第四話 王国に忍び寄る影
「陛下、どうかお考え直しを──!」
謁見の間に、年老いた声が響いた。私は回廊の陰から、そっと覗き込む。
磨き上げられた白い大理石の床に、深紅の絨毯がまっすぐ玉座へと伸びている。そこに、膝をついた老臣が額を床につけていた。
「素性も知れぬ者を、王妃に据えるなど前代未聞。いかにご寵愛といえど、歴史あるアダマス王家の礎を揺るがす決定にございます。ましてや──」
老臣は顔を上げ、細くなった声で続けた。
「ましてや、国宝『竜の泪』を私物として与えるなど……アダマスの威信に関わりまする。どうか、ご英断をお収めください」
玉座の横に立つアデライド様の紅い唇が、ふっと弧を描いた。その瞬間、謁見の間の空気がひやりと冷たくなった気がした。
「……黙れ」
お父様の声が響き、私は息を呑む。
お父様は、まるで別人のように変わってしまった。はっきりそう感じさせる覇気のない紅の瞳が、宙を見つめていた。
「ユークレース。余の決定に異を唱えるか」
「い、いえ……この身命を賭して諫めるのが臣の務め、かと……」
「務めは終わった……下がれ」
淡々とした声。だが次の言葉は、私の胸を真っ二つに割った。
「お前の官位を剥奪する。今より王宮への出入りを禁ず。剣も返上せよ」
「……っ、へ、陛下!」
(お父様、どうして……)
場がざわめいた。
衛士が二人、老臣へ無言で歩み出る。その肩を取る手は容赦がない。老臣はお父様を振り返り、赤い絨毯の果てをじっと見つめた。そこには、アデライド様が立っている。
「陛下……どうか、どうかお目を──」
年老いた忠臣の最後の懇願は、扉が重く閉まる音に飲み込まれた。響きが天井を震わせ、私の背筋まで届く。
アデライド様は、何も言わず、ただ紅い瞳を細めただけだった。お父様はわずかに彼女へ視線を送り、微笑んで満足げに頷く。
(……お父様)
胸が強く脈打つ。「余計な火種は要らぬ」と言い、第二王妃を迎える話など一笑に付していたお父様が──今は、夢の中の人のように、遠い。
「次だ。……進言があれば申せ」
その呼びかけに、誰も口を開かなかった。沈黙が、辺りの空気まで凍らせるようだった。
やがて、「下がれ」とお父様が告げ、臣下たちは暗い顔で退出していった。最後に残ったのは、黒いドレスを纏うアデライド様だけ。
「陛下……ご決断は、きっと国のためになりますわ」
紅い宝石が彼女の胸元で揺れ、玉座を照らす灯りを呑み込む。
『竜の泪』──アダマス王旗と同じ深い赤。建国神話に刻まれた、竜の涙を象った宝石。
お父様は微笑んだ。「アデライド……この宝石は、美しいお前にこそふさわしい……」
私は、回廊の柱の陰に額を押し当てた。石のひんやりとした冷たさが肌に滲みる。治まらない鼓動が、強く警鐘を鳴らしているようだった。
* * *
その日を境に、王城は静かに色を変えはじめた。
私の部屋に毎朝飾られていたささやかな花は、気づけば置かれなくなった。侍女が運ぶ食事は、湯気が消えている。
侍女に声をかければ「はい、王女殿下」と返ってくる。それは確かに丁寧な態度で、決して粗雑ではない。けれど、視線は合わない。笑みも浮かばない。
私が通り過ぎると、廊下の端に彼女たちの気配が寄り、囁きが風に紛れた。
(……みんな、どうして)
問いかけは喉でほどけ、音にならない。
あの日から、親しみを持って接してくる者は確かにいなくなった。でも、ここまでの距離はなかった。
「王女殿下、御用は」
いつの間にか、侍女のからの呼び名が「王女様」から「王女殿下」に変わっていた。視線は伏せられ、目が合うことはない。
距離が、一歩、二歩と遠のく音がする。私は「ありがとう」とだけ言って、笑ってみせる。
窓から吹き込んだ冷たい風が、心を通り抜けていくように感じた。
* * *
午後の回廊。高い窓から差す光が床に光を落としている。その端で、黒がふわりと揺れた。
「まあ……ここは随分静かなのね」
アデライド様だった。紅い瞳が愉快そうに細められる。私は立ち止まり、礼をする。
「王妃様……」
「皆、忙しいのよ……人間は恐れると、祈ることと、誰かを遠ざけることしかできなくなるわ……」
紅い唇が美しく綻ぶ。笑っているのに、背筋に冷たい指先が這うような感覚が走った。
