【短編】令息を誑かすと噂の元平民子爵令嬢を教育して差し上げたところ
ご覧下さり、ありがとうございます!
本編下部に小話のおまけ付きです。
では、どうぞお楽しみください( .ˬ.)"
穏やかな日差しが降り注ぐ今日。窓から見える麗らかな彩りを楽しみながら紅茶を飲んでいると、コンコンとノックの音が響いた。
外の近衛騎士が「オルネリア様。ラグニール様のお越しです」と言う。「どうぞ」と答えると、彼女の夫と従者が入ってきた。
「オルネリア、少し頼みたいことがあるのだが」
「まぁ、ラグニール様。それはわたくしに?それともこの子に?」
「あぁ〜……」
オルネリアが目を細めたのを見て、決まりが悪そうな声を漏らしたのは、このドロエット王国の王太子であるラグニール・ドロエット。真っ赤な髪をガシガシと掻き混ぜ、申し訳なさそうに呟いた。
「……悪い。また貸してくれないか」
「もう。仕方がありませんわね」
オルネリアはラグニールから封書を受け取り、主人として先に中身を確認する。ここに居るのは近しい者達だけのため、オルネリアは表情を繕うことなく顔を顰めた。
「……はぁ。またこんな危険なものを。この子はわたくしのものなのに」
そう溜息を吐きながら、後ろに控えている侍女にそれを渡す。侍女は静かに目を通してから、そこに書かれていた内容を要約した。
「王都南側の平民街で、人身売買などの違法オークションが行われている疑いあり……ですか。これはまた」
そう平坦な声色で告げた侍女に、オルネリアとラグニールは投げかける。
「やれるか?」「やってくれるかしら?」
オルネリアは振り返り、その静かな瞳を見上げた。二人からの視線を受けた侍女は、その場で深く膝を折る。あまりにも美しくなった所作に、オルネリアは遠い日のことを思い出してしまう。
「我が太陽と月の仰せのままに」
侍女のお仕着せをふわりと広げ、二人に対して敬意を示す。そうしてゆっくりと上げられた瞳には、先程まではなかった熱が込められていて――。
オルネリアは繋ぎ止めるように手を伸ばし、その腕を掴んだ。
「貴女はわたくしのものよ。無事に帰ってきて」
侍女はオルネリアの手を優しく解くと、前に出て膝をつき、深々と頭を下げた。
「はい。必ず御身の側に戻ってまいります」
その姿は、侍女というよりもまるで騎士のよう。襟に付いた青い宝石のピンバッジがキラリと光る。
献身的な危うさに、オルネリアは「行かないで」と言ってしまいそうになり、その言葉をぐっと飲み込む。
立ち上がった侍女は二人に向かって一礼したあと、ラグニールの従者に「お二人のことを宜しくお願いします」と言って、颯爽と退室していった。
(わたくしがあの子をここまで引き上げてしまった。そして、あの子もそれを望んだのよ。一体いつまでわたくしはウジウジと悩んでいるのかしらね)
黙って侍女の出ていった扉を見つめていたからか、オルネリアの肩にラグニールの手が添えられた。
(国のために必要なこと。そんなことは分かっているわ。彼女が適任だということも、彼女がそうして使われるのを良しとしていることも……)
再び窓の外へと視線を向けると、さっきまで明るかった空が陰っている。
もう少しすれば雨が降るのかもしれない。初めてあの子と出会った、あの時のように――。
「オルネリア様、聞きまして?例のご令嬢、今度は子爵家の次男に求婚されたそうですわよ」
「……あら、そうなの?」
「わたくしも聞きました。これで何人目でしょう。しかもその中には、決まった婚約者のいる令息も含まれているとか?」
「えぇ。婚約破棄や解消になった者も居るそうですわよ。侍女の腹から生まれた下賎な人間に、婚約者を奪われるなんて……。そのご令嬢が可哀想ですわ」
「まぁ……」
昼食の時間。食堂のテラスで食事をしていると、その側で令嬢達が姦しく囀ってきた。適当な相槌を打ってはいたが、オルネリアの頭の中は今日のスケジュールに思考が割かれていた。
王太子妃教育と、学園での勉強。言葉にすれば随分とあっさりしているが、その両立はとても大変だった。
王太子妃教育では、いずれこの国の中心に立つラグニールの婚約者として恥ずかしくない教養を身に付け、学園では、今後臣下となる令息令嬢との関係を築く。
将来王太子妃に、そして王妃になる予定のオルネリア・ガレッティにとって、それが何よりも優先されるべき責務。
そんなオルネリアは、今学園で噂になっている元平民の子爵令嬢にさほど興味がなかった。「ふぅん」と聞き流す程度の存在。それが――セレン・デフェオ子爵令嬢だった。
セレンは冬に編入してきた、珍しい令嬢だった。
子爵のお手付きによって、屋敷で働く侍女から生まれたというセレン。母子共に屋敷を追い出されたため、彼女は元平民として生きていた。
しかし母を亡くしたからか、子爵がセレンを娘として迎え入れたため、学園に編入してきたそうだ。
そんなセレンの名は、僅か半年ほどで随分と広まっていた。彼女の噂は大きく分けて二つ。
多くは、下級貴族の令息達を誑かして骨抜きにし、婚約者達の関係を壊すので迷惑だという、そんな婚約者を持つ令嬢達やその友人達、セレンを不快に思う者達からの非難。
数少ないもう一方は、辛い生い立ちにも関わらず、荒れることなく物静かで、今にも消えてしまいそうな儚さから守ってあげたくなるという、彼女を想う令息達の擁護。
当事者である令息と令嬢の溝は広がるばかり。そのせいか、セレンと関わりのない令息に対しても、婚約者の令嬢が不安に思って「絶対に近付かないで」と念押しするほど。
彼女を中心に、ギスギスとしたカップルは増え続ける一方だった。
(このまま婚約解消や婚約破棄が続けば、政治的な繋がりで結ばれるはずだった家同士までギクシャクしてしまうわ。国の将来にとっても良くないのでしょうね……)
頭の片隅ではそう思ってはいる。
けれど、王太子の婚約者であり、筆頭公爵家の娘であるオルネリアが出ていけば、問題を大事にしてしまう。
そもそも婚約者が居るにも関わらず、他の令嬢に入れあげる令息も令息なのだ。第三者目線で見た時、セレンだけが悪し様に言われていて、オルネリアは不憫だと憂いていた。
(もし仮に、ラグニール様が噂のご令嬢や他の方と良い仲になったとしたら、わたくしはラグニール様の方を引っ叩くでしょうね)
なにせ彼は王太子なのだ。
ラグニールの寵愛を得ようと動く令嬢も多ければ、オルネリアを蹴落とそうとする令嬢も多い。
その中で、婚約者の言葉に耳を傾けず、彼が他の令嬢を隣に置いたのなら――怒るべきは令嬢にではなく婚約者のはず。
(みなさんの目が曇ってしまう前に、何か手を打たなければいけないのかしら)
そうして令嬢達の話を聞いていると、昼休憩の終わりを告げる鐘の音がゴーンと響いた。
授業開始までまだ時間はあるものの、オルネリアや一緒に食事をしていた令嬢達は席から立ち上がる。テラスに居た他の令息令嬢も各々の教室へと戻っていく。
入れ替わりで、帽子を深くかぶったエプロン姿の令嬢がテラスへと向かっていった。
恐らく下級貴族出身で、食堂のアルバイトをしているのだろう。布巾を手に持ち、それぞれのテーブルを拭いて回っているよう。
その姿に顔を顰める者や嘲笑を向ける者も居て、オルネリアは小さく息を吐いた。
(休憩時間や授業の合間を使って懸命に労働する者を嘲るなんて。領民あっての領主、平民あっての王国だと学んでいるはずなのに。それに貴族であっても、どの家にだってそれぞれの家の事情があるでしょう)
