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月ヶ瀬と太陽の裏側 〜触れる指先〜  作者: 初 未来


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第5話 琥珀色の沈黙と、満たされる孤独

 二人の間には、もはやカフェのかすかなBGMも、街の喧騒けんそうも届いていなかった。あるのは、マグカップから立ち上る湯気の軌跡と、互いの存在から生まれる静かで優しい熱だけ。早乙女 葵は、何も言わずに、ただその透明な存在を、呼吸するように見つめていた。


 賑やかな友人の輪の中にいたとき、心に空いていた大きな穴は、今、完全に満たされていた。それは、雫の隣にいるときだけ許される、「偽りのない自分」という、かけがえのない安堵感によって。


 雫は、膝の上の文庫本をそっとテーブルに滑らせた。それは、彼女が孤独な主人公に自分を重ねた、あの古い装丁の小説。彼女は、本の表紙ではなく、琥珀色の光を反射する葵の瞳を見つめた。その瞳は、もはや「太陽」としての役割を演じておらず、ただの「静かな光」として、目の前の月をいつくしんでいた。


 永遠かと思われた、その優しく美しい静寂が、破られたのは、突然の振動音だった。


 葵のコートのポケットから、微かな電子音が響いた。スマホの振動。現実が、この秘密の聖域を侵食してきた合図だった。


 葵の表情に、微かな戸惑いと、済まなそうな感情が浮かぶ。彼女は、すぐに「早乙女 葵」の役割に戻らなければならない。この優しい聖域から、再び派手な喧騒へと飛び立たなければならないのだ。


 雫は、その振動音に驚くことも、また戻る現実に不満を覚えることもなかった。彼女は、まるで移ろいゆく世界の美しさを理解しているかのように、静かに目を細め、柔らかな、雪解けのような微笑みを浮かべた。その微笑みは、「あなたは、あなたの世界に戻らなければいけない」という静かな理解と、「でも、ここはいつでもあなたの場所よ」という、確かな誓いを含んでいた。


 葵が、ポケットのスマホを取ろうと、ほんの少し体を起こしたその瞬間。


 雫は、まるで古の儀式を行うように、優雅で、あまりにも繊細な仕草を見せた。


 彼女の細く白い右手の小指が、ゆっくりと持ち上げられ、かすかに、自分の唇に触れた。その仕草は、「秘密」を意味し、「言葉ではないもの」の尊さを伝えている。


 そして、その唇に触れた小指の先を、そのまま、葵のカフェラテのマグカップのふちへと、ゆっくりと下ろしていった。


 カチリ、という音すら立てずに、ただ表面に触れるだけの、微かで、ためらいがちな接触。


 それは、葵が飲んだ場所に、自分の唇の熱と秘密の誓いを重ねるかのような、最大にして、最も雄弁な愛情表現だった。


 ――言葉はなくても、私たちの心は繋がっている

 ――あなたの孤独は、私が知っている


 すべてを物語るその動作を見た瞬間、葵の心に広がっていた別れの霧は、一瞬にして晴れ渡った。


 彼女は、賑やかな友人たちに見せる「演じた笑顔」ではなく、心の底から湧き上がった、曇りのない、本当の自分自身の笑顔を、雫へと向けた。


 その笑顔は、冬の午後にもかかわらず、カフェの窓を通して差し込む本物の太陽の光のように、強く、優しく、そして美しい。


 二人は、何も言わなかった。


 雫は再び静かに、文庫本を膝の上に置いた。葵は、その沈黙の肯定を受け取り、静かに立ち上がり、カフェの扉へと向かった。


 外の賑やかな通りに出た葵の心は、先ほどまでの欠落感で震えてはいなかった。彼女の胸には、雫の指先がマグカップの縁に残した、微かな熱と、確かな誓いの温度だけが、満ちていた。


 この冬、二つの光は、言葉ではなく、一瞬の触れ合いと静かな空間を共有することで、誰にも邪魔されない、世界で一番美しい距離を確立したのであった。

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