに同時にぐにゃりと歪みました。
「えっ、ほんとに!? いい人なの? 同じ海嶺大学の……」
母親の声はその内側から湧き上がる大きな安堵と嬉しさを一切隠しきれずにひどく高く跳ね上がってリビング中に反響しました。父親もまた張り詰めていた肩の力を一気に抜いて目尻に深い皺を刻んで深く息を吐き出しました。
それは紛れもなく両親が「傷ついて一生孤独に生きるはずだった可哀想な娘がようやく普通の世界のレールの上へと戻ってきてくれた」と心底安堵した純粋な反応でした。陽葵はその無垢で暴力的な喜びの表情を冷徹なまでに正確に観察し続けました。彼らがこれから直面して滑り落ちるであろう深い絶望の谷間の暗さを瞬時に計算しました。しかし今の陽葵は過去のように偽りの期待の言葉で彼らのその無垢な幻想を満たしてやるような安っぽくて残酷な「自己犠牲的な誠実さ」を演じるつもりは一ミリも残されていませんでした。
「……うん。同じ大学の、私のすべてを丸ごと受け入れてくれた、ひどく大切で優しい人。でもね、お母さん」
陽葵の声はどこまでも澄み切っていてまるで静かな湖面のようでした。少しの怒りも親に対する反抗的な棘も含まれていませんでした。
「その人は、女の子なの」
陽葵の赤くて薄い唇から放たれた決定的なその短い言葉でした。それが空気清浄機の鈍いモーター音だけが響き続ける乾燥したリビングルームの完璧な空間に鋭いカミソリのように真っ直ぐに全くの抵抗なく突き刺さりました。数秒間でした。両親は愛する娘の言葉の物理的で決定的な意味を自分たちの真っ当な脳内で瞬時に処理することができませんでした。まるでテレビの映像が不自然に停止したかのように口をだらしなく半開きにしたままで一言も発することなく完全に凍りついていました。
「女の子……? 女の子って、どういう……? だって、それじゃあ、陽葵は一生……」
やがて母親の青ざめた口からこぼれ落ちたのは激しい悲鳴やヒステリックな否定の言葉ではありませんでした。自分が密かに心の奥底の神棚に拝むように抱き続けていた最後の小さな希望でした。「いつかは娘も普通に結婚をして、もしかしたら奇跡的に孫の顔が見られるかもしれない」という無垢で強固で最高に残酷なファンタジーです。それが形を失い音を立てて完全に崩落していく微かな砂のような破砕音でした。
両親が今まさに直面しているその深くて暗い絶望と理解不能な混乱の波でした。それを目の前で直接浴びていながらも陽葵は決して逃げるように目を逸らしたりはしませんでした。かつてのように親を悲しませてしまったと同情して申し訳なさそうに力なく首を垂れるような真似もしませんでした。むしろ陽葵は自分の引き結んだ口角がゆっくりと自然にそしてひどく柔らかく弧を描いて持ち上がっているのをはっきりと自覚していました。
私はもうあなたたちが望むような「普通」という決められたルートの上で必死に幸福の真似事を演じようとする可哀想な欠陥品の娘ではないのだ。親の勝手な悲しみを自分の犯した重大な責任としてひたすら背負い込みその賠償を支払うために一生身を縮こまらせて嘘の人生を歩むことは絶対にないのだ。陽葵は自分をこれまで最も強く最も苦しく縛り付けてきた家族という名の古い太い呪縛の鎖でした。それが今この瞬間完全に音を立てて断ち切れ解き放たれていくのを知覚していました。
「ごめんなさい、お母さん。お父さん。私にはもう、あなたたちが思い描いてくれているような普通の人たちと同じ未来は、一切残されていないの。でもね……」
陽葵は少しの震えも見せない自分の両手を固いテーブルの上で冷たいまましっかりと組み直しました。そして未だに混乱して震えている愛する両親の目を真っ直ぐに少しの揺らぎもなく見据えました。
「私は、今の自分が一番好き。そして、その不完全なあの人と一緒に生きるこれからの未来を、私は生まれて初めて、心から美しいと思っているのよ」
その決定的な宣言の言葉とともに陽葵の白い顔に静かに浮かんだ表情がありました。それは自分を苦しめてきた相手を意図的に傷つけるための冷酷で歪んだ反逆の笑みではありませんでした。不安を隠して無理に虚勢を張った薄っぺらい空騒ぎの笑みでもありませんでした。ただ自分という不完全な器の在り方をその底の底まで完璧に肯定し切った結果でした。誰にも依存せずに自立した一人の人間としての信じられないほどに力強くて底抜けに美しい純粋な微笑みだったのです。
両親は自分たちの全く知らない遠くて暗い世界へと完全に自らの意思で羽ばたいてしまった娘のその圧倒的な生命力の輝きを前に完全に圧倒されていました。もはや常識を振りかざした反対の言葉も悲嘆による引き止めの涙も一切ひねり出すことができずただ深い沈黙の中に立ち尽くしていました。陽葵は自分の長い人生の重たいハンドルを誰かの許可や同情を必要とせずに完全に自分自身の両手の中へと力強く取り戻したのです。窓の外の冬の気配を帯びた冷たい風が実家の庭の木々を静かにしかし確かに大きく揺らしていました。
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# 第33話 杏菜の卒業