そんなことを考えながら令嬢を注視していたせいで、オルネリアは前を歩いていた令嬢にぶつかってしまった。
その時、カシャンと何かが落ちたような音が響くも、多くの足音に掻き消されてしまう。気のせいだろうかと思っていると、目の前の令嬢が顔を青くして頭を下げていた。
「ガレッティ公爵令嬢……!た、大変申し訳ございません!」
「いえ、わたくしがきちんと前を見ていなかったのですわ。ごめんなさいね。怪我はないかしら?」
「は、はい!大丈夫です……!」
相手は伯爵家の令嬢で、立場が上のオルネリアにぶつかってしまったと泣きそうになっていた。こちらの不注意だと令嬢に謝罪をし、気にしていないと振舞う。
(この方の謝罪は、わたくしが公爵令嬢だからね。もしぶつかったのが噂の子爵令嬢や自分より家格が下の者だったら……どんな対応をしたのかしら)
そんな仮定をぼんやりと空想しながら、人の流れに身を任せてオルネリアは足を進めた。
「はぁ……はぁ……っ」
息を切らせながらオルネリアが再びテラスの扉を開いたのは、最後の授業を終えたあとのこと。
もう帰宅するだけだったオルネリアだが、上着を羽織ろうとして胸元に付けていたブローチがなくなっていることに気が付いたのだ。
そしてふと、テラスから教室に戻る時に聞いたカシャンという音は、ブローチが床に落ちた音だったのではと思い至り、カバンを持ってここまで駆けてきた。
しかし午後の授業から雨が降り出し、今もまだザァザァと降り続いている。傘は持ってきたものの、こんな中でブローチを探すのは一苦労だろう。
どうしましょう……とオルネリアが扉を開けて困っていると、テラスの屋根の下でひっそりと立っていた令嬢から「あの……」と声がかけられた。
そこに居たのは昼間見た、深く帽子をかぶったエプロン姿の令嬢だった。おずおずと開かれたその手にはハンカチが敷かれ、その上にブローチが乗せられている。
「まぁ!貴女がこれを?」
「はい。テーブルの下に落ちているのを見付けて」
令嬢からブローチを受け取り、オルネリアはそれを大事に両手で包み込んだ。
このブローチはラグニールからもらった大切なもの。学園の入学祝いにと、お互いの髪の色の宝石が付いたブローチを用意してくれたのだ。
ラグニールはオルネリアの髪色である紫の、オルネリアはラグニールの髪色である赤のブローチを揃いで付けている。
ホッと胸を撫で下ろしてから、オルネリアは目を瞬いた。
「ありがとう。これはわたくしのとても大切なものなの。ところでその……聞いてもいいかしら?」
「なんですか?」
「もしかして貴女、ずっとここに居たの?」
オルネリアがそう尋ねると、ただでさえ帽子で見えづらい顔が更に俯いた。
ここの食堂の提供時間は昼食時だけと決まっている。それ以外の時間もこうして入退出は出来るものの、お喋りをするなら談話室の方がいいと、ここを訪れる学生は少ない。
そんな食堂で、未だエプロン姿で居る必要はないはず。そうなると、もしやあの時からずっと着替えていないのでは。そう気付いたのだ。
「……私には、そのブローチにどれほどの値が付くのか分かりません。でも、とても高価なものだろうなって。そのままにしておけば、誰かが持っていってしまうかもしれないし、落し物として届けても、その人の元にきちんと届くのか分からなくて。いつ気付いて探しに来るかも分からなかったから……その……」
「それで、わざわざずっと……?授業をサボって?」
ややあって、令嬢はこくんと頷いた。随分暖かくなってきたとはいえ、こんな雨の日に四時間ほど立ち続けていたことになる。テラスの屋根は狭く、風が吹いた時には雨に打たれたはず。
思わず手を伸ばすと、その手はとても冷えきっていた。令嬢らしからぬガサッとした荒れた肌にも驚いてしまう。
「こんなに冷たくなって……!風邪でも引いたら大変だわ!早くこちらに」
「えっ!?あの……っ」
オルネリアは慌ててテラスから食堂内へと移り、令嬢に荷物を取りに行かせた。
「お待たせしました」
食堂の椅子に腰かけて待っていたオルネリアは声の方向へと視線を向け、その容姿に目を見開いた。
帽子で隠していたのは顔だけでなく、老婆のような真っ白の髪もだったらしい。今にも消えてしまいそうな儚げな見た目と噂されている令嬢が、そこに立っていた。
「貴女は……」
「……ごめんなさい。私、名乗ってなかったんですね。その……私、セレン・デフェオといいます」
オルネリアはセレンを公爵家の馬車に乗せ、屋敷へと招いた。
御者や屋敷の使用人達は、オルネリアが子爵令嬢を連れてきたとあって不思議そうにしていた。公爵令嬢と子爵令嬢では家格が違いすぎるため、学園内でも教室が違い、基本的に接点を持つことがないからだ。
噂好きの侍女がセレンの容姿を見てかの令嬢だと気付いたらしく、コソコソと「どうしてあの令嬢がこの屋敷に?」「お嬢様に何かしたんじゃないの?」と囁いた。
ただでさえ公爵家なんて格上の屋敷に招かれたせいか、セレンは居心地悪そうにオルネリアの後ろで小さくなるばかり。
感謝すべく招いたのに、理不尽な敵意を向ける侍女が我が屋敷に居るなんてと、オルネリアは眉を寄せた。
「そこの二人、こちらへ」
呼ばれた侍女二人はビクリと肩を揺らし、慌ててこちらに向かってきた。
「彼女はわたくしが招いた客人よ。わたくしが落としたブローチを、雨の中ずっと持っていてくれた心優しい方なの。そのお礼をするために招いたのに、貴女達は噂や憶測で何と言ったのかしら?」
「え……」「お嬢様……っ」
オルネリアは控えていた家令に目を向ける。アイコンタクトで伝わったらしく、家令は静かに頭を下げた。
彼女達が反省を示してこのまま屋敷で働けたとしても、配置換えされてもうオルネリアの視界に入ることはないだろう。
興味を失ったように二人の侍女からふいと顔を背け、セレンを手招いた。
「うちの使用人がごめんなさい。さぁ、こちらにいらして。ところで、セレンと呼んでもいいかしら?」
「え……」
先導しながら問いかけると、驚いた声を発してセレンは立ち止まった。オルネリアは振り返って首を傾げる。
「どうしたの?もしかして、名前で呼ばれるのは嫌だったかしら」
「ううん……違う、違うの……」
階段の途中で立ち止まったままのセレンはゆるゆると首を振る。元々危うかった言葉遣いが完全に崩れてしまっているけれど、それよりも。
「……温かいものを用意させるわ。わたくし、貴女の話を聞いてみたいの」
その瞳からぽろぽろと涙が零れていて。少し湿ったセレンの制服を摩りながら、オルネリアは部屋へと案内した。
部屋でお茶を飲んで一息ついたオルネリアは、セレンにこれまでのことを問いかけた。セレンは随分言い渋っていたけれど、
「わたくしは公爵令嬢なの。貴女の噂は沢山耳にするけれど、貴女の言葉では聞いたことがないでしょう?もし貴女が噂を否定するなら、わたくしが調査して真実を広めることも、貴女の現状を救うことだって出来るわ。セレン、少しだけわたくしに話してみない?」
と声をかけると、彼女はぽつぽつと自身の人生を語り始めた。その話は、『それぞれの家の事情』という陳腐な言葉では片付けられないほど、悲惨なものだった。
セレンの母親は男爵家の四女として生を受け、伝手で子爵家の侍女として奉公に出た。
そこで噂の通り、子爵の気まぐれでお手付きになり、妊娠。正妻の子爵夫人はそれに怒り、セレンを身篭ったままの母親を屋敷から追い出したという。
実家からも「政略結婚に使えなくなった娘など要らない」と門前払いされ、元男爵令嬢はお腹に彼女を宿したまま、侍女の時に培ったものを活かし、平民街の食堂で働いた。
