第十二話 旅立ち
洞穴に寄りかかり微睡んでいた私。薄く目を開けると、傍らに小さな白い竜がいた。
「……ヘリオス?」
丸い金の瞳がこちらを見上げ、ぱちぱちと瞬いている。
「城下の様子が心配なんだろう。俺もついて行ってやる」
洞穴に、少し甲高い愛らしい声が響いた。
小さな体で胸を張る姿が、可愛らしくて思わず口元が緩む。
「ヘリオス……その姿は、どうしたの?」
「いつもの姿では、傍にいられないだろう。この大きさなら、街でもそばにいられると思って」
少し恥ずかしそうに細い尻尾を揺らすヘリオス。
あまりに愛らしい姿に、つい手を伸ばして頭を撫でると、ぴくりと体を震わせる。
「な、何をする!」
「ありがとう、ヘリオス……。あなたが一緒にいてくれると心強いわ」
「……当然だ。……お前のことは、俺が守ってやる」
そうぶっきらぼうに答えたものの、金の瞳は少し柔らかく光っていた。
* * *
夜が明けた。
竜の谷はいつも通り静かな朝を迎えた。
白い靄が漂い、遠くで鳥の声が響いている。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、心も少し澄んでいくようだった。
いつものようにヘリオスが用意してくれた黒パンを齧り、果実をふたりで分け合う。
私は、街で買った硬貨の入った革袋を首から下げ、薄茶の外套を羽織り、目深にフードを被る。
ヘリオスは少し離れた岩の上に座り、じっとこちらを見ていた。
「準備、できたわ」
そう言うと、ヘリオスは小さく頷く。
「行くぞ」
谷を振り返る。
竜の谷で過ごした、短くも楽しかった日々。そしてヘリオスと初めて出会ったあの日を思い出す。
胸の奥で、不安と決意が入り混じる。
次の瞬間、白い光がぱっと広がり、ヘリオスの体が伸び上がった。
しなやかな尻尾が地面を払うと、あっという間に大きな成竜の姿になる。
白金の鱗が朝日に照らされ、まばゆい光を放った。
「乗れ。……落ちるなよ」
差し出された前脚に手を掛け、背に跨る。
ひやりとした鱗の感触が、緊張と同時に不思議な安心を与えてくれる。
大きな翼が広がった。
風が巻き起こり、砂がさらさらと舞い上がる。
──風が変わった。
次の瞬間、体がふわりと浮き上がる。
谷の黄土色の地面が遠ざかり、切り立った断崖が足元で流れていく。
「……わぁ……!」
思わず声がこぼれた。
空は澄み渡り、雲の切れ間から朝日が差し込む。遠くの山並みが青く連なり、街の赤茶色の屋根が小さく見える。
(綺麗……)
頬を撫でる風は冷たいのに、心はどこか解き放たれていくようだった。
「しっかり掴まっているんだぞ」
前方から低い声が掛かる。
慌てて首の根元にしがみつくと、鱗の奥からくすくす笑うような気配が伝わってきた。
「……ヘリオス、また笑ったでしょう」
「笑ってない」
少し楽しそうな声色に、私の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
私は、冷たい風を受けながら、その白い首に抱きついた。
* * *
空をしばらく飛び続けた頃、街道が見えてきた。
けれど、街道の先で何かが蠢いているのが見える。
「あれは……」
「大変! 人が襲われているわ!」
魔物の群れの影に、逃げ惑う人影が見える。
ヘリオスが低く唸り、翼を少し傾けてゆっくりと降下していく。
着地と同時に、砂煙の向こうから獣の咆哮が響いた。
「きゃっ……!」
思わず後ずさる私の前に、灰色の毛並みをした狼のような魔物が飛び出してきた。魔物の群れの向こうに、大きな荷を背負って地面に蹲る人の姿が見える。
私たちに向き直った魔物たちの赤い瞳が、ぎらりと光った。
「下がっていろ」
ヘリオスの声が鋭く響く。
次の瞬間、白い光が瞬き、小さな体へと変わったヘリオスが地面を蹴る。
小さな姿のまま、鋭い爪が閃き、迫り来る魔物を一撃で薙ぎ払った。
「……!」
狼型の魔物が地面に倒れ伏す。その背後からさらに二匹、そしてゴブリンのような小鬼が数匹飛び出してくる。
ヘリオスは宙に舞い上がり、口を大きく開いた。
──目一杯開けられた小さな口から、光の奔流が放たれる。
まばゆい閃光が街道を照らし、魔物たちは声を上げる暇もなく消し飛んだ。
残ったのは、風に舞う灰だけだった。
「……本当に、強いのね……」
呆然と見つめる私に、ヘリオスがちらりと振り返る。
「竜だからな」
ぶっきらぼうな声。
けれどその金の瞳は、どこか誇らしげに輝いていた。
「あ、ありがとうございます! おかげで助かりました」
大きな荷を背負った行商人の男性が、こちらに転がり出てくると地面に膝をついた。私たちを拝むように何度も頭を下げている。
「無事で、本当に良かったです……お怪我はありませんか?」