厳しくて長かった冬の底知れぬ寒さがついに少しだけ緩み始めました。三月の初旬の空気が海嶺大学の広大なキャンパス全体を静かに包み込んでいました。旧校舎の最も端に位置する文芸サークル「文学界」の古びた部室の中の空気は普段とは全く異なっていました。壁に染み付いた古いインクと埃の入り混じった停滞したあの薄暗い匂いは完全に薄れていました。代わって少しだけ立て付けの悪い窓の隙間から春の冷たくて澄んだ新しい風が滑り込み部屋の淀みを洗い流していました。部屋の中央に無造作に押しやられた長机の上には色鮮やかな後輩たちからの花束が幾つも高く積み上げられていました。それは一つの長い物語の終わりと新しい季節の始まりが交差する引っ越し前夜のようなひどく落ち着かないけれど晴れやかな匂いに満たされていました。
陽葵と満月はその少しだけ人がまばらになり始めた部室の片隅で静かにお互いの隣に立っていました。それはかつてのように陽葵の頑丈な背中に満月が怯えきってしがみつくようなあのいびつで重たい配置図ではありませんでした。二人はそれぞれが自分自身の二本の足でしっかりと床を踏みしめていました。その上で互いの存在を確かめ合うように一定の健全で心地よい距離感を保ってただ静かに並び立っていたのです。
陽葵の細い指先は以前のように冷え切って真っ白に強張っていることはもうありませんでした。少しだけ血色の良い温熱を帯びて彼女自身の自律した命の巡りを外側へと確かに発散させていました。隣に立つ満月にしても少しでも隙があれは陽葵の身体へ触れて安心を得ようとするあの痛ましい飢餓感は完全に消失していました。彼女はただ時折陽葵の穏やかな横顔を心底愛おしそうにそして深く誇らしげに見つめるだけでした。それはまるで長い嵐の夜をようやく一人で越えた小鳥のようなひどく穏やかで行き場を見つけた美しい落ち着きを纏っていました。
そこへ両手に抱えきれないほどの大量の記念品や色とりどりの花束を持った工藤杏菜がこちらへと歩み寄ってきました。少しだけ高いヒールの靴音を古いリノリウムの床に小気味よく響かせながら早足で近づいてきました。彼女のいつもは分厚いレンズの奥で他者の人生を皮肉げに観察して光っていたあの強烈な好奇心の瞳でした。それが今日に限っては少しだけ赤く充血して微かに潤みの膜を張っているように見えました。
「……やれやれ。これで私も、晴れてこのジメジメした本の墓場からおさらばってわけですよ」
杏菜は抱えていた荷物を一つ隣の空いているパイプ椅子の上にどさりと重たい音を立てて下ろしました。そしてわざとらしく大きく細い肩をすくめていつものような芝居がかった早口の抑揚をつけて陽葵たちに言いました。しかしその少しだけ裏返った声の端にはどうやっても隠しきれない寂しさの微細な震えが確かに混じっていました。
陽葵はその杏菜の少しだけ不器用で可愛らしい強がりの言葉を聞いて自分の胸の奥がじんわりと静かに温かくなるのを感じました。かつてのひどく偏屈で孤独だった自分ならその言葉の裏側にある微細な感情の揺れをただの鬱陶しい人間関係のノイズとして即座に冷酷に切り捨てていたはずでした。しかし今の陽葵には杏菜の奥底の震えの手触りが痛いほどにはっきりと理解できていました。この少女がこれまで「観客席」という絶対的な安全圏から自分たちという不完全な二人の役者をどんなに複雑な思いで見守り続けてくれていたのかが深く心に沁み渡ってきたのです。
杏菜は突然持っていた残りの花束を自分の左脇に器用に抱え直しました。そして完全に空いた両方の手で陽葵と満月の右手をそれぞれ強く一気に掴み取りました。
「ちょっと、杏菜先輩?」
急な身体接触に少しだけ驚いて目を丸くした満月をよそに杏菜は二人の細い手を少し強引に自分の胸の正面へと引き寄せました。
「あんたたちはね、本当に、私が今まで見てきたいろんな小説のどんな主人公たちよりも……」
杏菜は言葉を一拍だけ区切って二人の顔を順番に見つめました。
「最高に面倒くさくて、そして、飛び切り最高に美しい生き物だったよ」
杏菜の分厚いメガネの奥の瞳からついに堪えきれなくなった透明な涙の粒が一つだけツーッと頬を伝ってこぼれ落ちました。それは彼女が自分の人生において「他者の物語の安全な観客」という特等席から完全に降りて初めて血の通った一人の人間として深く他者に関わった瞬間の驚くほど純粋で美しい涙でした。
陽葵は強く繋がれた手からダイレクトに伝わってくる杏菜の不器用で確かな熱量を自らの指先でしっかりと力強く握り返しました。
「ええ。あなたのその悪趣味で執拗な観察眼がなければ、私たちはきっと、今でもあの暗くて冷たい泥沼の中で息継ぎもできずに沈んで死んでいたわ。……本当に、ありがとう」
陽葵の口から静かにこぼれ落ちたのは一片の嘘や飾りも混じっていない心の底からの深い感謝の言葉でした。満月もまた杏菜の顔を見て小さく鼻を鳴らしながら泣き笑いのようなひどくぐしゃぐしゃの顔をして何度も力強く頷いて応えていました。
窓の外の大きく傾きかけた夕日が古びて歪んだ部室の窓枠を真っ直ぐに通り抜けてきました。それは三人の重なり合った手をオレンジ色に長くドラマチックに照らし出しました。それはかつてこの部屋で陽葵が逃げ込んでいたような現実から完全に切り離された冷たくて無機質な虚構の光ではありませんでした。確実に明日へと繋がっていく血の通った現実世界の驚くほど温かくて優しい本物の光でした。