出産後もそんな日々を続けていたが、セレンが十歳にも満たない頃、母親は風邪を拗らせて亡くなってしまう。
それからセレンは、母親と暮らしていた家のお金が払えず行き場を失い、流れ着いた貧民街の空き家で暮らす生活が始まった。
食事代を稼ぐため、少女にとっては過酷過ぎる肉体労働の現場でも働いてきたセレン。日に日に成長していく体を目当てに襲ってくる男も居て、なんとか稼いだお金や手に入れた食事さえ諦めて逃げるような日もあったという。
常に危険と隣り合わせの、気の休まらない生活。その中で、母親譲りだった灰色の髪は真っ白になってしまったそうだ。
まさに泥水を啜って生きるような想像を絶する日々に、オルネリアは口を引き結んだ。
そんなある日、子爵家の馬車がセレンを迎えに来た。母親から父親の話を聞くことのなかったセレンは、まさか自分の父親が貴族だなんて信じられなかったそうだ。
馬車を降りて目の前に広がっていたのは、雨風を気にしなくていい立派な屋敷に、目が眩むほど眩しい室内。同じ人間の暮らしとは思えないものがそこにはあった。
そして、子爵がセレンを迎えに来た理由――それはあまりにも身勝手なものだった。
子爵と正妻との間に出来たのは結局長男一人だけで、その後の子供は流産や幼くして亡くなってしまったそう。そのため、他家に嫁がせる駒としてセレンを欲したのだ。
実は子爵は、追い出したセレンと母親の動向を密かに報告させていたらしい。
母親が亡くなった時も、セレンが貧民街で苦しい生活をしていた時も、何一つ助けなかったというのに。利用するためだけに呼び戻したのだ。
「学園に入れてやる。お前はあの女の容姿を継いで、従順で手折りやすそうな顔をしているからな。我が家以上の……伯爵令息以上と関係を作ってこい。そうでなければ、金払いのいい貴族の後妻として売り付けるからな」
子爵からそう命じられ、セレンはそこで初めて母が男爵令嬢だったことや、侍女として子爵の屋敷で働いていたことを聞かされた。そうして気付けばあっという間に学園の寮に入れられていたそうだ。
それからは一人寂しく学園生活を送っていた。なにせ平民育ちという醜聞を持つセレンに近付こうとする者はいなかったからだ。
けれど暫くして、セレンを気にして声をかけてきた一人の令息が居た。そうして気付いた頃には、自分の周りに令息達がやって来るようになっていたという。
「貧民街での暮らしで、どう言えば上手くお願いが出来るか……どう言えば相手を怒らせないか学んだんです。女の人にはあんまり通じないんですけど、男の人はお願いすると優しくしてくれる人も居たから」
学園でセレンが令息達を虜にした実態は、ただ生き延びるための手段に過ぎなかった。
周囲はセレンを元平民の卑しい人間として遠巻きに見るだけで、誰も相手にしなかった。その中で声をかけてくれた令息が居たとしたら、それに縋っても不思議ではないだろう。
ラグニールに言い寄ろうと甘い声を出したり、わざと転んで抱きついたりするような令嬢を知っているオルネリアからすれば、彼女のそれは決してそんな令嬢達とは違う。
けれどセレンは、学園で自分が婚約者達の仲を引き裂く売女のように罵られ、母親までも侮辱されるようになっていってしまった。
「教養がないなんて言われたって誰も教えてくれないし、優しくしてくれた人に頼っていたら、婚約者の居る男に媚びを売ってと指をさされて……。それなら私はどうしたら良かったの?」
「子爵は貴女に教育をしてくれなかったの?」
「はい。何回もお風呂に入れられて、ピカピカになるまで磨かれて。ただそれだけでした」
セレンの返答に、オルネリアは額を押さえた。
本来学園に通う生徒達は、下級貴族であっても基本的な教養は学んでくる。
多くは家庭教師を雇い、家庭教師が雇えないような家であれば、両親が子に教育をする。貴族として社会に出すなら当然のことであり、親の責任だ。
それすらも与えられず右も左も分からない中、手を伸ばしてくれる令息が居たら。そのせいで新たな問題を生んだとしても、彼女はその手を掴むしかなかったはずだ。
それに子爵からの命令もある。伯爵家以上の令息と縁を結べなければ、いずれ売られる未来が訪れるのだから。セレンにとっては望ましい展開だっただろう。
――けれど。
「貧民街にはもう戻りたくない。あんな生活は、もう嫌なの。でも、そのためにはあの人の言うように、誰かのお嫁さんにならなくちゃいけないんでしょ?」
その表情は、思い通りに事が進んでいるようには見えない。胸を押さえ悲痛に苦しむ、小さく哀れな姿があった。
「でも私なんかがお嫁さんなんて、相手の人に迷惑をかけちゃう。誰かの大切な人を奪うことも、誰かに迷惑をかけることも、本当はしたくないの……っ!」
理不尽な人生を歩んできた少女の心の吐露に、オルネリアは胸が締め付けられた。他人を利用し、時には踏み躙ろうとする人で溢れている世の中で、これほど優しく生きている子は、はたしてどれほどいるのだろうか。
オルネリアはその震える体を優しく抱きしめた。セレンは堰を切ったようにしゃくり上げる。
「セレンなんて名前で呼ばれたの……何年ぶりだろう。……お母さん。お母さぁん…………っ!」
オルネリアはその日から、セレンを側に置くようになった。それは筆頭公爵家のオルネリアが彼女を気に入り、庇護下に迎えたということ。そんな存在を表立って悪く言える者は少なかった。
唯一、イラーリエ侯爵令嬢とその取り巻きが、「あんな卑しい女を側に置くなんて」と笑っていたけれど。
彼女は、ラグニールの婚約者候補として最後まで争っていたため、婚約者に選ばれたオルネリアを未だ敵視している。だからそんな悪意など歯牙にもかけず、オルネリアは堂々とセレンを連れ歩いた。
一つ学年が上のラグニールと、ラグニールの従者であるジリオン・ラヴィーニ侯爵令息は、オルネリアが噂の令嬢を連れていることに驚いていた。
学園内が荒れている問題として、いつかオルネリアがセレンの件に着手するだろうと静観していた二人だったが、まさかそうなるとは思わなかったのだ。
オルネリアを信じているラグニールは二人を呼び出し、ジリオンも含め四人で話し合いの場を設けた。そこでセレンは、身の上話を二人にも伝え、「生涯オルネリア様に仕えたい」と己の気持ちを明らかにした。
しかし、その要望にジリオンは顔を顰めた。
ジリオンもラグニールに忠誠を誓い、生涯彼に身を捧げると決めている。これまで婚約を結んだことも見合いをしたこともあったが、令嬢達からは「殿下の話ばかり」「殿下が恋人のよう」「殿下を優先して、わたくしを見てくださらない」と惨敗続き。
それなら暫く独身で居続ければいいと、投げやりな気持ちになっていたところにセレンがやって来たのだ。
ジリオンは自他共に認めるラグニール第一主義者で、彼の婚約者であり妃となる予定のオルネリアのことも、己の主人を支える同士といった意味合いで慕っている。
そこにセレンが加わる。それはジリオンにとって喜ばしいものではなかった。真実がどうかはさておき、セレンの悪評は広まりすぎていたからだ。
セレンは主人の評価を陰らせる可能性がある。しかも、基本的な教養さえも学んでいないときた。
オルネリアが面倒を見るとは言うが、彼女は彼女で学園生活と王太子妃教育で予定が詰まっている。その間に何かやらかしたらどうするつもりなのか。
万が一、オルネリアがラグニールの婚約者の座から降りなければならない事態になったら――?
