第6話 偽りの光と、月の聖域
冬休みが明け、学校にいつもの喧騒が戻った。早乙女 葵は、その中心にいた。
「葵ちゃん、あそこのカフェ、行ってみた?」
「えー、それ可愛すぎ!どこで買ったの?」
彼女は、華やかな光の中に立ち、笑い、楽しそうに話す。その表情は完璧な「太陽の笑顔」。クラスの中心にいる彼女は、悩みなど何一つ抱えていない、誰よりも明るい存在だ。
しかし、その笑顔には、琥珀色のカフェで交わした誓いが残した、微かな熱が欠けていた。彼女の心臓は、賑やかな会話のテンポに合わせて動いているだけで、魂はどこか別の場所にあった。本当の葵は、賑やかな光の中では息がしづらく、まるで水面下で深い呼吸を待っているようだった。
放課後。賑わいの波から抜け出すと、葵の足は、迷いなく、そして自然と図書室へと向かった。そこだけが、彼女が「本当の自分」に戻れる、月の光の聖域だった。
図書室の大きな窓ガラスは、再び外気の冷たさでうっすらと曇っている。いつもの棚と棚の間の奥、琥珀色のテーブル。
そこに、いた。
――月ヶ瀬 雫
厚いカーディガンに、ひとつにまとめられた黒い髪。分厚い本の中に沈む横顔は、まるで静かな美術館に飾られた美しい絵画のよう。彼女が纏う空気は、この冷えた空間のどこかひんやりとした静寂と完璧に調和し、触れたら壊れてしまいそうなほど神秘的な美しさを放っていた。
葵は、声をかけることなく、図書室という「世界の扉」を静かに開き、その聖域に入った。いつもの対角線の席ではなく、彼女は、そっと雫の真横の椅子を引いた。
カタン、という椅子を引く微かな音。
雫は、その音で顔を上げた。その澄んだ瞳に葵の姿が映ると、彼女の目元に、雪解け水のように清らかな微笑みが浮かんだ。それは「おかえりなさい」という、言葉にならない静かな挨拶だった。
葵は、何も話さずに隣に座った。二人の間には、革の匂いと紙の古びた香り、そして「言葉はいらない」という安堵の空気だけが流れている。葵は、本を読む雫の呼吸の音と、ページをめくる指先の動きを視線でなぞるだけで、心が完全に満たされていくのを感じた。
その静寂を破ったのは、いつも通り、雫自身だった。
彼女は、開いていたページから目を上げ、本を胸の前で優しく閉じた。そして、その静かに閉じられた本に視線を落としたまま、囁くように話し始めた。
「…この本、主人公が、『誰にも理解されなくても、自分だけの美しい世界』を、懸命に守ろうとする物語なんです。」
その声は、消えてしまいそうなほどか細いが、図書館の静寂の中で、葵の耳の奥へと、切実に響く。
「主人公は、生まれた場所も、過去も、他人とは違う。だから、いつも壁を作って、本の中に身を潜めていた…。でも、物語の終盤で、たった一人、その孤独を『美しいもの』として見てくれる光に出会うんです。」
雫は、本から視線を上げなかった。その言葉は、物語の解説の体をとりながら、紛れもなく彼女自身の生い立ちと、そして葵への想いを語る、沈黙の告白だった。
葵は、その言葉を、一語たりとも聞き逃さないように、息をするのを忘れ、ただ静かに聴き入った。「孤独を美しいものとして見てくれる光」――それは、雫にとっての「早乙女 葵」。そして、雫にとっての「壁」は、言葉を介さない「哲学的な美」という、誰にも触れさせない世界だったのだ。
雫は、すべての言葉を話し終えると、愛おしむように本を両手で包み込み、恥ずかしそうに俯いた。
葵の胸の奥で、何かが決壊した。
言葉を苦手とする雫が、本という魂の鏡を通じて、自分のすべてを話してくれた。その勇気と、心が深く通じ合っているという確かな事実に、様々な感情が混じり合い、熱く、切ない、喜びの結晶となって、葵の目尻から一筋の涙となって流れ落ちた。
静寂の中、葵の頬を伝うその一筋の涙を見た瞬間、雫は、誰も予測できない、あまりにも優しい行動に出た。
彼女は、ためらいも迷いもなく、自分の細く、白く、美しい人差し指を、葵の頬へと近づけた。
そして、触れたか触れていないか分からないほどの、一瞬の、空気の振動で、その一筋の涙を、優しく、そっと拭い取った。
その行為は、「あなたは、もう一人じゃない」という、最も強く、最も親密な、触覚による誓いだった。
葵の心の中で、涙の跡に、雫の指先の温もりだけが、確かな熱となって残った。
嬉しかった。何も言わなくても、すべてが伝わっている。
葵は、その愛の仕草に、心から解放された本当の笑顔を浮かべた。その笑顔は、華やかな太陽の光ではなく、月の光に照らされた水面のように、静かで、清らかで、美しかった。
窓の外は、すでに鈍色の夕闇に包まれ、図書室の静寂の中に、二人の満たされた心だけが、優しく響き合っていた。