「さあさあ、いつまでもこんなカビ臭い部屋で昔話に浸ってる場合じゃないですよ」
杏菜は照れ隠しをするように自分の鼻をズズッと強くすするとパッと素早く二人の手から自分の手を離しました。
「私は明日からの新しい生活に向けて、やることが山のように積み上がっているんです。じゃあね、二人とも。最高の続編をずっと期待してるからね!」
そう言い残すと杏菜はパイプ椅子の上に置いた大量の荷物を再び不器用に抱え直しました。そして振り返ることなく足早に部室のドアへ向かって歩きそのまま真っ直ぐに出て行きました。
バタンという古びた木製ドアの少し重たい鈍い音が部室の中に大きく響き渡りました。部室には陽葵と満月の二人だけがポツンと残されました。先ほどまでの引退式の喧騒や杏菜のけたたましい早口が嘘のようにスッと静まり返った室内でした。そこには本の紙の匂いと花束の甘い香りだけが微かに溶け合って漂い続けていました。
陽葵は壁一面に隙間なく並べられた古びて重たい本棚の群れをゆっくりとした視線で見渡しました。以前の自分にとってあなたはこの場所だけが唯一の救いでした。他者の人生や綺麗に完結する物語という強固な虚構を借りて自分のどうしようもない空洞を必死に埋め合わせるための絶対的な安全で冷たいシェルターでした。しかし今の自分にはもうここにあるどんな美しくて悲劇的な装丁の物語にも一切依存する必要がないのだとはっきりと悟りました。
「……行こうか、陽葵」
満月が陽葵の横顔を下から見上げてひどく静かで落ち着いた低めの声で促しました。そこにはかつてのような相手の顔色をうかがうような縋るような甘えの響きは全く含まれていませんでした。陽葵がゆっくりと振り返るとそこにはかつての「いつか絶対に見捨てられることをひどく恐れる怯えた子供」の面影はありませんでした。一人の立派な女性として自らの足で立つ確かな強さと美しさを持った満月の姿が真っ直ぐに立っていました。
それは二人がこの誰かが過去に書いた虚構の言葉のシェルターである部室から完全に精神的に巣立つ瞬間の合図でした。自分たち自身の血の通った現実の決して綺麗事だけでは済まない物語を自らの足で並んで歩き始めるためのひどく静かで力強い宣誓のようでした。陽葵は大きく深く深呼吸をして最後に自分の肺の奥深くまでこの部屋の古い紙の匂いと埃の感覚を吸い込みました。
陽葵は最後に残っていた天井の蛍光灯のスイッチの長い紐をカチャリと引いて部室の明かりを完全に落としました。部屋は一瞬にして夕闇の濃くて青い影の底へと静かに沈み込みました。二人は連れ立ってその青い空間からひどく冷たい風の吹く廊下へと確かな足取りで出ました。
陽葵は手の中にある錆びついた部室の鍵を静かにドアノブの鍵穴へと差し込みました。重たい音を立ててそれを確実に回してしっかりと施錠しました。カチャリというその短くて無機質な金属音でした。それは陽葵の過去の暗くて逃避的だったモラトリアムの時代が完全に終了し永遠に封印されたことを世界に告げる決定的な儀式の音でした。
もうこの重たい扉の向こう側にある死んだ言葉たちの無菌室の世界へ傷を舐め合うために逃げ込むことは二度とないのでしょう。陽葵と満月は顔を見合わせて微かにしかし確かな信頼を乗せて柔らかく微笑み合いました。そして冷たい夕方の風が吹き抜ける現実世界に通じた古い階段を真っ直ぐに肩を並べて静かに下り始めました。残るは最後の夜とそして新しい朝の確かな光に向かって歩みを完成させるだけの完全なる再生のクライマックスへと二人を乗せた運命の歯車が力強く静かに回り出し始めていました。
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# 第34話 満月の夜
海嶺大学の新校舎の最上階でした。そこからさらに階段を登った先にある重たくて分厚い鉄扉をギギッと大きく押し開けました。その向こう側に広がる何もないコンクリートの屋上には三月の終わり特有の少しぞくっとするような冷たい夜風が絶え間なく絶えず低く唸りを上げて吹き抜けていました。しかし見上げる天空には不吉な雲の切れ端一つすらもかかっていませんでした。そこには地上の街で明滅しているどんな人工的で極彩色のネオンサインよりも遥かに強烈な圧倒的な質量を持った丸い満月が浮かんでいました。それはひどく青白くて清浄な光の巨大な瀑布となって屋上の平らなコンクリートの床全体をまるで完全に凍りついた静寂な湖面のように明るく照らし出していました。
陽葵と満月は屋上の縁をぐるりと囲んでいる錆びついた高い金網のフェンスに互いの肩が微かに触れ合うような距離感で並んで寄り掛かりました。二人のすぐ眼下には彼女たちがこれから自分たちの足でしっかりと踏み入れて生きていくことになる広大な街の夜景が無数の光の海となってどこまでも果てしなく瞬いていました。深夜のバイパスを走るトラックや乗用車のヘッドライトの群れでした。それらが見えない都市の巨大な血管を休むことなく巡る血液のように赤と白の鮮やかな光の帯となって規則的に真っ直ぐに流れていました。