政略的な婚約とはいえ、ラグニールは望んで婚約者候補の中からオルネリアを指名し、婚約者として選んだ。信頼し愛し合っている二人の関係が壊れるなど、絶対にあってはならない。
ジリオンは威圧的な態度を取り、青く鋭い瞳でセレンを見下ろした。
「生涯仕えたい?主人の後ろ盾にもなれないどころか、貴族であれば身に付けていて当然の教養もない。お前、主人の評価を下げ兼ねない危険物だっていう自覚はあるか?」
「ちょっと、ジリオン!この子の境遇を聞いてもなお、そんな酷いことを言うの!?」
「可哀想だとは思いますよ。けれど、俺にとってはラグニール様やオルネリア様の評価に傷を付ける可能性のある人間は、早めに排除しておきたいんです」
オルネリアはジリオンに食ってかかるも、彼の気持ちも理解は出来る。自分達の未来を案じての発言に、オルネリアは押し黙った。
彼のラグニールに対しての忠誠心を思えば、懸念を排除したいと動くのは自然なこと。寧ろ、無言で行動に移さないだけ温情がある方かもしれない。
オルネリアはハラハラと二人を見ていたが、セレンはいつもと変わらない声色で、ジリオンに向かって呟いた。
「私がオルネリア様の害になると判断された時は、どうぞその剣で切り捨ててください」
と。
ラグニールの護衛も兼ねているからか、学園内でも珍しく帯剣を許されているジリオン。その躊躇いのなさに、言われた当人も目を見開く。
オルネリアが駆け寄って、「そんなこと、絶対に言わないでちょうだい!」と縋るも、セレンは「私のせいでオルネリア様が悪く言われるのは嫌なんです」と苦笑していた。
主人のためになら命さえも差し出せる――そう言われた気がして、ジリオンは苛立つ気持ちを押し殺してセレンを睨んだ。
ラグニールへの忠誠心に偽りはない。その身を捧げるというのも本心だ。
しかし、ジリオンは侯爵家の嫡男であり、命をかけると間髪入れずに返答出来るかと問われれば、答えは否だろう。守るべき家、そして育ててくれた両親や弟妹の顔が過ぎらないほど、ジリオンも薄情にはなれない。
――こんな益にもならなそうな女に、己の忠誠心が負けたと?
そう突き付けられた気がして、ジリオンは唇を噛む。そんな空気を変えたのはラグニールだった。
「なににしても、オルネリアがここまで人を気に入るのは珍しいことだ。私にとってジリオンが欠かせないように、オルネリアにとってセレン嬢がそんな存在になってくれることを願うよ」
ラグニールはぽんぽんとセレンの頭を軽く叩いた。それを見たオルネリアが声を荒げる。
「ちょっと、ラグニール様!そんなふうに、わたくしのセレンに触れないでくださる!?」
「ただ頭に手を乗せただけじゃないか。というかこういう場合、普通はセレン嬢の方に嫉妬を向けるものなんじゃないのか……?」
「さっきの話を聞いていまして?セレンは男に襲われた経験があるんです。たった一日、ちょっと話した程度の方に、セレンは触れさせませんわ!」
「えぇ……?」
オルネリアはラグニールをぐいぐいと追いやり、セレンへの今後の対応について懇々と説明を始めた。痴話喧嘩のように、仲睦まじくぶつかっている。
「……口先だけにならなきゃいいけどな」
「頑張ります」
片や主人に忠誠を誓う二人のうち、一人は火花を散らし、もう一人はその視線を静かに受け流していた。
それから、子爵が放棄した教育をオルネリアが行い、セレンはみるみる淑女としての力を身に付けていく。
オルネリアの居ない場では、問題を起こさないように気配を薄くして壁にひっそりと佇み、オルネリアの居る場では、彼女の許した指示にのみ従う。
時にはジリオンがオルネリアの代わりにセレンと行動し、失態のないよう監視……もとい見守ることも。
最初はセレンを警戒していたジリオンだったが、オルネリアが何度も「あの子は優しすぎて危ういの」と語っていた理由をひしひしと感じることとなる。
不遇の中で生きてきたはずなのに、会話から伝わる人への優しさや思いやり。それもこちらを欺くための演技かもしれないと警戒するが、それすら馬鹿らしくなるほどセレンの言動は綺麗で率直なものだった。
そんなある日、ジリオンはラグニールやオルネリアの居る前でセレンに問いかけた。
「オルネリア様と最初に出会った時、お前はブローチを拾ったんだろう?高価なものだと気付いていたのに、お前はどうして盗もうと思わなかったんだ?」
それはジリオンだけでなく、ラグニールやオルネリアも疑問を抱いていた。
オルネリアのブローチは、それこそ小さな屋敷が買えるほどの代物なのだ。
有名な金細工師の作った台座に、美しくカットされた大きなルビー。小さなダイヤモンドも散りばめられており、売った金で逃亡すれば、平民なら悠々と暮らしていける金額になる。
セレンが自ら口にした、「そのままにしておけば、誰かが持っていってしまうかもしれない」という言葉通り、落ちていたら盗まれて当然の品だ。
貧民街での暮らしで、奪い奪われる実情を多く見てきたはずなのにどうしてと、三人は思っていた。
向けられた視線に、セレンは静かに目を伏せた。
「私は、死ぬかもしれないと思ったことは何度かありましたが、自ら死のうとしたことはありません。母が私を大切にしてくれた頃のことを考えたら、自分で命を散らすなんて出来なかったんです。でも……唯一、もう死んでしまいたいと思ったことがあったんです」
ジリオンの質問とは少しずれた話が急に始まったものの、内容が内容だけに、三人揃って黙って話を聞く。
ジリオンは「……何があったんだ?」と恐る恐る問う。
「母が亡くなる前にくれた、形見のネックレスがあったんです。母が実家で暮らしていた時、最後の誕生日プレゼントでもらったという、小さな青い石の付いたネックレスでした。でも……貧民街に流れ着いた時、それを首から千切られ、盗られてしまったんです。あの時だけは……自分の無力さに消えてしまいたかった」
きゅっと目を瞑るセレンを見て、オルネリアは口に手を当てて肩を震わせ、その肩をラグニールは黙って抱き寄せた。ジリオンは手を握りしめ、静かにセレンの過去に耳を傾ける。
「盗めば生活が楽になる。頭の片隅では、そう考える自分も確かに居ました。けれど、それがその人にとって、生死を分けるほどの大切なものだったら?と。あの日、辛くて悲しくて泣き叫んだ私が、それと同じことをするなんて……。そう考えたら、どれだけ辛くても盗みなんて出来ませんでした」
そう静かに首を振るセレンを、オルネリアは飛び付くように抱きしめた。いつもはラグニールの婚約者として表情にも気を配っているオルネリアが、泣かないセレンの代わりとでもいうように、声を押し殺して涙を流す。
「ジリオン。セレン嬢はお前が嫌うような、私達の足を引っ張る存在ではないようだな。それどころか、こちらの心が洗われるようじゃないか」
「……そう、ですね」
ジリオンはその時、セレンの心の在り方に完敗したと感じた。
ジリオンはラグニールの従者兼護衛になるため、研鑽を積んできた自負がある。弱き者を守るため、国の民を守るため、そして我が主の目指す未来を守るために。
――そう修練を積んできたはず。それなのに。
(ラグニール様の従者として、いつの間に視野が狭まっていたんだ?この方が目指している国は、こんな心優しい民が豊かに暮らせる国のはずなのに……)
