第1話 凍てつく窓と、その微熱
窓の外は、すでに鈍色の夕闇が迫り、雪でも降り出しそうな重たい空気に包まれている。図書室の大きな窓ガラスは、外気の冷たさでうっすらと曇り、室内も暖房が入っているとはいえ、どこかひんやりとした静寂に満ちていた。
今日の当番だから、と残る生徒は他に誰もいない。本の並ぶ高い棚と棚の間、革の匂いと紙の古びた香りが漂うこの空間は、彼女たち二人だけの世界になっていた。
早乙女 葵は、図書室の奥の大きなテーブルで、ノートを広げたまま肘をついていた。校則ギリギリに染めた明るい茶色の髪は、放課後の弱々しい蛍光灯の下でもきらきらと光を放っている。つけられた長いまつげ、きっちり化粧された目元は、どこか周囲を寄せ付けない華やかさと、少しばかりの退屈そうなくらいの自信を漂わせている。クラスでは常に中心にいる、太陽のような存在だ。
その対角線上に座っているのが、月ヶ瀬 雫。制服の上にいつも羽織っている、くたびれたカーディガンと、一つにまとめられた黒い髪。伏せられた長いまつげの下の瞳は、いつも分厚い本の中に沈んでいる。彼女が纏う空気は、まるで古い洋紙のようにひっそりとしていて、静かだ。しかし、時折ページをめくる指先や、微かに覗く横顔の線の完璧なまでの美しさは、まるで図書室の隅に忘れられた、精巧なガラス細工のようだ。控えめであればあるほど、その存在は周囲の静けさの中で際立っていた。
葵は、自分の世界には決して交わらないはずの雫を、時折、無性に見てしまう。
(…なんであんなに綺麗なんだろう。)
その視線に気づいたわけでもないのに、雫はゆっくりと顔を上げ、テーブルの端に置いていた文庫本をそっと手に取った。その動作一つ一つが、古めかしい映画のワンシーンのように静かで、丁寧だ。
「あのさ、月ヶ瀬さん。」
耐えきれずに、葵が声をかけた。その声は、いつもクラスで響かせる元気なトーンよりも、ずっと小さく、掠れていた。
雫は、視線だけを葵に向けて、「…はい」と静かに応える。その澄んだ瞳は、驚くほど近くのものを映し出すのを拒むかのように、遠くを眺めているように見えた。
「それ、なんて本? いつも難しい本読んでるよね。」
何となく、ただ話したかった。その静けさを、ほんの少しでいいから乱したかった。
雫は、本を閉じて、表紙を見せようと僅かに体を乗り出した。その瞬間、二人の間にある広大なテーブルの幅が、急激に縮まったような錯覚を覚える。
「これは…詩集です。」
細く、か細い声。しかし、その声には、彼女が大切にしている世界の微かな熱がこもっているように感じられた。
「詩…か。いいね。」
葵は、その詩集の淡い水色の表紙を、視線でなぞった。いつもなら「難しそう」で終わるはずなのに、雫が持つそれには、彼女の心臓の鼓動が微かに伝わってくるような気がした。
「早乙女さんは…何を読んでるんですか?」
雫が、初めて彼女自身の意思で、葵の世界に問いかけてきた。
「え? あ、私は…今、課題のレポートやってて。本じゃなくてごめん」
葵は、飾らない自分の姿を見られたのが恥ずかしいような、それでも嬉しくて胸がざわつくような、複雑な感覚に襲われた。
次の瞬間、雫は、驚くような行動に出た。彼女は、静かに立ち上がり、葵の隣の席まで歩いてきたのだ。
「あの、少しだけ…お時間ありますか。」
そう言って、雫は、葵のノートの上に広げられたレポートの題材、『冬のモチーフと象徴』という文字を、そっと指差した。その人差し指の先は、あまりにも白く、細く、触れることをためらうような美しさがあった。
「あの…この詩集に、『雪』についての詩があるんです。もしよろしければ、少しだけ…」
言葉の続きを待たずに、雫は隣に座った。二人の間には、机の表面を伝う鉛筆の芯の匂いと、わずかな緊張だけが流れている。
雫は、詩集の特定のページを探し、そのまま音読を始めた。
「降り積む白銀が抱く、都市の微熱…音を奪い、全てを塗りつぶす、静寂の粉…」
雫の声音は、冷たい図書室の空気を震わせる。一語一語が、ガラス越しに遠ざかる夕焼けの色のように、優しく、そして切なく、葵の耳に届いた。彼女の隣で、たった数センチの距離で、彼女の心の内側を囁かれているような錯覚。
葵は、息をするのも忘れ、その声に聴き入っていた。雫の横顔は、本を真剣に見つめることで、ほんの少しだけ紅潮していた。
(…ああ、なんてことだ…)
葵の心の中で、何かが決定的に変わった。それは、冬の窓に、ゆっくりと溶けて消えていく一粒の雪の結晶のような、甘く、切ない、優しい交わりだった。彼女の派手な世界を、この地味な、しかしあまりにも美しい光が、そっと染めていく。
読み終えた雫が、静かに詩集を閉じた。
「…どうでしょう?」
葵は、言葉が出なかった。ただ、「綺麗だね」と、掠れた声で呟くのが精一杯だった。
その瞬間、葵は意を決して、雫の開いた手の甲の上に、自分の指先をほんの少し、そっと重ねた。
雫は、驚きで目を見開き、そしてゆっくりと、重ねた指先に視線を落とし、瞳を閉じた。拒否も、肯定もしない、すべてを受け入れるかのような、あまりにも静かで、優しい沈黙だった。
重なり合った二つの指先の温もりだけが、冬の放課後の図書室の静寂の中で、二人の世界が新しく生まれたことを証明していた。
「…あのさ、月ヶ瀬さん。」
葵は、重ねた指先を離さないまま、囁くように言った。
「…これからも、たまに、そばにいてもいいかな…」
雫は、ゆっくりと瞳を開け、その透明な瞳で葵を見つめた。その視線の先に、穏やかな微笑みが浮かんだ。
「はい…喜んで。」
外では、ついに初雪が舞い始めた。細い雪の粒が窓ガラスを叩き、二人の世界に、甘く、切ない冬の始まりを告げているようだった。




