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月ヶ瀬と太陽の裏側 〜触れる指先〜  作者: 初 未来


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第4話 遠い光と、ひとつの影

 新年。早乙女 葵は、友人たちの笑い声と、晴れやかな冬の空気に包まれていた。いつものメンバーと、華やかな着物に身を包み、有名な神社での初詣を済ませた後だ。


「葵、あそこの福袋、絶対可愛くない?」

「行こ行こ!初売りまじで最高!」


 賑やかな声に、葵はいつものように明るい笑顔を返す。その笑顔は完璧で、彼女がこのグループの中心であること、そして「早乙女 葵」という存在が、いかに太陽のように明るく、悩みなんてないことを周りに示していた。嫌ではない。友人たちの温かい輪の中にいることは、確かに楽しい。


 しかし、その楽しさは、どこか薄い膜に覆われているような、確かな「熱」を欠いたものだった。


 混雑した参道の階段を降りるたびに、葵の心には、ぽっかりと大きな穴が空いているような感覚があった。ほんの数日前まで、図書室の冷たい静寂の中で、たった数センチの距離で温もりを分かち合っていた人が、ここにいない。


 にぎわいの波が激しくなるほど、その欠落感はつのる。


(…月ヶ瀬さんが、いない。)


 華やかな友人の姿、晴れ着のすそ、屋台の湯気。そのすべてが、彼女の目をくらませ、心の中にいる「影」を覆い隠すことができない。賑やかな波の中で一人でいる時よりも、賑やかな場所にいて、特別な誰かがいない時の方が、これほどまでに孤独だなんて、知らなかった。


 無意識のうちに、葵の瞳は、混雑を切り裂くようにして、ただ一つの影を探し求めていた。すれ違う人々の顔、遠くの店のガラス窓に映る人影、交差点で信号を待つ群衆。いないと分かっていても、あの黒い髪と、古い洋紙のような静かな空気を、どこかで求めてしまう。


 それは、まるで世界から色彩を失った部分を、彼女の存在だけが色付けられるかのように。


 賑やかな通りから一本それた、路地裏の静かなブックカフェへ向かう道。友人たちが最新のコスメの話で盛り上がる中、葵の足は、まるで魂に導かれるように、静かにその店の方へ向かっていた。


(...あの時、初めて外で月ヶ瀬さんを見つけた場所…)


 そして、大きなガラス窓の向こうに、その「絵画」は存在した。


 街の喧騒けんそうから隔絶された、琥珀色こはくいろの光に満ちた深緑のソファ席。分厚いコートをかたわらに落ち着いたモカブラウンのワンピースを身にまとい、いつもと同じ黒髪を一つに結んだ、月ヶ瀬 雫が、静かに文庫本を広げている。


