第五話 王城を巡る不穏
朝の鐘が、いつもより低く聞こえた。
城の窓越しに見える空は晴れているのに、胸の内側だけに曇りがかかっている。
「また、辺境で魔物の群れが現れたそうです」
「昨夜、北の街道でも……」
回廊を行き交う兵や侍女の囁きが、私の耳朶をかすめる。誰もが早足で歩き、誰もが私と目を合わせない。
風が吹き抜けるたび、王城の空気はさらに冷たくなっていく。
(不安が、城に棲みついてしまったみたい……)
私は今日も神殿へ向かう。少しでも、誰かの痛みを和らげたいから……。
* * *
神殿の白い回廊は、いつにも増して人で溢れていた。泣き声、祈りのささやき、誰かの名前を呼ぶ声。香の匂いが濃く、胸の奥がきゅっと鳴る。
私は袖をまくり、小さな手を取った。泥にまみれた男の子の足首は赤く腫れ、母親は涙で頬を濡らしている。
「痛くないようにしますね。深呼吸をして……そう、上手」
掌に静かに意識を澄ませる。胸の奥で灯がともるように、温もりが指先へと流れていく。
やがて腫れが引き、男の子は恐る恐る足を動かした。
「動く……! アリアネル王女様、ありがとう! ありがとうございます!」
母親が何度も頭を下げ、男の子は嬉しそうに笑った。私も嬉しくなり、微笑み返す。
「よかった。また転ばないよう、気をつけて帰ってくださいね」
笑顔で手を振る男の子に笑い返す。
次に、疲れ切った顔の老人が差し出した手に触れる。荒れた皮膚のひび割れが少しずつ閉じ、呼吸が楽になっていくのが分かる。
列の後ろから、小声が重なった。
「アリアネル王女様がいてくださると、安心するわ」
「まさにこの国の聖女さまだ……」
胸の奥が少し温かくなり、かすかな光が灯る。
(私を必要としてくれる人たちがいる。私は、私にできることをするだけ……)
けれど、日が傾く頃、神殿の扉が勢いよく開いた。汗に濡れた兵士が走り込み、大神官に耳打ちをする。その表情は険しく、次の瞬間、ざわめきが波のように広がった。
「西の砦が……」
「魔物が増えている……?」
私は息を飲んだ。癒した手の温もりが、指先からするりと零れ落ちていく気がする。
(王城に、戻らないと──)
* * *
謁見の間。深紅の絨毯が、夕暮れの光を吸い込むように暗く見えた。
そこには、お父様と王妃様──アデライド様がいた。彼女の胸元では『竜の泪』が赤く煌めき、玉座を照らす灯りが吸い込まれていくように見える。
「陛下、神殿への祈りは日に日に増しております。城下の民心を鎮める策を──」
宰相が控えめに進言しかけた瞬間、アデライド様の紅い瞳がそっと宙をなぞった。
「民の不安は、“原因”を見つければ収まりますわ」
白い指先が、胸元の紅い宝石に触れる。
「竜は、忘れません。かつてこの国がしたことを」
ぞわりと背筋が粟立つ。柔らかな声なのに、冷たさだけが尾を引いた。
「アダマス王家の血に、竜の呪いが残滓として絡みついているのだとしたら……。魔物の蠢きも、説明がつきますわ。──例えば、王女殿下が生まれ持った“異常”など……」
言葉は刃より鋭く、私の胸へ滑り込んでくる。
(“異常”……私が、魔力がないことを……)
息が詰まり、視界の端が暗くなる。
私に視線を巡らせた宰相が青ざめ、言葉を探すように口を開いた。
「し、しかしアリアネル王女殿下は……神殿で大勢の民を癒やし、アダマスの聖女と──」
「癒すことで、“蓋”をしているだけかもしれませんわね」
アデライド様は紅い唇に微笑みを浮かべる。
「“呪い”は、近くにあるほど濃くなるもの。城が寒いのも、人々が怯えるのも──」
「おやめください」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。私は一歩進み、両の膝をついた。
「お父様。私は、ただ神殿で……傷付いた民の痛みを少しでも減らしたいだけです。私のせいで国が──そんなことは、決して……」
お父様は、遠い瞳で私を見下ろした。どこか夢の底に沈んだような光。その視線が、私を通り過ぎていくようで──
「……アリアネル。城の外へ出るな」
短い言葉。冷たい石のような響き。
「でも、神殿には多くの民が──」
「余が言っているのだ」
お父様に寄り添うアデライド様の紅い瞳が細められた。
「陛下、王女殿下をお傍に置かれるのが、国のために最良でございますわ。祈りは神官に任せればよろしいのよ。毎日のように神殿へ通って、殿下もお疲れでしょうから」
紅い視線に射抜かれて、微かな毒がじわじわと血に混じっていくように苦しさを覚える。
「……承知しました」
それ以外の言葉を、私は持ち合わせていなかった。
* * *
