第二十七話 私の帰る場所
竜の谷にひとり戻ったヘリオスは、ひとり佇んでいた。
澄んだ空を見上げ、ゆっくりと息を吐く。
まだ人の姿を保ったまま、彼は両手を見つめる。
指先には、数日前まで触れていたアリアの銀の髪の感触が残っている。髪と、眠る額に唇で触れた感触も──
「俺は……未練がましいな」
ヘリオスは、自嘲するように呟いた。
乾いた風が吹き抜ける谷に、微かなため息が消えていく。
忘れようと思った。
彼女とは、元々、住む世界が違う。
共に過ごしたのも、永遠を生きる竜にとっては瞬き程度の時間──
だが、消そうと思っても、消せなかった。
浮かぶのは彼女のことばかり。
笑った顔、泣いた顔、優しい声……。
その柔らかな温もりも──全てを、忘れることができなかった。
「アリア……」
その名を呟くと、更に胸が苦しくなった。
(約束、守れなかったな……)
紫苑の花畑で、幸せそうに笑っていた彼女の姿を思い出す。
──あのまま、時が止まれば良かった……そうすれば、一緒にいられたのに……。
そんな叶いもしない馬鹿げた願いが頭に浮かび、ひとり嘲笑う。
(アリア……幸せに、生きてくれ……)
そのとき──
「ヘリオス!」
聴きたかった声が、風に乗って谷に響いた。
はっと顔を上げ振り向くと、そこには馬車から降り立ったアリアの姿があった。
白いドレスの裾を持ち上げ、真っ直ぐにこちらに駆けてくる。
(アリア……!)
「……何をしに来た!」
揺れる心に反して、思わず声が荒くなる。
「ここはお前のいる場所じゃない! 城に戻れ! ……ジェイドも、皆も心配しているだろう」
突き放すように告げるが、アリアは足を止めなかった。
そのままヘリオスの前まで駆け寄ると、息を切らしながら顔を上げた。
「いいえ。ここが、私の帰る場所よ」
涙で潤んだ空色の瞳が、まっすぐに彼を見上げる。
「私の居場所は、城じゃないわ……私は、ヘリオスの傍にいたいの。もう、決めたの」
その言葉に、ヘリオスの胸が強く締めつけられる。
(……俺を選んで、何になるというんだ)
荒れる心を抑え込むように、拳をぎゅっと握りしめた。
──けれど、目の前のアリアは、泣きながらも強い瞳でこちらを見上げている。
数日前まで不安に揺れていた少女ではない。
まるで光を纏ったように、真っ直ぐで揺るがない意志を宿していた。
(……こんな顔、初めて見る……)
胸の奥が熱くなり、思わず言葉を失った。
戸惑いと、熱が胸の内を渦巻く。
「……アリア、俺は──」
「約束してくれたじゃない。またあの花畑に、連れて行ってくれるって……」
紫苑の花畑で、彼女の頭に花冠を乗せた日のことが、ヘリオスの脳裏に蘇る。
「ずっと、一緒にいたいの」
その言葉に、ヘリオスは彼女を抱き寄せた。
「……お前が望むなら、ずっと傍にいる」
ほんの僅かに震えた声で告げると、胸の奥から張り詰めていたものが解けていく気がした。
ヘリオスの胸元に頬を寄せたアリアは、彼を抱き締め返すと、幸せそうに微笑んだ。閉じた瞼から、涙が一筋流れる。
谷に吹く風が、二人の髪と衣を揺らした。
薄紅に染まった空が、谷とふたりを照らしていた。
次回、エピローグ「― ずっとふたりで ―」




