第二話 アリアネルの日々
『見かけばかりの出来損ない』
私に魔力がないとわかったとき、お父様はそう言った。
呆然と立ち尽くす私を抱き寄せ、お母様は深く一礼すると、私を抱き上げて神殿を後にした。
温かなその腕は、震えていた。
「お母さま、できそこないって、なんですか?」
幼い私がそう尋ねると、お母様は涙を浮かべながらも、そっと微笑んだ。
「アリア……あなたは、いてくれるだけで良いの。そのままでいてくれるだけで、私は幸せよ」
お母様の声は、春の陽だまりのようにあたたかかった。
アダマス王家には、代々強い魔力が受け継がれてきた。
お父様も、従兄のジェイド兄様も、皆が国の未来を担うに相応しい強力な魔力を持っていた。
けれど、王女である私には魔力がなかった。“弱い”のではなく、完全に。
あの日から、どれくらい経った頃だっただろうか。
執務室から、お父様と家臣たちの声が聞こえた。
「国王陛下、第二王妃を迎えられ、跡継ぎを……」
「必要ない」
お父様のきっぱりとした冷たい声が響いた。
「アリアネルに魔力がない以上、王位はプレーナイト公爵家のジェイドに継がせる。余計な争いの火種は作らぬ」
扉越しに、淡々とした冷たい声が聞こえた。
私は扉の影に隠れたまま、胸が締めつけられるのを感じていた。
(……私は、本当にいらない子なんだ)
私がお父様から魔力を受け継がなかったことで、私だけではなく、お母様も肩身の狭い思いをしたはずだ。
あの魔力測定の日までは、毎晩両親と食事をしていた。
五歳の誕生日の日は、大広間で盛大な宴が開かれた。華やかに飾られた広間で、たくさんの家臣や貴族たち、数え切れないほどの贈り物に囲まれ、お父様とお母様も笑っていた。
お父様からは、お祝いに宝石が散りばめられた水色のドレスと小さな宝石箱を贈られたのを覚えている。
だが、あの日以降、それらは全てなくなった。食事の席は、お母様と私の二人だけになった。
六歳の誕生日の夜、お母様と二人で食卓を囲んだとき、城の奥から宴の音がかすかに聞こえてきた。私は小さな手でカップを握りしめ、目の前の笑顔だけを見つめていた。
私に魔力がないことが、お母様にどれほどの苦しみを与えたのか──十五の春、お母様を亡くしたあと、私はある話を耳にした。
一部の家臣たちが、王妃だったお母様の“不貞”を疑っていたというのだ。
幸い私は、王家の証とされる銀の髪を持っていたため、表立って口にする者はいなかった。
それでも、お母様はその言葉を耳にしてしまったかもしれない。そう思うと、胸が締めつけられる。
(お母様が旅立たれて、もう一年……)
庭園の噴水に腰掛け、透き通る水音を聞きながら、私は小さく息を吐いた。
見上げた空は雲ひとつなく澄み渡り、お母様の瞳の色を思い出させる。私も母から同じ瞳の色を受け継いだ。あの日まで、この銀の髪は父譲り、瞳の色は母譲りとよく言われていたことを思い出す。
風が木の葉を揺らすと、近くの小鳥が水辺に降り、羽を震わせて水浴びを始めた。
その愛らしい姿に、思わず微笑む。
「アリア」
穏やかな声が、背後から響いた。
「ジェイド兄様……」
振り返ると、従兄のジェイド兄様が立っていた。
陽光にきらめく深い銀の髪と翡翠の瞳──その姿に、思わず胸が温かくなる。
「今日は神殿へ行く日だろう? 一緒に行こう」
「ありがとう」
立ち上がった私に、ジェイド兄様は優しい笑みを返した。
お母様を失って以来、心から笑って言葉を交わせるのは、彼くらいだ。
幼い頃から優しく気に掛けてくれているジェイド兄様は、私にとって兄も同然の存在だった。
* * *
神殿の白い回廊を歩くと、心が少しだけ落ち着く。
私が受け継いだ力は、アダマス王家の魔力ではなく、お母様のセレスタイト王国の聖女としての癒しの力だった。
幼い頃から母と共によく神殿に通っていた私は、母が亡くなってからも毎週三度神殿を訪れ、病や傷を負った人々を癒している。
今日も、私の前に並んだ人々は深々と頭を下げ、感謝の言葉を告げた。
病に伏せた老婆の手を取ると、弱々しい呼吸が少しずつ整っていくのがわかった。私は胸の奥で小さく祈り、ゆっくりと力を込める。祈り終えたあと、指先が少し痺れ、手がわずかに震えた。
やがて老婆は目を開き、掠れた声で「ありがとう」と私の手を握りしめた。その掌の温かさに、胸がじんわりと熱くなる。
彼らの痛みや傷が癒えるたび、その瞳から安堵と喜びの涙が零れる。
「ありがとう……ありがとうございます、アリアネル王女様」
民たちの笑顔を見ると胸が温かくなる。
先ほどまで「足が痛い」と泣いていた小さな子が、痛みの消えた足で駆け出していくのを見ると、この力を持って生まれてきて良かったと思えた。
けれど、癒し終えたあと、あの言葉を思い出し、ふと心に翳りが落ちる。
──『見かけばかりの出来損ないだな……王家の恥さらしめ』
胸が痛み、ずしりと重くなる。
あの日のことは、忘れたくても、忘れられなかった。
「……私には、これしかできないもの」
呟いた声は小さく、けれどジェイド兄様には届いていた。
彼はわずかに拳を握り、私をまっすぐに見た。
「セレスタイトでは、聖女は尊い存在として崇められている。アリア、君は十分すぎるほどよくやっている。……誇っていいんだ」
ジェイド兄様の言葉に、私は小さく笑った。
彼は私の頭にそっと手を置き、「君は強い子だ。……でも、一人で抱え込みすぎないでくれ」と言って優しく撫でた。
「アリアの優しさは、この国にとっての光だ……私はそう思っているよ。きっと、ここに来る民たちも皆そう思ってる」
「……ありがとう、ジェイド兄様」
私はそう言って、小さく笑った。
その瞬間、胸の奥に灯った光が、ほんのりと広がった気がする。
(私は、私にできることを……。お母様、私……少しだけ、前を向けそうです)
神殿の白い回廊を吹き抜ける風が、頬を撫でた。
どこかでお母様が見守ってくれている気がして、私はそっと目を閉じた。
次回、第三話「漆黒の来訪者」