 彼女の周りだけ、世界の時間と速度が違っていた。

 街が騒がしいほど、彼女は静かで、周囲が華やかなほど、彼女の存在は控えめな光となって際立つ。


 葵の心臓は、突然、激しく、そして懐かしい音を立てて鼓動し始めた。それは、派手な賑わいの中では決して感じられなかった、嘘偽りのない、生きた熱だった。


「あ、ごめん、ちょっと向こうの雑誌見てくる。先に見てて!追いかけるから!」


 もはや、友人たちにどう思われるかなど、どうでもよかった。彼女の心は、ただあの静寂の光へと突き動かされていた。


 カフェの扉を開け、焙煎されたコーヒーの香りを深く吸い込む。葵は、迷うことなく雫のいる席へと向かった。


 雫は、本に視線を落としたまま、まだ気づいていない。葵は、彼女の向かいの椅子を、そっと、音を立てないように引いた。


 そして、座りながら、ささやくように言った。


「...月ヶ瀬さん。やっぱり、ここにいたんだね。」


 雫は、ゆっくりと顔を上げた。その澄んだ瞳に葵の姿が映った瞬間、彼女の表情に微かな驚きが浮かび、そして、雪解けのような、静かで、安堵に満ちた微笑みが広がった。


 葵は知る。彼女にとっての「新年」は、この瞬間から始まったのだ。この「月」の隣にいる時こそが、自分が、偽りのない「普通の女の子」になれる、唯一の聖域なのだと。


「…早乙女さん。明けまして、おめでとうございます。」


 雫の声は、街の喧騒には届かないほど細い。しかし、その声は、賑やかな虚像の中で凍えていた葵の心に、確かな温もりを注ぎ込んだ。


 葵は、向かいに座り、ただ頷くことで、その言葉を全身で受け止めた。賑やかな世界で身につけていた「早乙女 葵」の鎧は、この琥珀色の空間では必要ない。彼女は、目の前の透明で美しい存在を、ただ静かに見つめる「普通の女の子」に戻っていた。


 ウェイターが、葵の注文したカフェラテをそっとテーブルに置いた。ミルクの泡に描かれたアートと、雫の飲みかけのココア。その二つのマグカップから立ち上る白い湯気が、空間をゆっくりと、優しくただよい、二人の間に静かな境界線を描いた。


 雫は、いつものように自分の世界に沈んでいる。視線は膝の上の文庫本に落とされているが、その指先は、ページをめくることなく、そっとマグカップの縁をなぞっていた。


(…月ヶ瀬さん。私と同じように、安心しているんだ。)


 葵はその動作を見て理解した。雫は、言葉を介さずに自分の感情を伝える。その細い指がマグカップを撫でる仕草は、静寂の中での微かな安堵の吐息なのだ。


 葵は、自分の手のひらをテーブルの上にそっと広げた。化粧気のない、飾りのないその手。そして、雫の文庫本の、表紙の端へと、自分の指先をたった数ミリだけ近づけた。


 触れない。でも、触れられる距離。


 雫は、その葵の無言の行動に気づいた。彼女は、ゆっくりと顔を上げ、本から視線を外し、テーブルの上の二つの手を見つめた。葵の解放された手と、本のすぐそばにある自分の手。


 ――言葉はない


 しかし、その沈黙の中には、「私はここにいるよ」という葵の切ない訴えと、「私はどこにも行かないよ」という雫の静かな肯定が、結晶化していた。


 雫は、自分の左手の中指を、静かに、そしてゆっくりと、その文庫本の裏表紙の角へと移動させた。それは、葵の指先から、たった数センチの距離だった。


 まるで、触れたら壊れてしまうガラス細工のようなその仕草に、葵は息を飲んだ。


(ああ、なんて静かで、なんて優しい時間なんだろう…)


 雫は、本を通して自分の世界と、葵の「太陽の光」を受け入れ、そして、触れないことで、その「光」の美しさをたたえている。


 やがて、雫は静かにマグカップを持ち上げ、ゆっくりとココアを一口飲んだ。そして、マグカップをテーブルに戻す際、彼女は、予期しなかった行動に出た。


 彼女の指先が、テーブルに置かれた葵のカフェラテのマグカップの取手に、ほんの一瞬だけ、かすかに触れたのだ。


 音すらない、見逃しそうな、優しすぎる接触。


 それは、まるで、「あなたの温度を、私も感じています」と伝えるような、沈黙の返礼だった。


 葵の全身に、甘く切ない電気が走る。彼女の心臓は、賑やかな街中では決して聞かせなかった、本物の「生きている音」を響かせた。


(ここにいるのが、私で良かった。)


 雫は、何も言わなかった。ただ、透明な瞳で葵を見つめ、ごくわずかに、唇の端を緩めた。その微笑みは、冬の光のように優しく、確かな「愛の温度」を伝えていた。


 外の街の喧騒は遠ざかり、カフェの琥珀色の光の中で、二人の「月」と「太陽」の心が、文庫本とマグカップを介して、かすかに、しかし確実に、引き寄せ合った。

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