いつかの停留所で、また君と
第一章:リンドウ、独立する青
この部屋では、時間は流れるものではなく、堆積するものだった。私がここに来てから、どれほどの時間が過ぎたのか定かではない。
最初の頃、私はまだ、自分が何者であるか、ここはどこなのかを考えていた。しかし、次第に、私は問いかけることを止めた。
私の記憶は、手を伸ばせばすぐに触れられる距離にあるように思えた。しかし、その度に、脳の奥で砂嵐のようなノイズが走る。
「調子はどう?」
その声が、沈黙を切り裂いた。
椅子に座った男が、花瓶に花を差しながらこちらを見ている。私は彼のことを知らない。その名前すらもだ。彼はこの白い風景の中に自然に溶け込んでいた。
彼は毎日この部屋に来た。そして、古い花を下げ、新しい花を生ける。その所作には迷いがなかった。
「……あなたは、誰なの?」
問いかける声に男は答えず、ただ黙って慣れた手つきで、深く暗い青の花を整える。
「君の知り合いのようなものだよ。忘れてしまったのなら大丈夫。ゆっくりでいいよ。無理に思い出すことは、必ずしも良いこととは限らないからね」
彼は一輪、茎の短い花を指先でなぞった。その指先は驚くほど白く、細く、どこか実体感を欠いている。
「この花はね、他の多くの花とは少し違うんだ。リンドウって花、知っているかい?」
「いいえ」
「この花は野原を埋め尽くすように群生したりはしない。一輪一輪が独立して、ぽつぽつと、互いに一定の距離を保ちながら咲く。誰かに寄り添うことで自分を証明しようとはしない。隣に誰がいようといまいと、彼らはただ独りで完結するんだよ」
私は、その孤高な青を見つめた。何も持たない、何者でもない自分という空白が、その花の色に浸食されていく。彼が語る花の生態は、そのままこの部屋の静寂を肯定しているように聞こえた。群れから逸れ、繋がりを失った私に、お似合いの花とでも言いたいのだろうか。
「英語ではこの花に、こんな言葉が与えられている。Intrinsic worth。『本質的な価値』とでも訳すべきかな」
「それは一体……?」
「外的要因に左右されない価値かな。誰かと手を取り合っているからでも、何かの役割を果たしているからでもない。ただそこに、個として独立して存在していること自体に、侵しがたい価値があるという意味だと思う。君が今、どんな気持ちでいても、どんな空虚を抱えていても、君という存在そのものが持つ価値だけは、決して損なわれることはないよ」
彼の言葉は、ただ私の頭の中を、意味もなく通過していくだけだった。
第二章:アネモネ、瑠璃色の不信
季節が巡ったのだと、花瓶に生けられたアネモネが教えてくれた。
冬の間に降り積もった白を塗りつぶすような、鮮やかな瑠璃色。しかし、その色は私にとって何の暖かさも持たず、どこか神経を逆撫でするような鋭さを持っていた。
私の内側に、微かな熱が宿り始めていた。それは、生きようとする前向きな気力などではなかった。この停滞した純白の世界に対する、耐え難い違和感だった。
私はここで食事をしたり、誰かと会話したりした記憶が全くないことに気づく。眠りから覚めると、ただ彼がそこにいて、花の色が変わっている。
この部屋のどこにも鏡がない。私は自分の顔さえ、もはや曖昧になっていた。
何より、目の前に座る彼について、私は一向に思い出すことができない。彼は一体誰なのか。なぜここを訪れるのか。その目的は何なのか。
「ねえ、教えて」
私は、花びらを弄ぶ彼の指先を、逃がさないようにじっと見つめながら言った。
「あなたは、誰なの? 私のことを知っているなら、隠さずに教えてほしい。私は誰で、あなたは何のためにここにいるの?」
彼は手を止め、瑠璃色のアネモネを見つめた。その指先が、わずかに震えたのを私は見逃さなかった。
「この花の意味を知っているかい? 瑠璃色のアネモネはね、『あなたを信じて待つ』という意味があるんだ」
「はぐらかさないで。知りたいのはそんなことじゃない!」
私の声が、初めてこの部屋の壁を震わせた。不信が、剥き出しの刃となって彼に向かう。
「あなたは、すべてを知っているんでしょ? 記憶のない私をここに閉じ込めて。あなたは、私を騙しているんじゃないの?」
私が叫ぶ度に、自分の頭を自らの手で揺らすような奇妙な感覚があった。彼の輪郭も、陽炎のようにゆらゆらと揺らぐ。