ラグニールを守ることだけに囚われ、真に大切なことを見失っていた。それをセレンが思い起こさせてくれたような気がして、ジリオンは息を吐く。
貴族としてはまだまだ未熟で、二人の側に置くには地盤があまりにも脆すぎる少女。
けれど、世の中の汚れを知りながらも変わらない清廉潔白な精神に、得難い信頼を寄せるオルネリア。ジリオンもついに納得した。
二人が彼女の手を離すつもりがないというのなら、自分は――。
「セレン嬢」
「……はい、なんでしょう」
初めて名前を呼ばれたからか、あまり変わることのないセレンの表情に驚きが見え、いつもよりも目が丸くなる。その華奢な体とあどけなさを、二人と共に守ろうとジリオンも心を決めた。
「これからは何かあれば俺も頼れ。……手を貸してやらないこともない」
なんと決まりの悪い言い回しだろうか。侯爵令息として、それなりに令嬢との付き合いもしてきたはずなのに。
そんなことを胸の内でぶつくさと呟きながら、ジリオンは無性に恥ずかしくて視線を彷徨わせた。
「ありがとうございます、ラヴィーニ様。これからも宜しくお願いします」
と、その声に再び視線を戻すと、セレンが陽に透けるようにうっすらと微笑んでいる気がして。
「……俺のことは、ジリオンでいい」
「はい、ジリオン様」
レースカーテンで柔らかくなった陽の光にさえ、セレンは消えてしまいそうに見えた。令嬢に対してジリオンの胸がざわりと揺れたのは、この時が初めてだった。
そうしてセレンの評価は、次第に『元平民で令息を誑かす、卑しい不義の令嬢』から『公爵令嬢に価値を見出された、忠実なる令嬢』へと変わっていった。
オルネリアに淑女としての指南を受け、ジリオンからは従者として必要な知識を学ぶ。
それは、下級貴族のセレンには本来求められない高度な教養ばかりで、オルネリアには諭すように教えられ、ジリオンには何度も叱られた。
それでも毎日食らいつき、セレンはオルネリアとジリオンに教えを乞い続けた。
その結果、セレンはいつもオルネリアの側に控え、時折給仕まで任されるほどに成長する。オルネリアがどれほどセレンに信頼を置いているか、多くの生徒達に知られていった。
ラグニールとオルネリアから指示されて、ジリオンとセレンの二人で行動する姿も多く目撃されるようになる。いつしか二人は、志を共にする師弟のような仲へと深まっていった。
公爵令嬢だけでなく、王族や侯爵令息からも覚えめでたい子爵令嬢。セレンはこれまでとは違った意味で注目を浴びていた。
日に日に美しくなっていく言葉遣いに、お手本のように丁寧な所作。幸薄そうな儚げな見た目も相まって、セレンに近付きたいと狙う令息は、以前よりも増えてしまうほど。
しかし、オルネリアという存在を得て、令息達を頼る必要がなくなったセレンは、きちんと令息令嬢としての距離感を学び、かつてのようなお願いをすることはなくなった。
すると、その評判を聞きつけたのだろう子爵から、セレン宛ての手紙が寮に届いた。どうやら一度屋敷に呼び戻し、いいように利用しようと考えたらしい。
しかし、子爵からの手紙を、セレンはオルネリアに隠すことなく報告した。
子爵家にはオルネリアが直々に筆を取り、公爵家の家紋を押して『わたくし、セレンをとても気に入っておりますの。毎日側に置いているものですから、ご用があるならわたくしを通していただけますか?』と返答する。こうあっては子爵も強くは出られなかった。
それから時は流れ、一年早くラグニールとジリオンが学園を卒業した。すると、身を守る盾が薄くなったからか、時折オルネリアを狙う輩が現れるようになった。
学園での授業や移動教室では、常に複数の令嬢達と行動し、その他は必ずセレンを伴う。そう徹底していたからか、オルネリアにだけ毒の入ったお茶やお菓子が出されることはあったものの、直接的に襲われはしなかった。
どうやら相手は、犯人が自分だと知られる行動を避け、周囲に居る令嬢達まで巻き込むことを恐れたらしい。
毒について知識を付けていたオルネリアは、ほとんどを香りで察し、口に含んでしまっても一口ですぐ気付き、飲み込む前にハンカチに吐き出していた。
オルネリアは食事を警戒するようになり、お茶は必ずセレンが入れ、食事は公爵家のシェフに用意させた弁当で対応することに。
そうして成果が得られなかったせいか。身綺麗なままオルネリアを卒業させまいと、犯人は、ついにセレンと二人の時に襲うことを決める。
放課後、オルネリアはセレンを連れて御者の待つ馬停へ到着する。しかし、そこにはいつもの御者ではない者が公爵家の御者台に座っていた。
先に気付いたセレンはオルネリアの前に出て、その身を庇いながら後ろに下がる。
すると、警備兵が監視するための小さな小屋の影から、一人の令嬢が姿を現した。
「はぁ……。気付くのが早すぎるのではなくて?せっかく警備兵を遠ざけるために奥の物置でボヤを起こして、あとは拐うだけでしたのに」
「イラーリエ侯爵令嬢……」
「あら、怖ぁい。オルネリア様もそんな表情をされるのね。でも、いくらわたくしを訴えたくても、これから貴女を穢せば、口が裂けても言えないでしょう?それに……」
イラーリエ侯爵令嬢は、嘲笑を込めた瞳でセレンを見遣る。
「それが公爵令嬢の庇護を受けているといっても、たかが子爵令嬢。しかも元平民の、侍女の腹から生まれた下賎な者。何を言ったとしても、わたくしが『違う』と否定すれば、さて周囲はどちらを信じるかしらね」
「貴女、わたくしのセレンに向かって……っ!」
前に出ようとするオルネリアを押し止め、セレンは静かに侯爵令嬢とその後ろの男達を確認する。
馬車の中から二人の男が降りてきて、御者も合わせれば男が三人。下卑た笑みを浮かべながら、こちらを狙っている。
対してこちらは女が二人。オルネリアは気丈に振舞っているが、恐ろしくないはずがない。荒事から最も遠い世界で、お姫様として扱われてきた令嬢なのだから。
セレンが「お逃げください」と言って遠ざけようもしても、きっとオルネリアは足が縺れ、逃げることもままならないはず。それに、そもそも令嬢の足ではすぐに捕まってしまうだろう。
その状況を見て、セレンはすぅっと大きく息を吸った。そして――。
「きゃああああああああああっ!!」
普段の物静かな雰囲気からは想像出来ないような大声で、セレンは叫んだ。一瞬何が起こったか分からなかった四人は、ハッと顔色を変える。
いくらボヤ騒ぎで警備兵が居なくなったとしても、周囲に全く人が居ないわけではない。すぐに誰かが様子を見に来るはず。
それまでこの場を凌いでみせる。スッと四人を見据えたセレンの瞳には、見たこともない燃えるような熱が灯っていた。
「なっ!?こ、これではわたくしが見付かってしまうじゃないの!貴方達、早くこの二人を捕らえて馬車に乗せて!」
「チッ!」
男達は一斉に飛びかかる。セレンは男達に向かってカバンをぶんっと振ると、近付いてきた男から順番に顎や腹に蹴りや殴打を入れた。
更にセレンはよろめく三人に向かって、カバンの中から取り出したペンを力一杯に投擲する。慈悲なのか、ペン先ではなく持ち手の方が三人の眉間に直撃する。鈍い音を立てたあと、大の大人が呻き声を上げて転がった。
それからは男が立ち上がろうとするたび、足を踏み付け、体を蹴り飛ばし、カバンを振りかぶるセレン。
簡単に拐えるだろうと高を括っていた侯爵令嬢は、予想外の状況に後ずさる。令嬢らしからぬ野蛮な抵抗のせいで、男達の方がやられてしまったのだ。
