第二十四話 芽生える想い
目を覚ましてから数日。
王城には再び穏やかな日々が戻り、謁見の間の修復も少しずつ進められているとジェイド兄様から聞いた。
ジェイド兄様は即位の準備に追われているそうで、たまに私の様子を見るために顔を出してはすぐに部屋を後にした。忙しい中でも気にかけてくれる様子に、胸がじわりと温かくなる。
ずっと傍にいてくれるヘリオスの存在も、まるで陽だまりにいるような温かさを与えてくれていた。
私が目覚めたことを聞いて、家臣や侍女たちが涙を流して喜んだと聞いたが、心は少しも動かなかった。
あの魔力測定の日から、明らかに変わってしまった態度と開いた距離。アデライド様が現れてからの城でのことを思い返すと、胸の奥に眠る暗く重い影が顔を出すのだ。それは、彼らがいくら涙ながらに謝ってくれても消えることはなかった。
心から安心して接することができるのは、ジェイド兄様とヘリオスだけだった。ジェイド兄様が配してくれたプレーナイト公爵家の侍女や騎士たちは良くしてくれるが、まだ心からの信頼は出来ない。
(──ここで過ごした日々は、そう簡単には消せないのね……)
ヘリオスと出会って、彼の傍にいることで、この城での生活がいかに辛かったかを実感した。
心から笑ったのは、彼の前が初めてかもしれない──そう思うくらいに……。
* * *
(アリアには、笑顔でいてほしい……)
ヘリオスは、アリアの傍にいることで少しでも心を軽くしたいと願った。
人の姿に戻った彼は、王城の庭園を一緒に散歩したり、陽だまりの部屋で穏やかな時を過ごしたりと、できる限りの時間を彼女に捧げた。
ある日の午後。
庭園のベンチに共に腰掛け、ぼんやりと空を眺めるアリアの横顔を、ヘリオスは黙って見つめていた。
「……空が、遠いわね……」
小さな呟きに、彼はふと目を細める。
「なら、近くで見せてやろうか」
不意に告げられた言葉に、アリアは瞬きをした。
「え……?」
ヘリオスは、あたりに人の気配がないことを確認する。
──次の瞬間、ヘリオスの体が白い光に包まれる。
光が晴れたとき、そこに立っていたのは人ではなく、美しい白竜だった。
「アリア、乗ってくれ」
差し出された大きな前脚を見つめ、アリアは一瞬だけためらったが、やがてゆっくりと頷く。
ヘリオスの前脚にそっと左足を乗せ、彼の背へと乗る。白い鱗に覆われた大きな背中に、僅かに伏せるように身を預ける。
「しっかり掴まっていろ」
白竜の翼が広がる。
風が渦を巻き、中庭を彩る花々が一斉に揺れた。
次の瞬間、巨体が軽やかに地面を離れ、青空へと舞い上がる。
「──わぁ……!」
思わず零れた歓声が、風に攫われていく。
眼下には城が遠ざかり、瓦礫の残る謁見の間も、青く澄んだ空に溶けていく。
高く、高く。
雲間を抜けると、陽光がアリアの頬を照らし、銀の髪が風に踊った。
「綺麗……!」
頬を紅潮させて笑うアリアの横顔を振り返り、ヘリオスは目を細める。
あの戦いの日、目を赤く腫らして泣きじゃくっていたアリア。目覚めてからも元気のなかった彼女が、今こうして自分の背で笑っている。
胸の奥に温かなものが広がり、彼は大きく翼をはためかせた。
白い竜とアリアを乗せた風が、広い大陸を駆け抜けていく。
* * *
視界いっぱいに美しい雲海が広がる。その夢のような景色に、呼吸を忘れそうになった。
「アリア、大丈夫か?」
黙っていたことに心配したのか、ヘリオスが速度を落としてこちらを振り返る。
「大丈夫よ。あんまり綺麗で、見惚れていたの」
