第三話 漆黒の来訪者
「はじめまして、王女様」
そう言って笑った女性は、見たこともないほどに美しかった。
腰よりも長い艶やかな漆黒の髪は絹糸のようで、切れ長の瞳は煌めく柘榴石を思わせる。雪のような白い肌に、血のような紅い唇が際立っていた。
「アデライドを王妃とする」
お父様の声が謁見の間に響いた瞬間、場の空気が凍りついた。
黒いドレスを纏うその女性──アデライド様は、辺境の視察に出向いていたお父様が連れ帰ってきた。お父様からその素性は語られず、アデライド様も何も言わなかった。
家臣たちのざわめきは、なかなか収まらない。
(お父様……?)
お父様は、今まで見たこともない表情をしていた。まるで夢に浸るような、遠い瞳──
そして、お父様の隣に寄り添うアデライド様を見た瞬間、胸がどくんと跳ね、息が詰まった。
「王女様? どうなさったの?」
アデライド様の紅い瞳が、私を射抜く。
お父様の瞳と同じ色のはずなのに、彼女の瞳は全く違うように見えた。
ぞわりと背筋を冷たいものが走る。思わず一歩後ずさった私の視界で、お父様がアデライド様の腰を引き寄せる。
「……お前のあまりの美しさに、緊張しているのだろう」
「まぁ、陛下ったら……」
──おかしい。
「第二王妃など要らぬ」と言い切っていたお父様が、どうして……。
アデライド様から向けられた紅い瞳に、ぞくりと背筋が冷えた。
(……怖い)
視線だけで、心臓が早鐘を打つ。
あの人から放たれる何かが、私の体に警鐘を鳴らしているようだった。
* * *
あの日から、ジェイド兄様が城に来る回数は少なくなった。
訪れても、長居することはない。
「……あの人を見ると、妙に気分が悪くなるんだ」
「すまない、アリア……」と帰り際に零した兄様の横顔が、忘れられない。
(ジェイド兄様……)
胸の奥がきゅっと痛む。
私だけではない──ジェイド兄様もまた、何かを感じ取っているのかもしれないと思った。
* * *
回廊を歩く途中、高官たちの笑い声が耳に入る。
「王妃様はお美しく、炎の魔力をお持ちだとか……まさに陛下に相応しい御方」
「陛下もあのご様子。お世継ぎもすぐに期待できそうですな」
「ええ、公爵家も肩の荷が下りるでしょう」
──公爵……ジェイド兄様のこと……?
(王位はジェイド兄様に継がせるとおっしゃっていたのに……どうして……?)
──『余計な火種は要らぬ』
あの日お父様は、間違いなくそうおっしゃっていた。
(やっぱり、おかしいわ……アデライド様のあの瞳も、まるで──)
「王女様、御機嫌よう」
振り返ると、アデライド様が立っていた──まるで回廊そのものの空気がひやりと冷たくなったように感じた。
アデライド様は細身でありながらも豊満な体に漆黒の美しいドレスを纏っており、露わになった白い胸元には大粒の柘榴石が煌めいている。
その顔は美しく微笑んでいるのに、何故か睨まれたように身動きが取れなくなった。
(……あのネックレスは、まさか……“竜の泪”……?)
アデライド様が首から下げているのは、アダマス王家に伝わる国宝のネックレスだった。建国神話に語られる、討ち取られた竜王の涙を象ったとされる宝石で、紅い色は建国王の瞳の色。
赤は、王家を表す旗にも使われている特別な色だ。それを……。
「あぁ……これは、陛下がくださったの。わたくしの瞳の色に似ていると……」
私の視線を辿ると、アデライド様は微笑んで、ネックレスの柘榴石を指先でそっと撫でた。宝石と同じ色の爪が、美しく煌めく。
「でも……よりによって、『竜の泪』だなんて……悪趣味な名前よね……」
そう低く呟くと、アデライド様はペンダントの石を握り締めた。
瞬時に消えた笑みに寒気を覚え、ただ見つめることしかできない。
「アデライド様……」
そう小さく呼びかけると、アデライド様の紅い唇が再び弧を描く。
「陛下からお聞きしましたわ……アリアネル王女様は、魔力をお持ちでないとか……」
弧を描く紅い唇から紡がれたその言葉に、胸がずしりと重くなる。指先が冷たくなり、ドレスの裾をぎゅっと握った。
私はただ、目の前の紅い瞳を見つめるしかなかった。
「……でも、アダマス王家の血を受け継いでおられるのは、間違いないようね……」
その声は甘やかでありながら、氷のように冷たかった。紅い瞳の奥で、何か鋭いものが光った気がする。
一瞬、背後から冷たい指先で首筋をなぞられたような感覚に、ぞくりと身を竦める。
「王妃様、こちらにおいででしたか!」
アデライド様の背後から、お父様付きの侍従が息を切らせて現れた。
「国王陛下がお呼びです」
「そう……それじゃあ、行かないと」
侍従と話したアデライド様が、ゆっくりと振り返る。
「王女様、それではまた……」
紅い瞳で妖しく微笑むと、アデライド様は漆黒の髪を揺らし去っていった。
(どうして、こんなにも怖いの……?)
理由なんてない。ただ、あの人に近付いてはいけない──本能がそう叫んでいた。
(あの方が来てから、この城は……)
私は胸元を押さえた。鼓動はまだ早く、落ち着く気配はなかった。
まるで、王城そのものが少しずつ変わっていく前触れのように思えて──
ぞっとした私は、足早に回廊を後にした。
次回、第四話「王国に忍び寄る影」




