第二十五話 迷う心、募る想い
それからも、王城での日々は静かだった。
だが、家臣や侍女が時折部屋を訪れては、涙ながらに謝罪の言葉を口にする。
(お父様とアデライド様が亡くなったから? それとも、ジェイド兄様が即位するから……?)
そんな考えが、胸の内を巡る。
彼らに何度謝られても、冷え切った心が動かされることはなかった。
彼らを憎んでいるわけでも、恨んでいるわけでもない。ただ、心の奥に残る痛みも靄も消えなかったのだ。
久しぶりに会った神殿の人々は、変わらず親切だった。
彼らと過ごす時間は穏やかで、救われる思いがした。かつては、神殿での時間に、自らの存在意義と価値を見出そうとしていた。
だが、神殿へ行っても、前のような穏やかな気持ちにはならなかった。
(変ね……ここにいても、心が落ち着かないわ)
向かっている神殿の控の間では、ヘリオスが待ってくれている。
早く、彼に会いたくてたまらなかった。
「アリア、終わったのか」
そう言って立ち上がり、微笑んだ金の瞳。ざわめいていた心が、不思議と落ち着いていく。
彼が傍にいてくれることが、確かな安らぎを与えてくれているのだと、強く感じた。
(私、ヘリオスがいないと、駄目なんだわ……)
隣を歩く彼を見上げると、「どうした?」と微笑んでくれる。
頬が熱くなり、胸が高鳴るのを感じた。
「何でもないの……傍にいてくれて、ありがとう」
私がそう言うと、彼は嬉しそうに笑った。
その笑顔に胸が温かくなるのを感じて、私は静かに息を吐いた。
* * *
──王城は、確かに変わった。
冷たい態度を取るものは一人もいなくなり、彼らの態度からも王女として尊重されていることがわかる。
でも、まだ幼かったあの日から向けられ始めたお父様の冷たい視線や、アデライド様が現れてからの日々の記憶が、時折蘇っては胸を締めつける。
この城での生活は、もう安全であるはずなのに、心が素直に受け入れられなかった。
(……私、本当にここにいていいの……?)
窓の外では、陽光に照らされた城下が穏やかに広がっている。
まるで何事もなかったかのような景色に、胸がちくりと痛んだ。
そのとき、背後に気配を感じて振り返ると、ヘリオスが静かに立っていた。
金色の瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。
「……ヘリオス?」
声をかけると、彼はいつものように微笑んだ。
けれど、その笑みはどこか遠くを見ているようで──胸の奥が、再びざわついた。
* * *
ヘリオスの心には、冷たい影が差し込んでいた──
(──アリアの、居場所は……)
アリアと出会ったのは、彼女が追放されて竜の谷に来たからだ。彼女を追放した父王は既に亡くなり、今はジェイドが国を守っている。
アリアには、この美しく安全な城がある。そして、兄のように彼女を守るジェイドがいる。
竜の谷には、この部屋にある綺麗で柔らかな寝台も、美しいドレスもない。荒涼とした谷に、雨を凌げる洞穴がひとつあるだけ……。
そもそも、人間は外で暮らさない。これから冬が来れば、竜の谷での生活は更に過酷になる。か弱い人間のアリアには、とても住める環境ではない。
ヘリオスは、拳を強く握り締めた。
(俺は竜だ。アリアとは違う……姿の変わらない俺が傍にいれば、またアリアを苦しめることになるかもしれない……)
その思いが、胸を締めつける。
ジェイドから、彼女が追放される際に『竜に呪われた王女』と罵られていたことを聞いていた。
このまま彼女の傍にいれば、不審に思われることが容易に想像できた。
「ヘリオス?」
アリアの空色の瞳が、不安そうにヘリオスを見つめている。
「……なんでもない、大丈夫だ」
彼は穏やかな笑みを作り、彼女の髪をそっと撫でた。
だが、その翳る金の瞳は揺らいでいた。
* * *
その日の晩、ヘリオスはジェイドの私室を訪れていた。
「アリアが、悲しむぞ」
ジェイドのその言葉に、俯いたヘリオスが小さく口を開く。
「……アリアのことを、よろしく頼む」
「もう少し、落ち着いてからでも……──ヘリオス!」
ヘリオスは、ジェイドの言葉を遮るように部屋を後にした。
* * *
月明かりに照らされ、白い寝台に広がる銀の髪が淡い光を返している。
ヘリオスは、寝台の傍らに膝をつくと、眠るアリアの髪をそっと撫でた。
「アリア……」
(ずっと、一緒にいたかったよ……)
言葉に出来ないその想いを、胸の内で呟く。金の瞳が、その寝顔を愛しそうに見つめている。
「アリア……どうか、幸せに……」
掠れた小さな声が、静かな部屋に落ちる。
(ここには、ジェイドがいる……周りの人間たちも、アリアを大切にしている……もう、大丈夫だ)
──俺は、もう、必要ない……。
ヘリオスが瞳を閉じると、涙が白い頬を伝った。
苦しげな表情で瞼を薄く開き、ヘリオスは寝台に眠るアリアに向かって屈む。その銀の髪と、白い額にそっと口付ける。
無垢な寝顔を見つめ、金の瞳が揺れている。
彼は、思い出していた。
あの日、彼女が初めて竜の谷を訪れた日のことを──
洞穴の外で、雨に打たれる姿。
初めて見せてくれた微笑み。
傷を癒し、パンを分けてくれた優しい手の温もり……。
彼女のおかげで、寂しかった谷に、小さな動物たちが集まるようになった。
彼女と谷で過ごした短い日々は、永い時を独りで生きてきた彼にとって、何にも代えがたい時間となっていた。
彼女が来てから、不思議と暖かく感じるようになった暗い洞穴。
毎晩、密かに街に出ては買ってきた黒パンの香り。
彼女のために用意した干し草の寝床。
そして、何より愛しい笑顔──
すべてが、彼にとってかけがえのない宝物だった。
(アリア……)
声にならない声で──胸の内で、何度もその名を呼んだ。
だが、呼ぶたびに、胸の奥が張り裂けそうに痛む。
彼は、“愛しい”という感情を、彼女と出会ってから初めて知った。
城下でアリアが倒れた日、自分も人であればと願ってしまったことを思い出す──
(アリア……)
ヘリオスはアリアの寝顔にそっと顔を寄せた。小さな寝息を立てる淡い唇を見つめる。
無邪気な寝息が、静かな部屋にかすかに響いている。その音が、胸を引き裂くように愛おしかった。
だが、触れぬまま切なげに瞼を伏せると、静かに立ち上がる。
だが、扉へ向かおうとした足が、ふと止まる。
もう一度だけ、彼女の寝顔を見てしまう。
触れたら、離れられなくなる──そう分かっているのに、どうしても目が離せなかった。
(この城で暮らすのが、アリアにとって一番良いはずだ……)
俯いたヘリオスは、強く拳を握り締める。
「ヘリオス……」
小さなその声に振り返ると、アリアが穏やかな寝息を立てていた。
「アリア……」
ヘリオスは瞳を滲ませるともう一度だけアリアを見つめ、静かに背を向ける。瞬きに、再び涙が零れ落ちた。
彼は扉の前で立ち止まり、深く息を吐くと──何も言わず、闇の中へと消えていった。
次回、第二十六話「消えた光」