「おかげさまで何ともありません……お嬢さんは、魔物使いの方ですか?」
「えっ……」
視線を辿ると、男性の視線が宙に浮くヘリオスを見つめている。
「竜種の魔物ですよね……小さくて可愛いなぁ。初めて見ましたよ」
「………」
ヘリオスは見るからに不満げな表情を浮かべている。
「お嬢さん。ささやかですが、何かお礼をさせてください」
「それなら、食い物をくれ」
間髪入れずにそう言ったヘリオスに、行商の男性が目を丸くする。
「喋った?!」
唖然とする男性を前に、慌ててヘリオスを捕まえる。小さな体は想像よりずっとあたたかくて、暴れるたびに胸元で心臓がとくとく鳴った。
「すみません! この子、口が悪くて……」
「何だと、アリ──」
ヘリオスの口を塞ぎながら抱き締める。
「喋る魔物もいるんですね!」
「俺は魔物じゃ──」
感心したように目を輝かせる男性に苦笑すると、じたばた暴れるヘリオスをぎゅっと抱き締める。揺らしながら、まるで子どもをあやすようにその背をさすると、ヘリオスは腕の中で諦めたように大人しくなった。
行商の男性が解いた荷から、干し肉や干し果物を分けてもらい、お礼を言ってから街道を北へと向かう。
「……アリア」
「さっきはごめんね。……でも、“魔物じゃなくて、竜です”なんて、言えないでしょう?」
私の言葉に、ヘリオスは少ししゅんとすると、肩へふわりと止まる。
「飛んだほうが速いぞ」
「わかってるわ。でも、ちらほら人がいるでしょう」
街道には、旅人や行商などの人影がまばらに歩いている。
「じゃあ……あの森に行こう」
辺りを見回していたヘリオスは、少し離れた東にある森を見つめている。
「アリアも、休んだ方が良い」
「ありがとう、ヘリオス」
「人間は、弱いからな……行くぞ」と、小さな白い翼をパタパタさせて、ヘリオスが先導する。
私は笑って、彼の後に続いた。
* * *
東の森に着いた。
日が傾き始め、川にほど近い森の端で野営をすることになった。
焚き火の傍で、持ってきた黒パンを温め、もらったばかりの干し肉と干し果物を並べる。
ヘリオスは小さな姿のまま干し肉を囓り、焚き火のそばに座ってじっと私を見ている。
「ほら、これも食べる?」
小さく千切った干し果物を差し出すと、ヘリオスは一瞬迷ったあと、ぱくりと口に含んだ。
金の瞳が少し丸くなり、しばらくして「……悪くないな」と呟く。
「よかった」
思わず笑うと、ヘリオスが尻尾をぱたぱたと揺らした。
やがて疲れがどっと押し寄せ、私は焚き火の傍で毛布に包まる。
瞼が重くなるのを感じながら、ぽつりと呟く。
「……ヘリオス、一緒にいてくれて、ありがとう……」
ヘリオスは黙ったまま、少し考えるように空を見上げ、少し大きめの子竜の姿に変わった。竜の谷で見慣れていた姿だ。
彼は、焚き火の火の粉が翼に落ちないよう、さりげなく体をずらした。
そして、そっと私の背を支えるように身を寄せ、温かな体温を分けるように丸くなった。
(……あったかい……)
その温もりに包まれて、私の意識はゆっくりと沈んでいった。
「アリア……眠ったのか……」
焚き火に照らされて、小さく囁いたヘリオスの金の瞳が静かに瞬く。
眠るアリアネルを見つめ、ヘリオスは小さく息を吐いた。
(守ると決めたんだ……過去のことは、俺とアリアには、関係ない……)
やがて、彼も静かに目を閉じた。
* * *
夜明け。
鳥の声に目を覚ました私は、焚き火の残り火を見つめながら伸びをした。
「おはよう、ヘリオス……よく眠れた?」
体を起こしたとき、遠くから馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
ヘリオスが小さな姿へ変わり、私の前にふわりと飛び上がる。
(誰か……来る?)
森の小道の向こうから、馬に揺られて外套を纏った人影が現れた。フードを目深に被っていて、顔はほとんど見えない。
思わず身構える私を庇うように、ヘリオスがふわりと飛び上がった。
だが、木々の間から差し込む朝日に、フードに隠されていた顔が照らされる。その顔を見て、息が止まりそうになった。
「……ジェイド兄様……!?」
「アリア! ……こんなところにいたのか」
「無事で、本当に良かった」と安心したように微笑み、ジェイド兄様が馬から降りる。
思わず立ち上がった私の前で、ヘリオスが小さく唸り、じっとジェイド兄様を見据えた。
「アリア、そいつは誰だ?」
ヘリオスの姿と声に、翡翠色の瞳が見開かれる。
「アリア……それは、一体……」
「あのね、ジェイド兄様──」
こうして──アリアネルとヘリオス、そしてジェイドの旅は、思わぬ再会から始まることとなった。
再会の朝焼けはまだ淡く、三人の行く末は、誰にもわからなかった。
次回、第十三話「小さな竜と二人の旅」