第十六話 突然の知らせ
その知らせは、雷鳴のように街を駆け抜けた。
「アダマス国王、崩御──!」
誰かの叫びが、石畳の通りに響き渡る。
私はその場に立ち尽くしたまま、耳を疑った。ジェイド兄様も目を見開いている。
胸の奥がずしりと重くなり、世界が遠のく。
(お父様が……)
「……嘘よ……そんな……」
声が震えた次の瞬間、足元から力が抜けた。
倒れかけた体を、強い腕が支える。
「アリア!」
ジェイド兄様の声。
抱きとめられた温もりに、張り詰めていたものが一気に崩れ、涙が溢れた。
外套から首を出したヘリオスが、揺れる金の瞳で見上げている。
(お父様……どうして……)
嗚咽が喉を詰まらせる。
ジェイド兄様は黙ったまま私を抱き上げると、宿の一室へ運び入れた。
扉が閉じられると、ようやく声が落ち着く。
ベッドの上にそっと降ろされた私は、まだ震える指先で外套を握りしめていた。
「アリア、少し休め」
兄様の低い声に、私は小さく頷くしかなかった。
視界の端で、ヘリオスがじっとこちらを見つめている。金の瞳に揺れるのは、言葉にしない哀しみだった。
「……私は、城に戻らねばならない」
ジェイド兄様はそう言い、ヘリオスへ視線を向ける。
「アリアも連れて行く」
「ジェイド兄様……」
ジェイド兄様の唐突な言葉に、部屋の空気がぴんと張り詰めた。
ヘリオスが低く唸り、金の瞳が細められる。
「城には危険な奴がいるんだろう。そんな所に、アリアを連れて行くのか」
ヘリオスの言葉に、ジェイド兄様は頭を押さえ、深く息を吐いた。
「そうだな……やはり駄目だ。落ち着いてから、アリアが城に戻れるようにしよう。……ヘリオス、アリアのことを頼む」
短く言い残し、ジェイド兄様はフードを深く被り直すと、外套の裾を翻して出て行った。
部屋に静寂が落ちる。
「アリア……」
「ヘリオス……お父様が……」
五歳のあの日までしか、お父様との温かな想い出はない。記憶の中のお父様は、いつも冷たい紅い瞳をしていた。城を後にしたあの日も……。
それでも、深い悲しみと言葉に表せない喪失感が胸を支配する。涙が止めどなく溢れ、頬を幾つも伝い落ちる。
悲しそうな瞳のヘリオスが、そっと涙に濡れる頬に寄り添ってくれる。
私はその小さな体を抱き締め、泣き続けた。
* * *
「陛下は?!」
「プレーナイト公爵子息!」
王城に駆け付けたジェイドの瞳に写ったのは──
「陛下……」
深紅の寝台の上に、アルマンダインは横たわっていた。
彫刻のように整っていた顔は蒼白くやつれ、閉じられた瞼は人形のように動かない。
「まだ陛下はお若い……一体、何があった」
「……明け方、王妃殿下がお気付きになられたときには、既に遅く……」
そう言って、国王付きの侍従が瞼を伏せる。その口から、アルマンダインが亡くなった理由は語られなかった。
(アデライド……恐らく、あの女が何か……)
「あら、プレーナイト公爵子息……早速来てくださったのね」
「王妃様……」
ジェイドが振り返ると、漆黒のドレスを纏い美しく微笑むアデライドの姿。
(この女、笑っている……?!)
ジェイドの背筋を寒気が襲い、胸の内で怒りと困惑が綯い交ぜになる。
「わたくしはもう、王妃ではなくなりましたわ……それとも、また王妃にしてくださるのかしら……」
妖しく微笑んだアデライドが、その魅惑的な体をジェイドに寄せる。
「何を……!」
「次の国王はあなたでしょう? ジェイド様……わたくしを、傍に置いてくださらない?」
甘く囁かれた耳を疑うような言葉に、ジェイドの翡翠の瞳が怒りに染まる。だが、彼は感情を抑えるように言葉を飲み込んだ。
視界に映る白い谷間に揺れる紅い宝石が、妖しい光を放っている。
(……違う、私は……)
押し付けられた体から離れようとしたが、宝石のような紅い瞳に見つめられ、意識の奥が紅く染まっていく。
「ジェイド様、わたくしを見て……」
紅い瞳で見上げながら、アデライドは白く細い手首をジェイドの首に絡ませる。
目を逸らしてすぐにでも離れたいはずなのに、ジェイドの足は床に縫いつけられたように動かなかった。柘榴石の美しい瞳に射抜かれたように、身動きひとつ取れない。
(アリア……)
その時、彼の脳裏に浮かんだのは、妹のように大切に想う従姉妹の姿。
だが、頭の奥が次第に熱くなり、紅い光が視界を覆い、その思考を霞ませていく──
気付けば、翡翠の瞳は夢に溺れるかのように、胸元に寄り添う美しい女を見下ろしていた。
「ふふ……やっと、掴まえた」
そう囁いたアデライドの紅い唇が、ゆるりと弧を描いた。その白い胸元には、血のように紅く煌めく宝石が揺れていた。
* * *
「アリア……」
ヘリオスは、泣きつかれて眠りについたアリアを、静かに見下ろしていた。涙の跡が残る頬に銀の髪がかかっていて、それに手を伸ばす。
「……」
金の瞳に映るのは、尖った爪の付いた、白く小さな竜の手。
不意に、倒れかけたアリアを受け止め、抱き上げたジェイドの姿が浮かぶ。
(俺も、人間だったら……)
浮かんだ考えに僅かに浸ると、ヘリオスは慌てて首を振る。
「俺は、竜だ……人間じゃ、ない……」
ヘリオスはそう小さく呟いて、白い瞼を少しだけ伏せる。隠された金の瞳は、切なげに揺れていた。
爪が当たらぬよう、そっと銀の髪を頬から上げてやると、ヘリオスはアリアの傍らに丸くなった。
丸い金の瞳で、目元を赤く腫らして寝息を立てるアリアを見つめる。
(アリア……俺、お前のことを守るよ。絶対に……)
ヘリオスはそう胸の内で誓うと、静かに瞼を閉じた。
まるで、その先に訪れる嵐を知らぬかのように──
* * *
泣き疲れた私は、いつの間にか眠っていたらしい。
目を薄く開けると、窓から射す月明かりがぼんやりと室内を照らす。
枕元には、寄り添うように丸くなったヘリオスが眠っている。傍らですやすやと寝息を立てる小さな姿に、胸がじわりと温かくなる。
(ヘリオス、傍にいてくれてありがとう……)
私はヘリオスの寝顔に微笑みかけて、再び微睡みに落ちる。
──その時だった。
ふいに、部屋の空気がわずかに冷たくなる。
瞼を開けると、薄紅の光がじわじわと床を這い、壁を伝い、天井にまで広がっていくのが見えた。
魔力の気配に包まれた室内は、まるで水の中に沈んだかのように静まり返る。
扉も窓も開いていないのに、影が部屋の中央に立っていた。
淡い月明かりに浮かび上がったその姿は──
「……兄様……?」
寝ぼけた声で名を呼ぶ間もなく、温かい腕に抱き上げられる。
眠気に重たい瞼が閉じる前、紅い魔力の揺らめきが視界を染めた。
体を包む温もりが、遠くなっていき、私の意識はそこで途切れた。
寝台で丸くなり深く眠るヘリオスは、その全てを知らず、静かに眠り続けていた。
次回、第十七話「消えたアリアネル」




