第二十六話 消えた光
「ヘリオス、どこにいるの?!」
目覚めたら、そこに彼の姿はなかった──
何度呼びかけても、彼の声は返っては来ない。
昨日まで、寄り添うように傍にいてくれた彼の姿がなくなり、心に不安が広がる。
静まり返った朝の空気が冷たく、胸の奥がひどくざわついた。
「ヘリオス……」
呟いた彼の名だけが、整えられた部屋にぽつりと落ちる。
朝の日差しに淡く照らされた部屋は、ひどくがらんとしていた。
「ヘリオスを、見ていませんか?」
部屋付きの侍女や騎士に確認するも、皆が首を横に振る。
部屋を飛び出すと、周りの視線も気にせず、王城の中を駆け回る。
(ヘリオス、どこにいってしまったの……?!)
「ヘリオス……」
その名を口にすると、涙が滲んだ。溢れそうになる涙を、そっと袖で拭う。
そのとき、ジェイド兄様の侍従が現れた。
「王女殿下、国王陛下がお呼びです」
案内された広間では、誂えられたばかりの玉座にジェイド兄様が座っていた。
私の姿に立ち上がった彼に駆け寄る。
「ジェイド兄様、ヘリオスがいないの!」
「アリア、落ち着くんだ。……ヘリオスは、竜の谷へ帰ったよ」
その言葉に息が詰まり、胸が苦しくなる。
「どうして、ひとりで……」
「アリアのことを、思ってのことだ……分かってやってほしい」
そう言って伏せられた翡翠の瞳に、私はただ立ち尽くす。
浮かんだのは、雲の上でこちらを振り返った優しい金の眼差し。
そして、花冠を乗せてくれたときの、微笑んだ顔──
「分かるわけ、ないわ……」
「アリア……?」
(ひとりで、いなくなるなんて……)
昨日見た、いつもと様子が違った金の瞳を思い出す。
「だって、約束、してくれたのよ……また、あの花畑を見せてくれるって……」
そう呟くと、涙がぽろぽろと溢れ出した。胸が痛い。彼が隣にいないことが、寂しくてたまらない。
目を見開いているジェイド兄様を、真っ直ぐに見つめる。
「私、ヘリオスの所へ行くわ」
「アリア?! 何を言い出すんだ。あんな場所へ行くなんて──」
「“あんな場所”じゃない、ヘリオスの家よ! 私は、あの谷へ帰るの!」
ジェイド兄様の言葉を遮って、私はそう叫んだ。こんなに感情を露わにしたのは、生まれて初めてだった。
ジェイド兄様は、呆然と私を見つめている。
「ジェイド兄様……ごめんなさい。私、ヘリオスと一緒にいたいの」
「小さな頃から、兄様だけが優しくしてくれて、ずっと守ってくれた……本当に、感謝しているわ」と頭を下げる。
ジェイド兄様はしばらく沈黙していたが、やがて深く息を吐いた。
「……アリアの意志は、固いんだな」
ジェイド兄様の声がかすかに震えているのに気づいて、胸が痛んだ。翡翠色の瞳の奥には、迷いが揺れている。
「ええ……止めないで、兄様」
涙に濡れた頬のまま、真っ直ぐに見上げると、ジェイド兄様はわずかに目を伏せた。
「……分かった。だが、城を出るなら護衛をつける。アリアを独りで行かせるわけにはいかない」
「護衛は要らないわ。ひとりで行きたいの」
ジェイド兄様の眉がわずかに寄る。それでも、強い瞳で見返すと、彼は観念したように頷いた。
「……馬車を出させよう。せめて無事に谷まで送らせてくれ」
「……ありがとう、ジェイド兄様」
涙を浮かべたまま笑うと、ジェイド兄様は立ち上がり、私の頭にそっと手を置いた。
「アリア。……何かあれば、すぐに城を頼れ。いつでも、戻って来て良いんだからな」
「ええ、約束するわ」
互いに小さく微笑むと、胸の奥にじんと温かなものが広がった。
* * *
城を出ると、王家の紋章を掲げた馬車が待っていた。
御者台の騎士が深々と頭を下げる。
「国王陛下、王女殿下、準備は整っております」
ジェイド兄様は静かに息を吐き、私の方へ向き直った。
僅かに潤む翡翠の瞳が、こちらをじっと見つめる。
「……アリア、幸せになるんだぞ」
その言葉に胸が熱くなり、アリアは涙をこらえて頷いた。
「ありがとう、ジェイド兄様……兄様も、どうかお元気で」
笑いかけると、ジェイド兄様は唇をきゅっと結び、何か言いかけてやめた。その瞳に宿る寂しさを感じて、胸が痛んだ。
ジェイド兄様がそっと頭に手を置く。
その温もりを感じながら、私は馬車に乗り込んだ。
扉が閉まると、馬車が静かに動き出す。
城下へ続く石畳を進むうち、カーテンを少し開けて、遠ざかる城を振り返る。こちらを見送るジェイド兄様の姿が見えて、涙が滲む。
(ジェイド兄様……ありがとう)
寂しさを胸に、深く息を吐く。
城門を抜けた瞬間、胸の奥につかえていた靄が少しだけ軽くなった。
揺れる馬車の中で、竜の谷でひとり佇むヘリオスの姿が浮かぶ。
(……待ってて、ヘリオス……)
私は深く息を吸い込み、まっすぐ前を見据えた。
* * *
城下を走る王家の馬車を、城下の民たちが囲む。
「王女様、ご無事だったんですね!」
「王女様! また、神殿に来てくれる?」と顔を出したのは、見覚えのある少年だった。
「もう、神殿には行けないの……私は、行かないといけない場所があるから」
そう微笑んで告げると、少年は少し残念そうに笑った。
「王女様、お元気で!」
少年の大きな声に、周りの民たちも口々に別れの言葉を口にし始める。
「アリアネル王女様、どうかお元気で!」
「ありがとう……皆さんも、お元気で」
笑顔で手を振る民たちに、私も笑顔で手を振り返した。
朝日に照らされた城下の人々の顔が、ひとつひとつ鮮やかに目に映る。
もう二度と見られないかもしれない景色を、胸に刻むように見つめた。
そして私は、民たちの声と姿を背に、馬車に揺られながら城下を出る。
向かうのは、彼のいる竜の谷──
もう、誰にもこの運命を決めさせない──
決めるのは、私。そう心に誓った。
次回、第二十七話「私の帰る場所」