「……そんなつもりじゃないんだ。ごめん。君を守りたいんだ」
彼の声は、ひどく掠れていた。その瞳の奥には、深い慈しみと、それと同じくらい深い諦念が混ざり合っているように見えた。まるで、この対話を、この拒絶を、これまでに数千回も繰り返してきたかのような、疲弊した眼差し。
「守っている? 一切の情報も与えずに、この部屋で監視していることが守っていると言えるの? 本当のことを教えて! あなたの目的は何?」
彼は否定も肯定もしなかった。ただ、アネモネの茎を握るその手は微かに震えていた。その震えが何を意味するのか私には分からなかった。
第三章:シオン、記憶の残滓
再び、空気が乾いた季節へと戻ってきた。
部屋の白は、いまや私を窒息させるほどの質量を持っていた。壁の白さはもはや単なる色ではなく、私の神経を狂わせる存在になっていた。窓の外の景色は依然としてそのままだった。
しかし、その貼り付けたような景色には、微かな亀裂が走り始めていた。それは、私の意識がこの空間を拒絶し始めた証拠でもあった。
私の精神は、いまや臨界点に達していた。これ以上、自分という「器」を空っぽにしておくことは、死んでいることよりも耐え難いものに思えた。
「教えて。どんな事実も、受け入れる覚悟があるから」
私の問いに、彼は椅子からゆっくりと立ち上がった。
その所作には、これまで守り続けてきた沈黙の終わりを告げるような、重々しい決意が宿っていた。彼の顔は、出会った頃の瑞々しさを失い、ひどく疲れ切っているように見えた。
「分かった。本当は焦らず、ゆっくりと時間をかけて君が思い出すことを待っていたかった。だけど、僕が君を引き止めることは、もうできないんだね」
彼は私に背を向けて言った。その背中は、見覚えがあるような、ひどく懐かしい広さをしていた。
「またね」
その言葉が引き金となり、世界が剥落した。
一瞬の静寂。直後、目蓋の裏側に眩いほどの光が溢れ出し、私は思わず目を閉じた。
その瞬間、脳内に濁流となって記憶が流れ込んだ。次にやってきたのは、無機質な記号の羅列だった。
旅行。家族。トレーラー。
ニュースキャスターの訓練された声が、まるで鋭い針のように脳へ突き刺さる。
「搬送先で、死亡が確認されました」
叫びは出なかった。それと同時に、鋭利な刃物で胸の奥を刺され、抉られ、そのままかき回されるような感覚。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
私は、すべてを放棄していた。その感情、苦しみ、怒り、悲しみ、真実さえも。
だから、私は、彼を呼び出したのだ。私が壊れる前に。そして、引き受けきれないほどの悲しみと苦しみ、行き場のない怒りや叫びを、彼という器にすべて流し込み、押し付けたのだ。
彼が私のことを知っていたのは、当然のことだった。彼は私の一部であり、私は彼の一部だったからだ。私が愛し、そして切り捨てた、私自身の「影」そのものだった。
記憶の濁流がさらに深部へと潜り、私は一つの原風景を掘り起こす。それはずっと前のこと。
四歳の砂場。ひとりぼっちの私。
人見知りで、言葉を咀嚼するうちに話す機会を逃してしまう私は、いつもひとりだった。他の子供たちが共有するごっこ遊びや集団のルールが、その時の私にはどうしても理解できなかった。
私は、この世界という巨大なパズルの中で、唯一形状の合わない「余り物のピース」であるかのような感覚に怯えていた。
そんな私を救ったのが、彼だった。
湿った砂を掘り進め、冷たい地中の温度に触れていた私の指先に、彼の影が重なった。
「ねえ、僕も一緒に作っていい?」
それが、彼との初めての出会いだった。彼は私のすぐ隣に座り、私と同じリズムで砂を積み上げた。彼は私の拙い言葉を補完し、私が頭の中で描いていながら出力できなかったイメージを、まるで魔法のように砂の上に具現化していった。
「今日はお城を作ろう」
彼がそう言うと、ただの湿った砂の塊が、私には銀色に輝く金属の構造物に見えた。私たちは二人だけの王国を作り、夕暮れが街を飲み込み、大人たちの呼ぶ声が聞こえるまで、砂の上に文明を築き続けた。
「もしも世界で君がひとりぼっちになっても、僕がいるよ」
彼は、そう私を勇気づけた。
