第七話 竜の谷へ
夜明けの鐘は、鳴らなかった──
馬車の車輪が石畳を軋ませた。
冷たい空気の中、私はそっと窓を開け、城門の向こうに広がる道を見つめる。
(ここを、戻るために通ることは……もう、ないのね……)
馬車には御者がひとりと、見張りの兵士がひとり。
私が身につけているのは、刺繍入りの質素な白いドレスと、お母様の形見であるラピスラズリのペンダントだけだった。
細い指でそれを握り、胸の奥で小さく祈る。
(お母様……私に、どうか強さを……)
城壁が遠ざかり、朝の光に赤く染まる塔が背後へと小さくなっていく。
その窓辺から、黒いドレスを纏ったアデライド様が姿を現した。
紅い瞳が、ほんの一瞬、翳ったように見えた。
* * *
王城を離れると、城下町のざわめきが耳に届く。まだ朝だというのに、通りには民たちの姿が見える。
人々は足を止め、王家の紋章を掲げた馬車を見つめる。
「……あれは、アリアネル王女様では……?」
誰かが声をあげた瞬間、群衆がざわめきに包まれた。
窓から見える私の姿に、次々と人々が駆け寄ってくる。
「王女様だ……」
「アリアネル王女様、どうされたんですか?!」
あっという間に大勢の民が馬車を囲み、馬が嘶きを上げて馬車が止まった。
小さく舌打ちした見張り役の兵が、扉を開けて石畳へと降りる。
「道を開けよ! これより王女殿下は竜の谷へ向かわれる!」
兵の言葉に、民たちが一斉にざわめく。
「あのような、恐ろしい場所へどうして王女様が……」
「王女さま、もう神殿には来てくれないの?」
こちらを心配そうにうかがう民の姿に、涙が滲む。
「……王女殿下に竜の怒りを鎮めるようにと、国王陛下の命だ!」
「わかったら、早く下がれ!」と怒鳴った兵に、民たちが群がった。
「そんな……! どうか王女様を谷へ連れて行かないでください!」
「他に、竜の怒りを鎮める方法はないのですか?!」
民たちに囲まれ動けない状況に苛ついた兵が、民を振り払う。
「お前たち、呪われた王女を庇うのか! 早く退け!」
その言葉に、民たちの顔色が変わる。
「王女様は、呪われてなどいない! あの方は、私たちの傷を癒してくださった……!」
「こんなに民を想ってくれる王女様なんて、アリアネル様しかいないよ!」
「王女様に、何てことを言うんだ!!」
怒りを露わにする者。
膝をつき、泣きながら手を合わせる老婆。
荷を抱えたまま兵を睨む女。
若者たちは必死に馬車の前に立ち塞がった。
彼らの姿に、涙が零れそうになる。
「下がれ!」
御者が石畳に鞭を鳴らし、兵士が剣の柄に手をかける。
「お前たち、斬られたいのか!」
兵の怒声が響き、空気が一瞬にして張り詰めた。
そのとき、群衆の中からひとりの少年が飛び出した。
「アリアネル様は、アダマスの聖女様だ! 呪われてなんかない!」
小さな手に握られた石が兵士の胸当てに当たり、乾いた音が響く。
「この……!」
兵士が激昂し、剣を抜き放った。
「やめて!」
私は馬車の扉を開け、石畳に飛び降りた。
少年の前に立ち、両腕を広げる。
剣先の冷たい光が、顔のすぐ前で止まった。
「王女殿下……!」
「剣を納めてちょうだい」
目を見開いた兵が、喉を詰まらせる。
息を呑む音が、辺りから洩れるように聞こえた。
震える剣先が、静かに降ろされる。
振り返ると、少年は震えながら私のドレスの裾を握りしめ、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。
「王女さま……」
震える少年の前に膝をつくと、私はそっと彼の髪を撫でた。
「ありがとう。……あなたの勇気とその想いに、心から感謝します」
それから顔を上げ、跪き頭を下げる群衆に向かって深く一礼する。
「皆さん、どうか頭を上げて……私は大丈夫です。心配してくださって、本当にありがとう……あなた方の想いは、決して忘れません」
涙を堪えて微笑むと、人々の嗚咽があちこちで上がった。
「王女様……どうかご無事で……」
「竜よ……どうか、王女様をお守りください!」
誰かがそう祈りの言葉を叫ぶと、辺りを囲む民が皆地面へ額をつけた。
私が馬車に乗り込むと同時に、扉が閉じられる。
「王女様……!」
民たちが泣きながら叫ぶ声と窓越しに見える姿が遠くなり、やがて見えなくなった。
(皆さん……ありがとう……)
城下を離れても、地面に額をつけた人々の声が耳に残っていた。
『王女様をお守りください……』
──胸に刻まれた言葉に涙が滲み、瞬きに涙が幾つも頬を伝った。
* * *
それから数日、馬車はひたすら進み続けた。
最初は見張りの兵と御者の声がしていたが、やがて口数が減り、黙り込むようになった。兵は、私と目を合わせようともしない。
進む道は次第に狭く、森は深く、空は重たく曇っていく。
ある朝、馬車が大きく揺れたあと、御者が声をあげた。
「竜の谷が見えてきたぞ!」
カーテンを開けると、黄土色の断崖が地平線に口を開けていた。
深い霧が渦巻き、底の見えない靄から竜の瞳がこちらを覗いているように感じる。
遠くから風の唸り声のような音が響き、背筋がぞくりとした。
(ここが……竜の谷……)
お母様のペンダントを強く握りしめ、息を吸い込む。
胸の奥に冷たいものと熱いものが同時に広がる。
(私は行く。どんなに怖くても──ここで終わらせない)
馬車はゆっくりと谷へ向かって進んでいく。
物語は、絆がそっと紡がれる第二章へ──
次回、第八話「白き竜との出会い」