「な……っ」
「どうした!?これは一体何事だ!?」
そこへ警備兵が戻ってきた。悲鳴を聞き付けたためか、何人もの兵が駆け寄ってくる。生徒達も何事かと窺うように見ていた。
「わたくし達は襲われかけたのです。そこの男達に。彼らを招き入れたのは、そこに居るイラーリエ侯爵令嬢ですわ」
オルネリアは隠すことなく説明する。男達は慌てて逃げようとするも、警備兵が取り押さえ男達を縛り上げていく。このままではマズいと感じたのか、侯爵令嬢は周囲に訴えかけるように声を上げる。
「なっ!?違いますわ!わたくしも襲われたのです!この男達は……そう、そこの女、その下賎な女が招き入れたのですわ!」
そう叫んで侯爵令嬢はセレンを指差す。聞いていた令息令嬢の中には「やっぱり本性はそうだったのか」「なんて恐ろしいのかしら」と侯爵令嬢の言い分を信じる声も。
しかしオルネリアは、毅然とした態度のまま否定をする。
「いいえ。襲われたのは、わたくしとセレンですわ。彼らに決まった標的がおらず、ただ令嬢を襲うつもりだったのなら、三人まとめて襲われるはずです。しかし彼女は、セレンを犯人だと断じ、自分も襲われたと言った。それはおかしいのではなくて?」
オルネリアの眉は吊り上がり、普段見せることのない怒りを顕にしていた。周囲はその空気に圧倒され、息を呑む。
「セレンがわたくしを狙うなら、わざわざイラーリエ侯爵令嬢と二人で居るところでなくても、いつでも狙えるでしょう。もっと人目の少ない場所を選ぶことだって可能だわ。皆様もそうは思いませんこと?」
オルネリアは、先程セレンに非難の声を向けた人達に向かって問いかけた。オルネリアが常にセレンを連れているのは有名なので、周囲の令息令嬢は「確かに」と納得の声を上げる。
「それでは、わたくしが指示を出して貴女を襲うよう仕向けたのかしら。でもそれなら変ですわよね。貴女はさっき『わたくしも襲われた』と言ったもの。その言葉は、わたくしが襲われていたことを肯定している。それなら、襲われたのはわたくしとセレン。その方が皆様もしっくりくるのではなくて?」
「そん……、ち、ちが……っ」
「もしそう思わせるためのカモフラージュにしては、誰よりも一番セレンがボロボロになっているのはおかしいでしょう?それに確か、物置でのボヤ騒ぎは、わたくし達を拐うために、警備兵をここから遠ざけようとしてのこととも。現場やイラーリエ侯爵令嬢の馬車に何か残っていないか、調べてくださる?」
オルネリアは警備兵へと問いかけた。その内の一人が「そういえばイラーリエ侯爵令嬢は、長い間馬停の椅子に座っていた気が」と思い出すように呟いた。全員の視線が侯爵令嬢へと突き刺さる。
「わたくしはセレンの潔白を知っています。わたくしを守るために必死で立ち向かい、抵抗してくれた姿も見ていますわ。ここに散乱している文房具やノートは、彼女が抵抗してくれた証。それなのにセレンに罪を擦り付けようとするなんて」
オルネリアは眉を寄せ、イラーリエ侯爵令嬢に近付いていく。
慌てて止めようとするセレンを制し、侯爵令嬢に対峙すると、思いきりその頬を叩いた。パシンッと乾いた音が響く。侯爵令嬢はよろりとよろめき、その場に座り込む。
「この者を拘束してください。わたくしはガレッティ公爵家の名にかけて、この者を訴えます。罪を白日の元に晒し、わたくしを狙ったこと、そしてセレンを侮辱したこと、必ず後悔させると誓いますわ」
オルネリアは静かな怒りを込めて、イラーリエ侯爵令嬢を見下ろした。叩かれた侯爵令嬢は俯き、体を震わせる。
警備兵は侯爵家の令嬢を無理やり拘束することに抵抗があったのか、「手を出してください」と声をかけた。
しかし次の瞬間、イラーリエ侯爵令嬢は警備兵を振り切って転がっていたペンを手に取り、オルネリアに向かって振り上げた。
「貴女さえ居なければああぁっ!!」
その手はオルネリアの顔めがけて振り下ろされ、周囲は悲鳴に包まれる。その場には真っ赤な鮮血が飛び散った。
しかし、傷付いたのはオルネリアではなく、セレンの左手。ペン先を向けられ振り下ろされたそれは、セレンの手のひらを深く抉り、ボタボタと血を流していた。
「……この方は、私が絶対に傷付けさせません」
「おまえええぇぇっ!!」
叫びながら再び腕を振りかぶった姿を見てハッとした警備兵は、躊躇っている場合ではないとイラーリエ侯爵令嬢を拘束する。「無礼者!わたくしは侯爵令嬢よ!」と喚き散らすその体を縄で縛っていく。
「セレン!貴女……っ」
オルネリアは瞳に涙を溜めて、セレンの左手へと手を伸ばした。ぬめりと指先に触れた血が生暖かくて、オルネリアの頭は真っ白になる。
「お守り出来てよかった……。あんな場所で暮らしていた時の知識や、反射的な体の動きが役に立つなんて」
「そんなことは後でいいわ!早く手当てを!だ、誰か……誰かセレンを助けて……っ!!」
公爵令嬢として、いつも悠然と振舞うオルネリアの狼狽した様子に、周囲の令息令嬢が駆け出していく。周りの協力もあって、セレンの怪我はすぐに処置を施された。
王城からは、連絡を受けたラグニールとジリオンが駆け付け、憔悴して倒れそうなオルネリアをラグニールが抱きしめる。
「オルネリア様。それに、ラグニール様にジリオン様まで……」
何事もなかったかのように、医務室からけろりとした表情で戻ってきたセレンの左手は、何重にも包帯で巻かれ肩から吊られていた。
「ご心配をおかけいたしました。血がしっかりと止まるまでは絶対安静だと吊るされただけで、実際ここまで酷くは」
そのセレンの言葉は、言い終わる前に途切れた。何故なら、ジリオンがその体を包むように抱きしめたからだ。
「……無事でよかった」
「え……?」
間の抜けた声が響き、ジリオンは距離を取る。セレンは何を告げられたのか分からないといった顔をしていた。
逆に、見たこともないほどジリオンが痛そうな表情を浮かべていて、セレンは右手をそっと伸ばした。
「どこか痛むのですか?今なら中に養護教員の方が」
「これは医者には治せない。痛いのはここだからな」
その声色が、静かに胸を刺すように響いた。ジリオンが手を当てたのは心臓だった。
心臓が痛いというのは、何か重病なのだろうか。そんな話は聞いたことはなかったがと、セレンは慌ててラグニールやオルネリアへと視線を向ける。
けれど、何故か二人もジリオンと同じような顔色をしていて、セレンも胸を掴まれたように苦しくなった。
「例えば俺が、殿下を守って刺客に切られたと聞いたら、セレン嬢はどう思う?」
「ラグニール様とジリオン様の安否を問います。お二人が無事なのか、怪我の具合はどうなのかと」
セレンは掴みかかるようにジリオンに迫る。仮定の話なのに、いやに生々しく想像出来てしまうのは、今まさにそんな出来事が起きたせいだろうか。
そんなセレンの肩をジリオンが優しく掴む。
「今の俺達がそうなんだが、分かるか?」
「へ……?」
ジリオンの言葉を脳で反芻し、再び三人へと視線を動かす。オルネリアは少し怒ったように、ラグニールは呆れたように、そしてジリオンは……苦しげに顔を歪めていて。
セレンは「あ……」とだけ声を漏らした。
理解したらしいセレンを前に、ジリオンは右手を取って膝をついた。突然のことにセレンは目を丸くしてジリオンを見下ろす。