陽葵はその金網越しに圧倒的な質量を持ってうごめいている社会という巨大な営みを見下ろしていました。かつてのひどく臆病で孤独だった自分であればあの数え切れない光の群れの中の一員として「真っ当な普通の女性」の役割を永遠に果たせないことに激しい疎外感と吐き気を伴うような強い目眩を覚えていたはずでした。自分がいかに欠落した異常な歯車であるかを思い知らされる暴力的な風景でした。しかし今の陽葵の精神の重心は信じられないほどに深く静かに安定していました。あの巨大で画一的なシステムの外側に完全に自分たちの意思で立ち不器用な歩幅で一緒に生きていくことへの岩のように強固で澄み切った決意だけが陽葵の胸の奥で静かに静脈を打ち続けていました。
隣に立つ満月もまた眼下に広がる壮大な街の灯りや自分の名に由来する頭上の眩しい月光などには一切目もくれていませんでした。彼女の目はただ真っ直ぐにすぐ隣で金網を静かに握っている陽葵の横顔のただ一点だけを強く見つめ続けていました。その視線は強すぎる月光に照らされて微かに青白く透き通るような陽葵の滑らかな頬の肌をまるで世界で最も尊くて傷つきやすい神聖な彫刻でも見上げるかのような純粋な敬愛と愛おしさに満ちて煌めいていました。
「……ねえ、満月」
陽葵が金網を強く握っていた自分の細くて冷たい指先をゆっくりと離しました。そして自らの下腹部のあたりすなわちあの自分を何年も苦しめてきた赤黒い手術痕が隠れている布の上へとそっとなぞるように優しく当てました。
「私ね、今ならはっきりと分かるの。ずっと、ずっと、この場所にある大きな『空洞』を、自分の大切な未来を食い殺してしまった恐ろしいバケモノの棲家だと思って、一人きりで呪い続けてきたけれど。……それは全くの勘違いだったのよ」
陽葵の細い喉の奥から放たれたその独白の声は屋上に吹き荒れる冷たい夜風の音に少しもかき消されることはありませんでした。信じられないほどにクリアでひどく澄み切った鐘の音のように屋上の静寂な空間に高く響き渡りました。
「もしも私にこの『空洞』がなくて、世間の人たちと同じように人並みで普通の幸せな未来を何の疑いもなく信じられる人間だったとしたら。私は絶対に、あなたという傷だらけでひどく不器用な魂を見つけることはできなかったわ。……この場所はね、初めから欠落してなんか、いなかったのよ」
陽葵は少しだけ満月の方へと身体を向け真っ直ぐにその潤んだ赤い瞳と同調するように視線を交錯させました。
「あなたというどうしようもない光を、この腕に狂いなくすっぽりと抱きとめるためだけにね。神様がわざと一番大切な場所に開けておいてくれた、特別で完璧な『余白』だったのよ」
その陽葵の自らの致命的な欠落を完璧に反転させた究極の肯定の言葉を聞いた瞬間でした。満月の大きく見開かれた瞳から水面張力で堪えられていた大粒の涙の雫が滝のように一気にボロボロと溢れ出しました。満月はその場に重力に吸い込まれるようにしてゆっくりと震える両膝を硬いコンクリートの床に突きました。そして陽葵の着ている薄手のコートのフロントをそっと押し開いて彼女の空っぽの下腹部のあたりに自らの温かい両手を触れさせました。まるで神聖な祭壇に向かって深い祈りを捧げるようにひどく優しくそして深く押し当てたのです。
冷え切ったコンクリートの冷気を通して満月の両手から発せられる熱狂的なほどの異常に高い体温でした。それが陽葵の服の布地を容易に突き抜けて皮膚の最奥の細胞へと直接静かに染み込んできました。そこにあるのは忌まわしく醜い手術痕というエラーの証明ではありませんでした。他者と最も深い精神の暗闇の場所で結合し合うための新しい力強い生命力の激しい暖かな脈動そのものでした。
満月はそのまま陽葵の下腹部に自分の大量の涙でひどくぐしゃぐしゃに濡れた熱い頬をぴったりとすり寄せました。もう完全に堪えきれない嗚咽を漏らしながらひたすらにその場所を自分自身の命を投げ出すように愛おしむように顔を深く埋め続けました。
「陽葵……ごめんね、今まで一人で、こんなに痛い思いをして……でも、ありがとう。私を、見つけてくれて……」
満月の泣きじゃくるしゃがれた声が陽葵の身体の奥深くまで直接低い振動となって響いていきました。
陽葵は自分の下腹部で小さく丸くなって子供のように泣きじゃくる満月のサラサラとした金髪の上に自らの細くて冷たい両手をひどく優しく置きました。その微かな金髪の柔らかな隙間からずっと昔から満月が「誰かに見捨てられないための強がりの象徴」として左耳にだけつけていた安い金属製の『月のイヤリング』が見えました。それが頭上の月光を反射して冷たく鋭くチカチカと光っているのがはっきりと見えました。
それはかつて陽葵が満月から「私とお揃いにして」と手渡されたものでした。しかしその時の陽葵は「私の体はもう欠落していてこれ以上傷つけたくない。私は完全な月にはなれない」という強固な防御本能から固辞してしまった因縁のイヤリングでした。しかし今の陽葵の精神には自らの真っ白い肌に新しく小さな穴を開けることへの痛みや傷をつけることへの恐怖の結界は完全に消え去っていました。それはただの自傷行為ではなく他者を完全に自分の中へ受け入れるための痛みを伴うひどく神聖な愛の契約の儀式だったのです。