その日から、王城の私に向けられる視線は、いっそう冷たくなった。
廊下をすれ違う侍女は、私を視界に入れないようにふいと横を向く。
食事はさらに冷め、花は二度と飾られない。
神殿へ行く許可は降りず、私室の扉の外に付けられた錠の音が、夜ごとに重く響いた。
(どうして……)
窓を開けると風が入り、カーテンがかすかに浮いた。遠く、鐘の音がする。神殿の音だ。誰かが、今も祈っている。
(……行きたい……きっと、傷付いた人が大勢いるはずなのに……)
けれど、扉の向こうで見張る兵の気配が、静かにそれを否定する。
* * *
錠の音がガチャリと響き、扉が開かれた。その向こうから飛び込んできたのは、翡翠の光だった。
「アリア!」
「ジェイド兄様……」
彼は、心配そうな眼差しで私の両肩にそっと手を置いた。眉間に深い皺が寄る。
「どうしてこんなことに……アリア、中庭で風に当たろう──」
「なりません、プレーナイト公爵子息」
扉の外に控えていた兵士が、入り口を塞ぐように立ちはだかる。
「国王陛下のご命令です」
「何だと……?」
兵を睨みつけるジェイド兄様の腕を引く。
「ジェイド兄様、良いの……兄様が来てくれただけで、十分よ」
ため息をついたジェイド兄様が兵に向き直る。
「ここで話をさせてもらう。それは構わないな」
黙ったまま頷いた兵。ジェイド兄様は瞳を翳らせて扉を締めた。
「陛下の周りの護衛が、入れ替わっている。私の家──プレーナイト家の者も遠ざけられた。……王妃の影があまりに濃い」
ジェイド兄様の声は小さく、低い。
窓辺に寄ると、静かに窓を開く。レースのカーテンが冷たい風にふわりと靡いた。
「無理をするな。出られないなら、せめて窓辺の空気だけでも……。神殿の者たちも、民たちも皆、アリアを心配しているよ」
その言葉に胸が熱くなる。口を開けば、涙になってしまうから、私はただ頷いた。
「ジェイド兄様……ありがとう」
ジェイド兄様は微笑み、すぐ真顔に戻った。
「辺境からの報せは増えている。だが、奇妙だ。……魔物の出現が地図の上で渦を描くように、王都に近づいている。まるで、何かに導かれているみたいに……」
私は、思わず『竜の泪』を思い出した。そして、それを身に着けて笑う、柘榴石のように紅い瞳を──
(嫌な予感がするわ……)
私たちが沈黙した時、扉の向こうから、冷たい足音が近づいた。黒い影が風に揺れる。
「まあ、プレーナイト公爵子息……こんなところに」
ノックもなしに扉が開かれたそこに、アデライド様が立っていた。差し込む夕陽の中で、紅い瞳が、胸元で揺れる宝石と同じ光を宿した。
ジェイド兄様の肩がかすかに強張り、こめかみに指が触れた。
「王女様、外気は冷えますわ。お体に障るといけない」
白い手が、私の肩に近づく。私は一歩、身を引いた。深紅に塗られた爪が空を掻き、紅い唇が愉快そうにわずかに歪む。
「まあ。嫌われてしまったのかしら……」
冗談めかした声。けれど、彼女の足元の影が少し濃くなった気がした。
「王妃様。王女殿下はお疲れのご様子……私も、本日はこれで失礼します」
「アリア、近い内にまた必ず来るから……」ジェイド兄様がそう小声で囁くと、アデライド様に一礼し、私の肩にそっと手を添えた。
去り際、アデライド様の囁きが、風に紛れて耳に忍び込む。
「……いつまで、持つかしらね……」
その声は、淡く微笑みながらも、嘲るようだった。振り返らなくても、紅い瞳が細められたのが分かった。
* * *
夜。窓辺に立ち、城下の灯りを眺める。神殿の方角には、夜通し揺れる灯火が続いている。祈りが、光になって風に乗るように。
(行かせてください……どうか)
胸元のラピスラズリの石──お母様の形見のペンダントをそっと握る。ひんやりした青い石が、じきに体温を帯びる。
その時、遠くで角笛が鳴った。昼間よりも近い。私は思わず身を乗り出す。城壁の上を、松明の列が走った。
(魔物が、近づいているんだわ……)
恐れが、現実の輪郭を持ちはじめる。けれど、私の中で別の声もまた、輪郭を得ていく。
(逃げない……私にできることを、探さないと)
燭台の炎が、かすかに揺れて、まっすぐに戻る。指の中の石が、微かな光を返した。
不穏は巡り、近づき、絡みつく。
けれど、心のどこかに、まだ温かい場所が残っている。神殿の人々や民の笑顔、ジェイド兄様の手の温かさ──
(お母様……どうか、守って……)
声にならない祈りが、夜に溶けた。
翌朝、王城の空気はさらに重くなり、民の列は神殿の門を越えて路地まで続いていた。私は錠のかかった扉の前で足を止め、静かに息を吸う。
(私は負けない。……まだ、負けられない……)
次回、第六話「王女断罪」