「まさか、雲の上を見られるなんて……」と微笑むと、ヘリオスの瞳も嬉しそうに細められた。
「どこに行きたい? どこへでも連れて行ってやる」
「ヘリオスと一緒なら、どこでも良いわ」
笑顔で返すと、ヘリオスがふいと顔を逸らした。
「ヘリオス?」
「もう少しここを飛んでから、降りるぞ」
そう短く言ったヘリオスは、雲海の上を滑るように飛ぶと、ゆるやかに高度を下げる。
視界を純白が覆い、瞼を閉じた。ひんやりとした強い風が、髪を靡かせる。
その背に掴まったまま雲海を下に抜ける。瞼を開けると、眼下には山々が連なる緑の大地と青い海が広がっていた。
「本当に綺麗だわ! ……ありがとう、ヘリオス」
少し振り返ったヘリオスの金色の瞳は、優しい光を宿していた。
再び視線を下ろすと、山々の間に、薄っすらと薄紫が広がる場所が見える。
「ヘリオス! あそこ──あの薄紫の場所は何かしら?」
私の差した方向に視線を向けたヘリオスが、高度を下げる。
「行ってみよう。しっかり掴まっていてくれ」
* * *
──降り立った先は、山間にある花畑だった。どこまでも広がる紫苑色と淡い花の香りに、思わずため息が漏れる。
「なんて、美しいの……」
「これは、紫苑の花だ。好きなのか?」
「初めて見たのよ。とても綺麗な花ね」
「私、このお花が大好きになったわ」とヘリオスを振り返ると、彼はいつの間にか人の姿になっていた。
少し恥ずかしくなった私は、紫苑の花畑に腰を下ろし、可憐な花々に手を伸ばした。
* * *
──空の色を受けて、少し薄紅に染まり始めた花畑。
紫苑の花々が西日に照らされ、風に揺れていた。
花の茎を編みながら微笑むアリアを見つめ、ヘリオスは胸の奥が温かく満ちていくのを感じていた。
(……アリアのこんな笑顔、初めて見た)
王城で見つけ出したあの日、目を腫らして泣きじゃくっていた彼女が、今こうして幸せそうに笑っている。
その事実に、心の奥がじんと熱くなる。
「ヘリオス、できたわ」
アリアが花冠を差し出して微笑んだ。空色の瞳が淡く薄紅を映し、こちらを見つめている。そのとき、胸がどうしてか苦しくなった。
「……綺麗だな」
ヘリオスは花冠を受け取ると、アリアの頭にそっと載せた。輝く銀色の髪に、紫苑の花冠がよく映えている。
「似合ってる」
そう言って微笑むと、アリアは少し頬を染めてはにかんだ。
淡い花の香を纏う柔らかな風が、紫苑の花を揺らす。アリアの銀の長い髪もさらさらと風に靡いた。
夕暮れに染まり始める空を、アリアが仰ぐ。
「もう、こんな時間なのね……」
少ししょんぼりとした表情のアリア。
「もう少しここにいるか? 何なら、ここに住んでも良いんだぞ」
その言葉に、アリアは僅かに目を見開いた。
「ここに住めたら、とても素敵ね」と声を上げて笑う彼女に、微笑み返す。
「でも……ここに、ずっといたいけど……きっと、ジェイド兄様が心配するわ」
憂いを帯びて伏せられた空色の瞳。彼女の唇から紡がれた言葉が胸に落ちて、ちくりと痛んだ。
──彼女には、帰る場所が出来た。
その事実に、胸の内に言葉に出来ない感情が湧き上がる。
「そうだな。ジェイドが心配してるかもしれない……そろそろ、帰ろうか……」
胸が苦しい。自分でも、どうしたらよいのか分からず、彼女から背を向け、竜の姿になる。
「ヘリオス、また、連れてきてくれる……?」
「ああ……アリアが望むなら、いくらでも」
そう呟いたが、胸の内に生まれた靄は、消えなかった。
夕暮れが紫苑の花畑とふたりを照らし、ひんやりとした風に銀の髪が靡いた。
次回、第二十五話「迷う心、募る想い」