陽葵はゆっくりと静かに自らの膝を折り満月と同じ視線の低い高さへとしゃがみ込みました。そして満月の左耳で微かな風に揺れて小刻みに震えていたその金色の月のイヤリングに冷たい指先を近づけました。微細な金属音とともにカチャリとその固い留め具を静かにそして迷いなく外しました。
突然の陽葵の思わぬ行動に満月が驚いてピタリと涙を止めて顔を開げました。陽葵はその満月の赤い瞳に向かって信じられないほど優しく慈愛に満ちた表情で微笑みかけました。
「ねえ、満月。私の左耳に、これをつけてくれる? 少しだけ、痛いかもしれないけれど。でも、あなたの抱えるその孤独な痛みと綺麗に半分こにするための、とても大切な印だから」
陽葵のその言葉の背後にある重たい決意の意味を瞬時に正確に理解した満月の全身が雷に打たれたように微かに震え始めました。満月は両手で陽葵のひどく冷たくなっていた左の耳たぶをひどく大切に落とさないように優しく包み込み少しだけ自分の体温で丁寧に温めてあげました。そして細くて鋭い金属のピアスの切っ先を陽葵の真っ白で傷のない肌の裏側へとゆっくりとしかし強い確かな力で迷いなく押し込みました。
ブツッという鈍くて小さな肉を貫く音とともに陽葵の薄い耳たぶを鋭くて熱い局地的な痛みが真っ直ぐに凄まじい速度で走り抜けました。しかしその確かな痛みはかつて陽葵に激しい恐怖や社会からの疎外感を与えていたあの絶望の痛みとは全く質の異なるものでした。満月という唯一無二の他者の存在の重みを自分の身体の最も浅くて敏感な部分に直接刻み込まれるような感覚でした。ひどく鮮烈でそしてどこまでも完全な歓喜に満ちた生々しい生への手応えそのものとして陽葵の脳髄を心地よく駆け巡りました。
新しく開けられたピアスの穴から微かに滲み出した一滴の赤い血の温かい雫でした。それを満月が自らのひどく熱い舌先でそっと這わせるように舐め取ってくれました。鉄の錆びたような少しだけ生臭い味が二人の間を初めて共有する味覚の儀式となりました。続いて二人は眩しすぎる月光の下で互いの魂の欠落の形の全てを完全に交換し補い合うようなひどく深く長くてそして驚くほど完璧な口づけを不器用に交わしました。
陽葵の左耳には満月の右耳とお揃いの少しだけ安っぽくてチープな月のイヤリングが重力に従って確かに重たくぶら下がっていました。首を少し動かすたびにそれが冷たい金属の無機質な感触を熱を持った耳たぶに擦り付けてきました。自分がもうこの広い世界で永遠に一人きりではないこと。世界にたった一人だけの完全な自分の半身を確かに手に入れたことの絶対的な真実の証明文としてひどく心地よいリズムで主張し続けていました。
頭上に輝く完璧な円を描く本物の満月の青白い光が屋上の金網のフェンスの細い影をコンクリートの平らな床にひどく規則的な幾何学模様のように長く落としていました。陽葵の身体の中心にぽっかりと開いていた巨大な絶望の空洞は今や完全に満月の圧倒的な熱量と存在感によって隅々まで完璧に満たされていました。二人は床にへたり込んで深く抱き合ったまま少しも寒がることなく冷たい夜風の中でただ静かに訪れるであろう自分たちだけの明日の新しい朝の光を待ち続けていました。
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# 第35話 新しいロゴス
完全に去勢されたような冬の底冷えする鋭い寒さが完全に抜け落ちた三月末の朝でした。陽葵のワンルームアパートの少しだけ開け放たれた窓の隙間から淀みのない新しい春の風が滑り込みました。それと一緒に信じられないほどに優しくて柔らかい黄金色の陽光がたっぷりと部屋のフローリングの上へと流れ込んできました。それはかつて陽葵が自分の決定的な身体の欠落を隠し通そうとするあまりに恐れていた世間の暴力的で真っ白な「普通への暴圧」の光ではありませんでした。ただそこにある二人の不器用で歪な生活の形を無条件に丸ごと肯定しひどく静かに祝福するような暖かな温度を持った光の洪水のようでした。
陽葵は少しだけ重たい瞼をゆっくりと手でこすって開けました。自分のすぐ横でまるで世界で最も安全な揺りかごの中にいるかのように身体をすっぽりと丸めてひどく規則正しい寝息を立てている満月の姿がありました。そのシーツに散らばった金色のサラサラとした髪の毛の先から微かに甘いバニラの香水とベビーパウダーの入り混じったようなひどく無防備な匂いが立ち昇っていました。
陽葵がベッドの上でほんの少しだけ寝返りを打つために自らの首を横へ動かしたあの瞬間でした。昨夜の冷たい屋上で自らの手で満月に開けてもらった左耳のピアスの穴から微かなしかしひどく鮮烈で鋭い熱を持った痛みがチクリと脳髄へ向けて真っ直ぐに走りました。それは不快な怪我の痛みや恐怖を伴う警告のシグナルなどでは決してありませんでした。自分がこの広すぎる世界でもう完全に一人きりの孤独な存在ではないという絶対的な事実でした。それを鼓膜のすぐ横で確信的に低く鳴らし続けてくれる美しくて重たい教会の鐘の音のようにひどく心地よく響いていました。
陽葵は温かいシーツの中からそっと自らの右腕を抜き出しました。自分の左の耳たぶへとゆっくりと震えのない指先を這わせました。そこには確かに満月の右耳と全く同じデザインの少しだけひんやりとした安い金属の『月のイヤリング』の無機質な感触がありました。指先でそれをそっとなぞるとピアスの穴の周囲に微かに固まりかけた血の鉄の匂いが混じった生々しい命の確かな手応えがありました。
