表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/18

第四話 王国に忍び寄る影

挿絵(By みてみん)

※ 作品のイメージイラストです。

「陛下、どうかお考え直しを──!」


 謁見の間に、年老いた声が響いた。私は回廊の陰から、そっと覗き込む。

 磨き上げられた白い大理石の床に、深紅の絨毯がまっすぐ玉座へと伸びている。そこに、膝をついた老臣が額を床につけていた。


「素性も知れぬ者を、王妃に据えるなど前代未聞。いかにご寵愛といえど、歴史あるアダマス王家のいしずえを揺るがす決定にございます。ましてや──」


 老臣は顔を上げ、細くなった声で続けた。


「ましてや、国宝『竜の泪』を私物として与えるなど……アダマスの威信に関わりまする。どうか、ご英断をお収めください」


 玉座の横に立つアデライド様の紅い唇が、ふっと弧を描いた。その瞬間、謁見の間の空気がひやりと冷たくなった気がした。


「……黙れ」


 お父様の声が響き、私は息を呑む。

 お父様は、まるで別人のように変わってしまった。はっきりそう感じさせる覇気のない紅の瞳が、宙を見つめていた。


「ユークレース。余の決定に異を唱えるか」


「い、いえ……この身命を賭して諫めるのが臣の務め、かと……」


「務めは終わった……下がれ」


 淡々とした声。だが次の言葉は、私の胸を真っ二つに割った。


「お前の官位を剥奪する。今より王宮への出入りを禁ず。剣も返上せよ」


「……っ、へ、陛下!」


(お父様、どうして……)


 場がざわめいた。

 衛士が二人、老臣へ無言で歩み出る。その肩を取る手は容赦がない。老臣はお父様を振り返り、赤い絨毯の果てをじっと見つめた。そこには、アデライド様が立っている。


「陛下……どうか、どうかお目を──」


 年老いた忠臣の最後の懇願は、扉が重く閉まる音に飲み込まれた。響きが天井を震わせ、私の背筋まで届く。

 アデライド様は、何も言わず、ただ紅い瞳を細めただけだった。お父様はわずかに彼女へ視線を送り、微笑んで満足げに頷く。


(……お父様)


 胸が強く脈打つ。「余計な火種は要らぬ」と言い、第二王妃を迎える話など一笑に付していたお父様が──今は、夢の中の人のように、遠い。


「次だ。……進言があれば申せ」


 その呼びかけに、誰も口を開かなかった。沈黙が、辺りの空気まで凍らせるようだった。


 やがて、「下がれ」とお父様が告げ、臣下たちは暗い顔で退出していった。最後に残ったのは、黒いドレスを纏うアデライド様だけ。


「陛下……ご決断は、きっと国のためになりますわ」


 紅い宝石が彼女の胸元で揺れ、玉座を照らす灯りを呑み込む。

 『竜の泪』──アダマス王旗と同じ深い赤。建国神話に刻まれた、竜の涙を象った宝石。


 お父様は微笑んだ。「アデライド……この宝石は、美しいお前にこそふさわしい……」


 私は、回廊の柱の陰に額を押し当てた。石のひんやりとした冷たさが肌に滲みる。治まらない鼓動が、強く警鐘を鳴らしているようだった。


* * *


 その日を境に、王城は静かに色を変えはじめた。


 私の部屋に毎朝飾られていたささやかな花は、気づけば置かれなくなった。侍女が運ぶ食事は、湯気が消えている。

 侍女に声をかければ「はい、王女殿下」と返ってくる。それは確かに丁寧な態度で、決して粗雑ではない。けれど、視線は合わない。笑みも浮かばない。

 私が通り過ぎると、廊下の端に彼女たちの気配が寄り、囁きが風にまぎれた。


(……みんな、どうして)