「あなたは、優しいみたいだから……余計に寒さを覚えるのかもしれないわね」
彼女の黒髪が、光を飲み込むようにきらめいた。“竜の泪”が、彼女の白い胸の谷間で妖しく煌めく。
「アリア!」
誰かが走ってくる靴音に、私は振り向いた。銀の光が影に差し込むように駆けてくる。
「ジェイド兄様!」
ジェイド兄様が、息を弾ませて立っていた。翡翠の瞳が私を上から下まで見て、眉を顰める。
「やつれている……何があった」
「……大丈夫。私は、平気よ」
言いながら、喉の奥が痛んだ。
ジェイド兄様は私の手を取る。大きくて温かい手。幼い頃から、転んだ私を優しく起こしてくれた手だ。
「アリア、無理をするな。君は──」
そこで、ジェイド兄様の視線が横へ滑った。漆黒が、静かに佇んでいる。彼は薄く目を細め、こめかみに指を当てた。
「……すまない、アリア……」
顔色が悪い。私は慌てて手を握り返した。
「兄様?」
「大丈夫だ。少し、空気が重いだけだ……」
少し顔色が戻ったジェイド兄様が、アデライド様を避けるように瞼を伏せる。
アデライド様は、まるで何も見ていないかのように微笑んだ。その紅い瞳は、宝石のように美しく煌めいているのに、底が見えない。
「まあ、プレーナイト公爵子息。ご機嫌よう」
「……王妃様」
短く礼を交わすと、ジェイド兄様は私の肩にそっと触れた。低い声で囁く。
「アリア、後で庭園で会えるか」
「……ええ」
ジェイド兄様が去り、私はふたたびアデライド様と向き合う。彼女は一歩、私に近づいた。紅い瞳に、私の姿が小さく映る。
「……あなたの瞳は、綺麗ね。……まるで、氷の色みたい」
「……恐れ入ります」
「割ると、きっと澄んだ音がするわ」
私の部屋に掛けられた鳩時計が、小さく時を告げた。
私は「失礼いたします」と一礼し、足早に回廊を離れた。背中に、紅い視線が棘のように刺さるのを感じながら……。
* * *
夕刻。庭園の噴水の縁に腰掛けると、冷たい水音が心を落ち着かせた。ほどなく、足音が砂利を踏む。
「……アリア」
ジェイド兄様が来た。翡翠の瞳に心配が滲む。
「何が起きているのか、まだ掴みきれない。だが、城の空気が変わった。陛下の周りも、近づきがたい。……君に何かあれば、必ず私が守る」
「ジェイド兄様……」
胸が熱くなり、言葉が震えそうになる。けれど、その瞬間、庭園の門の方から兵の叫びが飛び込んできた。
「失礼いたします! 至急の報せ!」
兵が駆け込み、膝をつく。息が荒い。
「辺境の村々に、魔物の群れが出現。被害、甚大とのこと……! 城下にも不安が広がり、神殿に祈願が押し寄せています──」
ジェイドの表情が引き締まる。私の胸は、ぎゅっと掴まれたように強く痛んだ。
(魔物が……辺境に)
アデライド様の紅い瞳。『竜の泪』の赤。父の遠い瞳。城を包む薄い寒気。すべてが一本の糸に繋がっていく気がして、私は思わず空を仰いだ。暮れなずむ空の色が、ゆっくりと深い群青へ沈んでいく。
遠くで鐘が鳴る。いつもの鐘の音なのに、今日は、低く不吉に聞こえる。
「アリア。中へ」
ジェイド兄様が私を促す。私は頷き、噴水の縁から立ち上がった。
風が吹き抜け、銀の髪が靡く。その一房が頬にかかるのを、指で耳にかけた。
(──何かが、動きはじめている)
胸の奥に、小さく冷たい灯がともる。それは恐れであり、そして、確かな予感でもあった。
私の世界が、静かに、しかし確かに、変わっていく。
* * *
夜更け。部屋の燭台が一本、細く揺れていた。
私は机の引き出しから、お母様の形見のペンダントを取り出す。
掌の上で、夜空のような青い石がほのかに煌めく。
(お母様……)
声に出したら、涙が溢れそうで唇を噛んだ。
回廊で聞いた声、謁見の間で見た父の遠い瞳、冷たくなった侍女の横顔──そして、アデライド様の美しい笑み。それらのすべてが、胸の奥で冷たく渦を巻く。
ペンダントをそっと握り締めると、かすかに掌が温かくなる気がした。
それは、お母様の手に触れたときのぬくもりに似ていて──
「……お母様……私、負けません……」
掠れた声が、夜の静寂に溶けていく。
小さな灯がふっと揺れたあと、炎はまたまっすぐに伸びた。まるで、私の中の小さな決意が燃え直したかのように──
次回、第五話「王城を巡る不穏」