陽葵は自分の身体の奥底すなわちその下腹部の大きな手術痕のさらに深い空洞の中に何年も居座り続けていた見えない冷たい氷の塊でした。それが音も立てずに完全に溶け去って跡形もなく消滅しているのをはっきりと知覚していました。それは十代の頃からずっと彼女の心臓を締め付け社会に対する重たい負債のように感じさせていた「自分は子供を産めない不良品で未来をつぶす加害者である」という強固な呪いの言葉でした。その誰かに押し付けられた古い論理が今朝この瞬間に完全なる崩壊を迎えたのです。
当然のことながら陽葵の腹部にある失われた臓器が物理的に魔法のように再生したわけではありません。社会が一方的に規定する「一般的な女性の幸福なロールモデル」という真っ当な光の当たるルートからは依然として大きく決定的に逸脱したままでした。しかし今の陽葵の精神にとってその自らの絶対的な身体の欠落はもはや忌むべき「悲劇」でも他者から同情されるべき「不幸な事故」でもありませんでした。
「……どうして、もっと早く気がつけなかったのかしらね」
陽葵は隣で無防備に眠る満月の柔らかい頬に自分の穏やかな視線を落としながら誰に聞かせるわけでもない小さな納得の呟きを静かな部屋の朝の空気に溶かしました。
もし私が完全な普通の体で社会が向けてくる真っ当で普通の期待に応えようと必死に愛想笑いを作って生きるような人間だったなら。私は絶対にこの傷だらけで不器用な満月という激しいパニックを抱えた魂を自分ごとその深い孤独の泥沼から救い出すことなどできなかったはずでした。私のお腹にぽっかりと最初から開いていたあの大きな取り返しのつかない穴は神様からの罰なんかじゃありません。満月という途方もない純粋な光の塊を一滴もこぼさずに自分の中へ受け止めるためだけに意図的に作られた奇跡のような専用の「器」だったのだという完全な意味の反転への到達でした。
満月が寝惚けたようにフンフンと小さく幼い鼻を鳴らしながらさらに陽葵の体温を求めてシーツの中で身をよじってきました。陽葵の細い腕に自分の両腕をしっかりと絡ませその真っ白な胸元に自分の顔をぐりぐりと押し付けてきました。それはかつての二人の間にあったような「いつか見捨てられるのではないかという狂気的な恐怖」からの強迫的なしがみつきではありませんでした。陽葵が絶対に自分を拒絶しないという絶対的な安心感の底からくる日向の子猫のような純粋で愛らしい密着でした。
陽葵は自分に安心しきってすり寄ってくる満月の重たい頭の心地よい重量と柔らかな皮膚のすぐ下を通っているひどく熱狂的なまでの高い血液の温度をはっきりと肌で感じ取っていました。その溢れんばかりの圧倒的な生命の熱量が陽葵の過去の冷たかった巨大な空洞を隙間なく完全に埋め尽くしました。さらに溢れ出た熱が陽葵の冷えやすかった全身の血液を優しくかつ力強く循環させていくのを感じていました。
かつての陽葵は自分の持つその生真面目で強固な「誠実さ」を相手の未来を勝手に重荷に感じて関係を一方的に断ち切るための冷たい「防衛の壁」として使っていました。しかし今は完全に違いました。自分のこの強迫的なまでの誠実さという性質はこの壊れやすくて世界の誰よりも美しい少女を無神経な社会の理不尽な重圧や冷たい偏見の目から命懸けで守り抜くための最強の「盾」なのだと静かに確信していました。
陽葵は自らの細い左腕を愛おしい満月の背中へと深く回しました。決して相手を痛めつけることのないひどく優しい力加減でしかし同時に絶対に離さないという確固たる意志の強さを持ってその小さな身体を自分の体温の方へとしっかりと引き寄せ深く抱きしめました。
私はもう社会の「普通」というルールが照らす眩しすぎる昼間の太陽の下で呼吸を浅くして怯えながら他人の目を気にして後ろめたく生きることは絶対にしない。私はこれからこの満月という不完全で自分にとって唯一絶対の月だけを照らすための暗い夜の中の「夜の太陽」として機能するのだ。二人だけの新しい幸福の秩序の中で誰に恥じることもなく堂々と強かに生き抜いていくのだという圧倒的に清々しい覚悟の誕生でした。
その陽葵の力強くて愛情に満ちた抱擁の確かな感覚に引き上げられるようにして満月の長い金色の睫毛が何度か小刻みに震えました。やがてゆっくりとその潤んだ赤い瞳が春の透明な朝の光の中へと真っ直ぐに見開かれました。寝起きの全く焦点の合わない幼い視線が至近距離にある陽葵の穏やかな顔の輪郭を捉えました。
「……おはよう、陽葵」
満月は寝惚けたひどく甘ったるい声でゆっくりと呟くとふにゃりとだらしないしかしこの世界で間違いなく一番の幸福に満ちた破顔の笑顔を陽葵に向けて見せました。そして陽葵の左耳で微かに揺れている自分とお揃いの月のイヤリングの輝きに気付くとさらに嬉しそうに自らの右耳のイヤリングを小さく弾いてカチャリと鳴らしました。
陽葵もまた自分の顔の筋肉に一切の無理のない心の底からの柔らかくて自然な微笑みが浮かんでいるのをはっきりと自覚していました。