けれど、その王国はあまりに脆弱だった。周囲の「普通」を望む圧力に対して、子供の空想は何の力も持たなかった。
「あなた、誰とお話ししているの?」
背後からかけられた母の声。それは、かつては優しかった響きを失い、日を追うごとに粘りつくような怯えを含んでいった。
母の視線は、私を通り越し、彼が座っているはずの砂場の虚空に向けられていた。その瞳に宿ったのは、得体の知れない病に侵された娘を憐れむような、あるいは不潔なものを見るような、隠しきれない拒絶の色だった。
大人たちの目は残酷だった。
「あの子、また一人で喋ってる」
「少し心配ね」
「お友達がいないから、ああなっちゃったのかしら」
「病院に連れて行った方がいいんじゃない」
幼稚園の送迎の際、他の母親たちが交わす密やかな話が、鋭い針となって私の自尊心を突き刺していった。私が彼と笑い合うほどに、私は社会から切り離されて孤立していく。その恐怖が、いつしか彼への親愛を、どろりとした自己嫌悪へと変質させていった。
彼はいつだって私の味方だった。けれど、彼の存在は、同時に、私が異常であることの証明そのものになってしまっていた。
小学校へ上がり、その抑圧は臨界点に達した。
放課後の誰もいない教室。窓の外では、実体を伴った友人たちが校庭を走り回り、夕日に影を伸ばしている。彼らは互いの体をぶつけ合い、共有できる言葉で笑い、確かな現実を謳歌していた。その健全な風景の中に、私も混ざりたかった。不気味な子だと思われたくなかった。
背後で、彼が静かに私に問いかけた。
「あっちへ行きたいの?」
その声が聞こえた瞬間、私の中で何かが、決定的な音を立てて千切れた。
彼さえいなければ。彼が私に執着し、私をこの閉ざされた孤独に縛り付けているから、私はみんなと同じ普通の場所へ行けないのだ。彼が私を、異形の怪物のままに留めているのだ。彼のせいで。
「……消えて。お願いだから、もう消えて!」
私は彼を振り返ることもせず、爪が掌を突き破るほどに拳を握りしめて叫んだ。
「あんたのせいで、私はみんなに不気味だって言われるの! お母さんも、あんたのことを怖がってる! 私は、あんたなんか欲しくない! 私は、人間のお友達が欲しいのよ! あんたみたいな『化け物』、もう出て行ってよ!」
沈黙が降りた。夕焼けが教室の机や椅子を真っ赤に染め上げ、血のような影が長く伸びていた。
恐る恐る振り返ると、そこにいたのは、怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ、自分が消えゆく運命を静かに受け入れた者の、あまりに透明な微笑みだった。
「……分かった。君がそう望むなら、僕はもう、いなくていいんだね」
彼は寂しそうに「またね」とだけ呟いた。
彼は陽だまりの中に溶けていった。私が、彼を殺したのだ。
それから十数年、私は彼のことを一度たりとも思い出すことはなかった。進学、そして就職をして、友人を作って普通に生きてきた。
けれど、あの日。私は全てを失い、誰もいない場所に放り出された。そんな時に、彼はまた、駆けつけてくれた。
そして目を開けた時、彼はすでに消えていた。
静止していた窓の外の空には、初めて風が吹き始めたかのように、雲がゆっくりと形を変えながら流れ始めていた。
花瓶には、薄紫のシオンの花だけが、静かに生けられていた。
私は、震える手で花瓶のガラスに触れた。そこには、彼が私のためだけに祈りを捧げてくれた痕跡があった。微かな、けれど確かな体温が残っていた。
彼は知っていた。私がかつて、どれほど残酷に彼を否定し、彼という存在を抹殺したかを。
それでも彼は、私が壊れかけた時、何一つ責めることなく戻ってきてくれた。私が、再びこの地獄を引き受けられるようになるまで、私の絶望を代わりに背負ってくれていた。
私は、ベッドからゆっくりと立ち上がる。
これからは、この痛みを、この喪失を、この真実を、他ならぬ私自身の温度として、一生抱えて生きていかなければならない。
私は、一度だけ深く、長く、息を吸い込んだ。
そして、ドアノブを握った。扉の向こう側に何があるのか分からない。
それでも私は、その一歩を踏み出した。
(了)
この物語はフィクションであり、実在の人物、事件、団体とは一切関係ありません。
この作品を読んでくださった皆様に、深く感謝申し上げます。