「俺は誰よりもラグニール様が大切だ。家族のことも大事だが、もし有事の際に、ラグニール様か家族か選べと言われたら、俺はラグニール様の元へと向かうだろう。それはきっと、セレン嬢も同じだろう?」
問われたセレンはゆるゆると頭を持ち上げて、オルネリアを見つめた。オルネリアは泣きそうな顔で静かに首を横に振っていたけれど、セレンはゆっくりと目を伏せ、そして再びジリオンの瞳をまっすぐに見下ろした。
「はい。私は何があっても、オルネリア様を優先して生きていくでしょう」
その決意にジリオンは頷き、表情を和らげた。どうしてそこで微笑むのか、セレンは理解出来ずに呆ける。
「俺はラグニール様を、そしてそのお心を守るために、オルネリア様のことも守らねばと思ってきた。これからもそれは変わらないし、変えられない」
「……はい」
「それでも俺は、お前を……セレンを愛したい」
――その時、セレンは呼吸を忘れたかのように息を止めた。
かつては敵視するように鋭かった青い瞳に、揺るぎない愛情が灯っていて。半開きになったセレンの口は、何も言えずに震えるだけだった。
「俺の忠誠はラグニール様の元に、セレンの忠誠はオルネリア様の元にあるのだろう。でも、その危うすぎるお前を、いつか主人のためにと、簡単に身を投げ出してしまいそうなお前を、俺に繋ぎ止めさせてくれないか」
「私が、危うい……?」
その自覚のなかったセレンは、さっき三人から向けられた表情を思い出す。まるで自分が心配されるなんて思ってもいなかったセレン。
その意味に、ジリオンの沈痛な面持ちに、セレンは気付いてしまった。
「そう……か、私は」
そう呟いて、いつも物静かで動じることのない瞳がくしゃりと歪んでいく。初めてオルネリアに名前を呼ばれた時の、まるで迷子の子供のように。
「私はいつからか、意味のある死を……望んでしまっていたのね」
声を震わせながら、セレンはぽつりと零した。
セレンという母から与えられた名前を、再び呼んでくれた人。そして自分を見つけてくれた、オルネリアに尽くす。
母を思い、自ら命を散らせることの出来ないセレンは、いつしかオルネリアに身を捧げることで迎える死に意味を抱いていた。
――オルネリア様にとっての害となり、この身が切り捨てられるなら。
――オルネリア様を守って、この命を散らすなら。
きっとお母さんも許してくれる。
いつしか、そう信じ込むようになっていたのかもしれない。
オルネリアやラグニール、そしてジリオンがどれだけセレンを思った言動をしてくれていたとしても、自分自身ですら己を駒だと考えていたセレンは、彼らから向けられる言葉の意味を正しく認識出来ずにいたのだ。
「わ、私には……分かりません。人を愛するとは、どういうことなのか……私には。ジリオン様のことは、大切に思っていますが……その……」
「いい、分かっている。これまで生きることに必死で、それどころではなかっただろうから。そんなお前ごと、俺に守らせてほしい」
ジリオンは立ち上がり、再びセレンを抱きしめる。
「こんなことを言いながら、もしかしたら俺の方がラグニール様を守って先に逝ってしまうかもしれない。未来のことは分からないし、何があっても俺もお前も、主人が第一だという気持ちは変えられないだろう。でもどうか、生きたいと願えるようになってほしい。そう思ってもらえるよう、俺がお前を愛するから」
「……うっ…………うぅ」
セレンは、ジリオンの胸で声を押し殺して涙を流した。オルネリアとラグニールは瞳を潤ませて、抱き合う二人を温かく見つめていた。
それから日が経ち、オルネリアとセレンの卒業目前。オルネリアが主体となって調査していた、イラーリエ侯爵令嬢の悪行がついに暴かれた。
イラーリエ侯爵令嬢の目的は、やはりオルネリアを婚約者の座から引きずり降ろすことだった。
自身の迎えの馬車に男達を乗せて学園内に潜り込ませ、ボヤ騒ぎを起こしオルネリアとセレンを襲う算段を立てたそうだ。
その男達を用意したのは――なんと、セレンの親であるデフェオ子爵だった。
「……そん、な……」
告げられた事実に、セレンは声を失う。ジリオンは目を伏せ、拳を握りしめた。
オルネリアに断られてからも、何度かセレンと接触するために手紙を送っていた子爵。しかし、学園に届いたセレンの手紙は、セレンの許可のもと全てオルネリアの元に届くようになっていた。
「あんなもの、セレンが見る必要なんてないわ」
そう断じて、オルネリアが子爵からの手紙を全て破棄していたのだ。
「業を煮やした子爵は学園に乗り込もうとし、そこでイラーリエ侯爵令嬢と接触したらしい。利害が一致した二人は、そのまま手を組んだようだ」
「セレン、貴女は悪くない。貴女はあの家とは関係ないのだから」
ラグニールから説明を受けている間、オルネリアがセレンを優しく支えていた。
子爵は、セレンの母親の一件で屋敷内の侍女に手を出しにくくなってしまったからと、違法とされる人身売買で女を買い、使い物にならなくなれば捨てるという非道な行いをしていた。
子爵夫人は夫との関係が冷め、子爵家では手が出せないようなドレスや宝石を買い漁っていたそう。そのお金を工面するため、夫人が手入れしていた庭から違法植物の栽培が確認され、夫人の部屋からは違法薬物も見付かったという。
「前に、飲み物やお菓子に混入していた毒があったでしょう?調べさせたら、裏取引されている違法薬物が混ざっていると分かったの」
「そこから辿って、子爵がイラーリエ侯爵令嬢に渡していたものだと判明したんだ。そしてその出処は、夫人が違法薬物を引き渡していた薬の密売人。全ては繋がり、全員が捕えられている」
捕らえられていると聞いたセレンは、ほっと息を吐いた。
イラーリエ侯爵令嬢は、公爵令嬢と子爵令嬢の誘拐未遂に、子爵令嬢への傷害罪。
しかもラグニールと婚約している、のちに王族に名を連ねる予定の令嬢を害そうとした罪は大きく、イラーリエ侯爵家は男爵位まで下げられ、半分以上の領地が没収された。
そして、侯爵令嬢自身は身分剥奪の上、二度と出られない極寒の地の修道院に入れられることが決定した。
「死より厳しい罰になるでしょうね」
オルネリアは、何の躊躇いもなく言葉を放つ。
セレンの手のひらには、あの時オルネリアを庇って出来た傷跡が残ってしまった。その罰が、蝶よ花よと育てられた令嬢に耐え抜ける土地ではなく、死の宣告と変わりなかったとしても、オルネリアの怒りは収まらなかった。
当然、爵位の低いデフェオ子爵家は取り潰しが決定。唯一の長男も賭博屋に入り浸るような品性のない人間だったため、三人まとめて牢屋に入れられた。
子爵の部屋からは裏帳簿も出てきたそうで、余罪も含めより細かい調査がされることになる。
さっさと死刑にするか、国外追放にするか、囚人奴隷として生涯国のために利用するか……。オルネリアの希望もあって、温情を与えることなく徹底的に裁かれるという。
そんなセレンはというと、子爵家を暴くよりも前に、オルネリアによってガレッティ公爵家の分家筋である伯爵家の養女にされていた。
生い立ちも含め、子爵家の罪とは無縁だと認められている。伯爵令息以上と関係を作るどころか、セレン自身が伯爵令嬢になったのだ。
「生まれた家だとか、そんなこと貴女は何も気にしなくていいの」
「そうだぞ。これほど私達と共に居るセレン嬢に、これ以上愚かな言動を向ける輩はそう居やしないさ」