「ええ、おはよう、満月。すごく天気がいいわね。今日はどうする? 起きて、どこか外に二人でご飯でも食べに行こうか」
満月は陽葵のその言葉に「うん!」と元気よく大きな声で答えるとベッドの上で勢いよく身を起こしてシーツを跳ね除けました。かつて二人を隔てていた透明で冷たい絶望の壁は完全に足元崩れ去っていました。そこにあるのは過去の大きな影に怯えて息を潜める惨めな密室の逃亡者ではありません。自分たち自身の血の通った強い意思で自分たちのための新しい明日を一緒に選び取って堂々と歩んでいく対等で自立した美しい二人の女の確かな未来の瑞々しい風景が広がっていました。
窓の外を季節の終わりと始まりを同時に告げるような暖かくて少しだけ強い春一番の風が一気に吹き抜けていきました。それは部屋の隅に残っていた古い冷たい空気を完全に外へと追い出し二人だけの力強い新しい生活の始まりの足取りを大きく後押しするように空の何処までも高く澄んでいました。陽葵は痛みの消えた左耳の小さな金属の重みを感じながら窓の外の真っ青な空を最高に清々しい気持ちでただ真っ直ぐに見つめていました。
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# 第36話 月を抱く空洞
三月の最終週のことでした。海嶺大学の広大なキャンパスの敷地内には何十年も前に植樹された遅咲きの古い桜の木々がようやく一斉に満開のピークを迎えていました。それは薄紅色の分厚い雲海のように視界の上半分を完全に埋め尽くすほどのひどく圧倒的で重たい花の天井を作り出していました。まだ冬の寒さの残滓を引きずった少しだけ強くて暖かな春の突風がその木々の間を遠慮なく吹き抜けていくたびでした。無数の薄い花びらが何の音も立てずに一斉に空高く舞い上がりそして重力に従ってゆっくりと落ちてきました。それは卒業生たちの新品の黒いスーツや華やかな原色の袴の肩の上にまるで季節外れの温かい雪のように絶え間なく降り注ぎ続けていました。それは彼らが過ごした四年間という一つの長いモラトリアムの物語の完全な終わりとこれから足を踏み入れていく手加減の一切ない厳しい現実世界への旅立ちを同時に祝福するひどく美しくてそして残酷なほどに鮮やかな光景でした。
体育館ほどもある巨大な大講堂でのひどく長くて退屈な卒業証書授与式を終えたばかりの学生たちの巨大な群れでした。彼らが大学の正門へと続く真っ直ぐで広いレンガ敷きの桜並木道をひどく賑やかな高い声の塊となって大きな列をなして連れ立って歩いていました。スマートフォンのカメラを掲げて記念撮影をするために何度も立ち止まりあるいは泣き笑いのような顔でお互いに大声で別れの言葉を交わし合う彼らの輪郭でした。それはこれから見知らぬ社会という荒波の中へと勢いよく飛び出していく真っ当で健やかな若者たち特有の希望と不安の入り混じったむせ返るような強い熱気に完全に包み込まれていました。
その巨大で賑やかな群れの熱の最も外側の端を陽葵と満月は少しだけ歩幅をゆっくりと均等に合わせて肩を並べて静かに歩いていました。陽葵は自分の細くて真っ直ぐな背筋にひどくよく似合う理知的で飾らない濃紺のパンツスーツを隙なく身に纏っていました。隣を歩く満月は少しだけ背伸びをして大人ぶったようなひどく淡くて綺麗な桜色のシフォンのワンピースを着こなしていました。二人は周囲の群れが発するその圧倒的なお祭り騒ぎのような熱気に対して決して無理に笑顔を作って迎合しようとはしていませんでした。かといってかつての二人のように自分たちだけが社会から疎外されているのだと強迫的に孤立して怯えるような影も微塵もありませんでした。ひどく自然で等身大のそして驚くほど穏やかな澄み切った距離感でその賑やかな空間の中を真っ直ぐに自分たちのペースだけで歩き続けていました。
人の波を縫うようにして歩く二人の内側の手は周囲の人間たちからはっきりと容易に見える位置で一貫してしっかりと繋がれていました。決して友人同士の軽いじゃれ合いのようにごまかすことなく真っ直ぐにそして微かに白くなるほどの少しだけ強い力で隙間なく握り合わされていました。
陽葵のひどく冷えやすかった右手の指先は満月のあのひどく高い体温を持つ柔らかい左手によってその皮膚の奥の毛細血管ごと常に内側から力強く温められ続けていました。それは陽葵にとって自分がこの先どんなに冷たくて理不尽な社会の風に真っ向から吹かれたとしても絶対に血の気を失って凍えることなく一人きりで立ち止まることはないのだという文字通りの強固で絶対的な命の命綱の感触そのものでした。
陽葵はその舞い散る花びらの中を自分の足で一歩ずつ確かめるように歩きながらふと四年前のちょうどこの同じ季節の入学式の日の自分自身の姿を鮮明に思い出していました。あの頃のどうしようもなく幼くて絶望していた陽葵の目にはすれ違う周囲の同級生の全てがいずれ真っ当に誰かと結婚し健やかな子供を産んで「完全な女性」の幸福を手に入れることができる光の存在に見えていました。自分だけが致命的な手術によって何も生み出すことのできない「未来のない不良品」としてただ一人暗い顔をしてうつむいてこの同じレンガの道を歩いていたのです。あの日の凍りつくような胃の底の冷たい絶望の感触が今はもう遠い昔に読んだ他人の悲劇の小説の記憶のようにほんの微かにしか思い出せなくなっていました。