 問いかけは喉でほどけ、音にならない。

 あの日から、親しみを持って接してくる者は確かにいなくなった。でも、ここまでの距離はなかった。


「王女殿下、御用は」


 いつの間にか、侍女のからの呼び名が「王女様」から「王女殿下」に変わっていた。視線は伏せられ、目が合うことはない。

 距離が、一歩、二歩と遠のく音がする。私は「ありがとう」とだけ言って、笑ってみせる。

 窓から吹き込んだ冷たい風が、心を通り抜けていくように感じた。


* * *


 午後の回廊。高い窓から差す光が床に光を落としている。その端で、黒がふわりと揺れた。


「まあ……ここは随分静かなのね」


 アデライド様だった。紅い瞳が愉快そうに細められる。私は立ち止まり、礼をする。


「王妃様……」


「皆、忙しいのよ……人間は恐れると、祈ることと、誰かを遠ざけることしかできなくなるわ……」


 紅い唇が美しくほころぶ。笑っているのに、背筋に冷たい指先が這うような感覚が走った。


「あなたは、優しいみたいだから……余計に寒さを覚えるのかもしれないわね」


 彼女の黒髪が、光を飲み込むようにきらめいた。“竜の泪”が、彼女の白い胸の谷間で妖しく煌めく。


「アリア!」


 誰かが走ってくる靴音に、私は振り向いた。銀の光が影に差し込むように駆けてくる。


「ジェイド兄様!」


 ジェイド兄様が、息を弾ませて立っていた。翡翠の瞳が私を上から下まで見て、眉をひそめる。


「やつれている……何があった」


「……大丈夫。私は、平気よ」


 言いながら、喉の奥が痛んだ。

 ジェイド兄様は私の手を取る。大きくて温かい手。幼い頃から、転んだ私を優しく起こしてくれた手だ。


「アリア、無理をするな。君は──」


 そこで、ジェイド兄様の視線が横へ滑った。漆黒が、静かに佇んでいる。彼は薄く目を細め、こめかみに指を当てた。


「……すまない、アリア……」


 顔色が悪い。私は慌てて手を握り返した。


「兄様?」


「大丈夫だ。少し、空気が重いだけだ……」


 少し顔色が戻ったジェイド兄様が、アデライド様を避けるように瞼を伏せる。

 アデライド様は、まるで何も見ていないかのように微笑んだ。その紅い瞳は、宝石のように美しく煌めいているのに、底が見えない。


「まあ、プレーナイト公爵子息。ご機嫌よう」


「……王妃様」


 短く礼を交わすと、ジェイド兄様は私の肩にそっと触れた。低い声で囁く。


「アリア、後で庭園で会えるか」


「……ええ」


 ジェイド兄様が去り、私はふたたびアデライド様と向き合う。彼女は一歩、私に近づいた。紅い瞳に、私の姿が小さく映る。


「……あなたの瞳は、綺麗ね。……まるで、氷の色みたい」


「……恐れ入ります」


「割ると、きっと澄んだ音がするわ」


 私の部屋に掛けられた鳩時計が、小さく時を告げた。

 私は「失礼いたします」と一礼し、足早に回廊を離れた。背中に、紅い視線が棘のように刺さるのを感じながら……。


* * *


 夕刻。庭園の噴水の縁に腰掛けると、冷たい水音が心を落ち着かせた。ほどなく、足音が砂利を踏む。


「……アリア」


 ジェイド兄様が来た。翡翠の瞳に心配が滲む。


「何が起きているのか、まだ掴みきれない。だが、城の空気が変わった。陛下の周りも、近づきがたい。……君に何かあれば、必ず私が守る」


「ジェイド兄様……」


 胸が熱くなり、言葉が震えそうになる。けれど、その瞬間、庭園の門の方から兵の叫びが飛び込んできた。


「失礼いたします! 至急の報せ!」


 兵が駆け込み、膝をつく。息が荒い。


「辺境の村々に、魔物の群れが出現。被害、甚大とのこと……! 城下にも不安が広がり、神殿に祈願が押し寄せています──」


 ジェイドの表情が引き締まる。私の胸は、ぎゅっと掴まれたように強く痛んだ。


(魔物が……辺境に)


 アデライド様の紅い瞳。『竜の泪』の赤。父の遠い瞳。城を包む薄い寒気。すべてが一本の糸に繋がっていく気がして、私は思わず空を仰いだ。暮れなずむ空の色が、ゆっくりと深い群青へ沈んでいく。


 遠くで鐘が鳴る。いつもの鐘の音なのに、今日は、低く不吉に聞こえる。


「アリア。中へ」


 ジェイド兄様が私を促す。私は頷き、噴水の縁から立ち上がった。

 風が吹き抜け、銀の髪が靡く。その一房が頬にかかるのを、指で耳にかけた。


(──何かが、動きはじめている)


 胸の奥に、小さく冷たい灯がともる。それは恐れであり、そして、確かな予感でもあった。

 私の世界が、静かに、しかし確かに、変わっていく。


* * *


 夜更け。部屋の燭台が一本、細く揺れていた。

 私は机の引き出しから、お母様の形見のペンダントを取り出す。

 てのひらの上で、夜空のような青い石がほのかに煌めく。


(お母様……)


 声に出したら、涙が溢れそうで唇を噛んだ。

 回廊で聞いた声、謁見の間で見た父の遠い瞳、冷たくなった侍女の横顔──そして、アデライド様の美しい笑み。それらのすべてが、胸の奥で冷たく渦を巻く。


 ペンダントをそっと握り締めると、かすかに掌が温かくなる気がした。

 それは、お母様の手に触れたときのぬくもりに似ていて──


「……お母様……私、負けません……」


 掠れた声が、夜の静寂に溶けていく。

 小さな灯がふっと揺れたあと、炎はまたまっすぐに伸びた。まるで、私の中の小さな決意が燃え直したかのように──

次回、第五話「王城を巡る不穏」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