「お二人の仰る通りだ。それにこれからは……俺も側に居るから」
セレンは三人に守られて、これまでと変わらずオルネリアに仕えられることになった。
そんなセレンの婚約者として決まったのは、ジリオン。二人の性格は正反対なのに、主人に対しての熱量だけはとても似ていて。
ラグニールとオルネリアはそんな二人に呆れながらも、時折二人が目で会話している姿を見て、いい関係が築けているのだと安心していた。
\゜\、\・、\、\・。\
――あれから数日間、雨が続き。
他の侍女から彼女の帰城を聞きつけたオルネリアは、話を聞くためにラグニールの部屋へと急いで向かった。
扉を開けた先に居た侍女は、帰ってきた姿のまま。服はずぶ濡れで、被っていたのであろう手にかけられたローブは水を吸って重たく、きっと絞れてしまうほど。
「それではご報告申し上げます」
「もう!そんなものは後でいいから、先に湯を浴びて着替えていらっしゃい!風邪でも引いたら、わたくしの世話に戻って来れないでしょう!?それに、ラグニール様の執務室に水溜まりが出来てしまうわっ」
「……承知しました」
侍女は自分の足元を見る。確かにボタボタと水が滴っていて、このままでは執務室が水浸しになってしまうだろう。オルネリアに命じられたからか、慌てて頭を下げて足早に部屋から退室していく。
「ラグニール様もジリオンも、報告より先に言うことがあるでしょう!?あの子が風邪でも引いたらどうしてくれますの!?」
ぷんぷんとオルネリアは怒る。こんなにも表情豊かな彼女も珍しい。
ラグニールは、そんなオルネリアも可愛いなと、思わず口元を緩めた。
「いやぁ、その……なぁ?」
「オルネリア様、俺達は言ったんですよ?『報告は後でいいから、先に温まってこい』と」
「え?」
「……俺の言うことは、ちっとも聞いてくれないのに」
ジリオンはぶつくさと不満を零した。どうやら侍女の方が、二人の制止を聞かずに報告を続けようとしていたらしい。
彼女は今、自分の生い立ちを生かし、平民街や貧民街で起きている問題の調査や解決をすべく動くようになった。武術も鍛錬していたらしく、今ではかなりの腕前だそう。
――オルネリアを守るために、そしてこの国をより良くしたいと願う二人のために。
平民としての生き方を知る自分は適任だと、ラグニールやオルネリアの憂いを払うべく向かっていくのだ。
「あの子ったら……。あとでわたくしが叱っておきますわ。二人ともごめんなさい」
「彼女のこととなるとオルネリアが珍しい顔を見せてくれるから、私としてはこういうことが起きてくれるのは少し嬉しいんだがな」
「だからって危険な場所に、わたくしのセレンを送り込まないでくださいませ!」「だからって危険な場所に、俺のセレンを送り込むのはやめてください!」
オルネリアとジリオンはラグニールに向かって同時に吠え、そして睨み合った。
「……あの子の第一は、何があってもわたくし。ラグニール様以上にあの子を優先出来ないくせに、俺の……だなんて仰らないでくださるかしら?」
「それを言うなら、オルネリア様の第一はセレンではなくラグニール様でしょう?わたくしの、と仰るそれはあくまで主人としてであって、夫婦の仲には入ってこれませんよ」
そうして二人の間には火花が散る。
どういうわけか、年数を重ねるごとに、セレンを巡ってオルネリアとジリオンが張り合うようになっていた。
「……楽しそうでいいな。私もセレンと張り合って、ジリオンを取り合う……ことはなさそうだな」
と、言い争う二人を前に、ラグニールは静かに零していた。
再びラグニールの執務室を訪れたその姿は、身綺麗に整えられていた。いつものお仕着せを身に纏い、襟には青い宝石のピンバッジが輝いている。
ジリオンがとある男爵家を訪ねて購入先を割り出し、そこからオルネリアが必死で捜索して買い戻したもの。チェーンは壊れてしまい、石の小ささからブローチにも出来ず、ピンバッジほどになってしまったが。
かつて彼女に死の願いを齎し、無力感と喪失感を与えた母の形見の品が、そして彼女を繋ぎ止めてくれる色が――そこに煌めいていた。
(本当に、こんなにも成長してしまって。それでもまだまだ、この子にはわたくしが必要ね)
美しい所作で膝を折り、お仕着せをふわりと広げる。静かな瞳は凪いでいて、落ち着いた声が響いていく。
「セレン・ラヴィーニ、只今戻りました。それではご報告申し上げます」
\゜\、\・、\、\・。\
- 報告後の小話 -
「セレン、貴女少し痩せたのではなくて?また無茶をしたのではないの?」
「セレン、怪我は?体調は問題ないのか?目の下にクマが出来ているじゃないか」
オルネリアとジリオンが、セレンを囲んで心配そうに体を労る。
しかしそんな二人は、ことセレンに関してだけ妙に張り合ってしまう。案の定、再び両者は火花を散らす。
「美味しい食事を用意させるから、今日はわたくしの部屋で食べて行きなさい」
オルネリアがセレンの右腕を取り、自分の方へと引き寄せた。それを見たジリオンは、対抗するように左腕を取る。
「お待ちください、オルネリア様。彼女を早く休ませたいので、今日は譲っていただけませんか?」
「まぁ、ジリオン!貴方、こんなに窶れたこの子に食事を与えないつもり?」
「そうは言っていません。ですがこの状態で食事をしても、体が受け付けないでしょう。今は先に休ませるべきです」
間に挟まれているセレンは、されるがまま左右に引っ張られていた。心配しているはずのセレンの腕を取り合うんじゃないと、ラグニールは深く溜息を漏らす。
「……客室を用意させるから、ジリオンもセレンも今日は泊まっていけばいいだろう。セレンを少し仮眠させてから、四人で食事にすればいいじゃないか」
その提案に、同じような表情で目を輝かせる二人。二人の手が離れた瞬間、セレンはするりと一歩引いて、気配を薄くした。
「素晴らしいですわ!そうしましょう!」
「ありがとうございます!ラグニール様!」
さっきまで言い争っていたのは何だったのか。二人は和気あいあいとセレン自慢を始めた。
その光景を見つめていたラグニールは、セレンに対して呟く。
「…………セレン。お前、私より愛されているんじゃないか?」
「そんなまさか」
ふっと笑ったセレンは、柔らかく差し込む光に気付いて、顔を上げた。
いつの間にか雨は上がり、穏やかな日差しが降り注いでいる。窓の先には、鮮やかな虹がかかっていた。
お読み下さりありがとうございました!
主従関係がメインの微恋愛短編でした。
ガッツリ甘いのが読みたい!という方は、こちら。
現在連載中・完結保証作品:
【リディヴィナ王国の調べ ~声を奪われた歌姫の復讐は、既に果たされている~ 】
明後日1/11(日)で、"亡命編"が完結します!
"帰還編"も執筆済・現在確認作業中で、どんどん甘々×ドタバタになるので、是非ご覧ください。
また、翌週1/17(土)は
"悲恋×救済"をテーマにした連載型短編、
【花と刃のエピタフ ~罪と赦しの果てで、もう一度君に会いたい~】
こちらも更新予定で、1日で本編完結します!
(更新時間 12:30・14:30・16:30・18:30・20:30)
初の悲恋作品(救済あり)となります。
泣ける物語がお好きな方は、来週も是非ご覧ください!
ブックマークや☆評価をいただけますと、非常に励みになります!宜しければお願いいたします( .ˬ.)"