春の悪戯のような突風が強く吹き抜けて陽葵の綺麗に切り揃えられた黒髪が大きく横に揺れてめくれた時でした。彼女の白くて小さな左耳の耳たぶで冷たい金属の確かな質量を持った『月のイヤリング』がカチャリと小さな心地よい音を立てて鋭く春の陽の光を反射しました。それと全く同じ秒数のタイミングで手をつないで隣を歩く満月の右耳でも全く同じチープなデザインのイヤリングが完璧な対の鏡合わせとなってチカチカとひどく誇らしげに光の瞬きを放っていました。
陽葵はその少しだけ重たい安物の金属が自分の耳たぶの新しいピアスの傷跡を下へと微かに引張る感覚をはっきりと心地よく知覚しました。それはあの肌寒い屋上での夜に自らの完全な意思で確かな痛みを伴って身体に穴を開け満月という世界でたった一人の不完全な他者と深い最も暗い水底であらゆる執着や魂の全てを交換し結びついたというただ一つの紛れもない強固な肉体的な証明書でした。
「ねえ、陽葵」
満月が少しだけ不安そうに行き交う人々の波を見つめてからしかし以前のような底無しの泥沼を思わせる狂気的な依存の響きは全く含まれていないひどく静かで透き通った声で陽葵の横顔を下から見上げてきました。
「これから先、私たち二人の自分たちだけの力で、本当にうまくやっていけるのかな」
満月のその小さな問いかけは決して大げさに悲観したり誰かに慰めを求めているような弱音ではありませんでした。明日から社会という得体の知れない荒波の中へと無防備に放り出される二人の前には依然として「普通の幸福」というものを無意識に強要してくる世間の冷たい価値観や陽葵の家族との決定的な深い断絶など数え切れないほどの高く分厚い絶望的な壁が立ちはだかっていることでした。それを陽葵もまた冷静にかつ完璧に現実の脅威として理解し受け止めていました。
陽葵は繋いでいる右手の中の満月の指先に少しだけ強い力を籠めて自らの歩みをほんの少しも止めることなく真っ直ぐに並木道の先を向いたままで低く静かに答えました。
「ええ、きっとたくさん理不尽に転んで、その度にひどく痛い思いを散々するでしょうね。世間の人たちのほとんどは私たちを少しも理解してくれないだろうし、厳しい冬の木枯らしのような風は、これから何度も何度も容赦なく吹いてくるはずよ」
「……でもね、満月」
陽葵はそこで初めて自らの歩みを少しだけ緩めてゆっくりと隣を満月の真っ直ぐに向けてその大きく潤んだ赤い瞳と全く逸らすことなく視線を深く交差させました。
「私はもう、一人きりの凍りついた冷たい孤独な夜の底で、絶対に明けないのだと絶望してただ朝を待つだけの惨めな真似は二度としないわ。だって私のすぐ隣には、私のこの逃げ場のない身体の痛みを綺麗に半分こにして背負いこんでくれた、世の中で最高に不器用で、誰よりも美しい私だけのお月様が、こうして手をつないでずっと一緒に歩いてくれているのだから」
その陽葵の一片の迷いもない澄み切った決意の言葉を真っ直ぐに全身で浴びて満月の顔にさっきまでの小さな不安の曇った影は瞬時にして完全に消え去りました。今日一番の輝くようなまるで大輪のひまわりの花が太陽に向かってほころぶような素晴らしい笑顔がその瑞々しい唇に浮かび上がりました。
「うん。私も、陽葵がずっとこうして私の手を握っていてくれるなら、もう一人で暗い部屋の中で朝が来るのを怖がって泣いたりなんかしないよ」
二人は見つめ合ったまま微かに楽しげな小さな声を立てて笑い合いました。薄紅色の桜の花びらが幾重にも重なって二人の間の親密な空間を優雅に横切って地面へと落ちていきました。二人は再び真っ直ぐに門の先を向き完全に同じリズムのしかし四年前に入学した日よりもずっと強くて確かで信じられないほどに大きな歩幅で未来へ向けた共同の歩みを力強く再開しました。
陽葵の下腹部の最も深い底の奥かつて女としての未来である子宮が格納されていたその真っさらにえぐり取られた大きな空洞の場所でした。そこにあるのはかつてのような生命を宿せない暗い絶望の深い闇の棲家などでは絶対におりませんでした。今はただ満月というかけがえのない他者の圧倒的な存在の重量と熱き血液の温度によってただの一ミリの余白の隙間もなく完璧に満たされ静かにそして途方もなく深く柔らかく鼓動を打ち続けていました。
桜が激しく舞い散る大学の正門の大きなレンガのアーチがすぐ目の前にまで近づいてきました。ここを抜ければ嘘や甘えの効かない本物の大人としての厳しくてしかし自分たちだけの自由な冷たい現実世界の第一歩が確実に始まります。陽葵は自分の身体の中心にあるその特別な自分だけの「月を抱く空洞」が今この瞬間世界中の誰のものよりひどく暖かくて優しい無敵の光によって隙間なく満たされているのをはっきりと自覚していました。吹き付ける強い春の風に向かって突き進む二人の対のイヤリングが誇らしげに同じ輝きを放ちました。満開の花の天井の下で古い社会のカーストの枠組みから完全に抜け出した二人の新しいそして決して誰にも奪われることの終わることのない二人だけの美しい人生の物語が今真っ白なキャンバスの上へと力強く確かなインクで書き出されようとしていました。
【完】




