第十一話 近づく心と揺れる想い
白い竜の背に揺られながら、私は谷へと帰ってきた。
夕暮れの風は冷たく、頬を撫でるたびに胸が少しずつ落ち着いていく。
下には黄土色の断崖が広がり、暮れなずむ空を背景に、ヘリオスの翼がゆったりと弧を描いた。
「しっかり掴まっていろ」
低い声が背中越しに響く。
思わず頷き、首の根元にしがみつくと、白金の鱗がひんやりとして心地よかった。
谷の中央に降り立つと、ヘリオスは翼を畳んで私を降ろした。
背から降りると、足元の砂をぎゅっと踏みしめ、思わず深く息を吐いた。黄土色の砂がさらさらと靴の先から流れ落ちる。荷物を抱えて洞穴へと歩み寄る。
「ほら、温かいうちに食べましょう」
包みから取り出した黒パンと果実のパンを差し出すと、ヘリオスはちらりと金の瞳を動かして器用に受け取る。
その場に腰を下ろすと、大きな口が開き、一口で黒パンを食べてしまった。
(もうなくなってしまったわ……!)
思わず目を丸くして見ていると、果実のパンも一口で呑み込んだヘリオスがわずかに目を伏せる。
「何だ」
「もっと、買ってくるべきだったわ……」
「ほら、もっと食べて」と持っていた黒パンと果実のパンを半分に割って差し出した。
「……別に、欲しかったわけじゃない」と、ヘリオスは視線を逸らした。
だが、そう言いつつも、差し出した黒パンを食べ始めるヘリオス。今度は、小さく半分に割って口に運んでいる。
その喉が動くたび、胸がほんのりあたたかくなった。
「美味しかった?」
「……悪くはなかった」
パンを食べ終えたヘリオスを微笑んで見ていると、金の瞳が真っ直ぐにこちらを見返す。
少しの沈黙が流れて、ヘリオスが静かに口を開いた。
「お前は、何故……こんなところに来た」
呟くように唐突に問われ、私は手を止める。
言葉を選ぶように、ゆっくりと答えた。
「国で……魔物の被害が増えて、私のせいだと言われたの。竜の怒りを鎮めるために、この谷に行くように言われて……」
私の言葉に、ヘリオスが険しい表情になる。
「前も言ったが……俺は人間に怒ってなどいないし、魔物を操ることもできない」
低い声が静かに響く。胸の奥がきゅっと痛んだ。
「第一、誰がお前にそんなことを……」
「……私の、お父様よ」
そう告げると、ヘリオスは黙り込む。
金の瞳がわずかに揺れた。
「……ここで待っていろ」
短く言い残し、ヘリオスは空へ舞い上がった。
* * *
どれくらい経っただろう。
戻ってきたヘリオスは、大きな前脚にたくさんの果物を抱えていた。果物の鮮やかな色が、白い鱗に映えている。
(私のために、持ってきてくれたの……?)
果物を落とさぬよう大事そうに抱え、よたよたと二足歩行で歩いてくる竜の姿に、思わず噴き出してしまう。
「そんなに食べられないわ……!」
思わず笑うと、目尻に涙が滲む。胸がとても温かくて、不思議な気持ちだった。
ヘリオスは一瞬、困ったように瞬きをした。
「これも……お前にやる」
ヘリオスは少し照れたように体を傾け、抱えた果物の陰から一輪の白い花を取り出した。手渡された花は、ほのかに甘い香りがした。
「若い娘が、元気の出るものだと聞いた」
「……ありがとう」
花を受け取ると、胸が熱くなる。ヘリオスの優しさが嬉しくて……。
それでも、不安は拭えなかった。
「……どうすれば元気になるんだ。何がそんなに悲しい」
ヘリオスの声は、どこか焦りを含んでいた。
「この国が心配なの。……魔物が増えて、皆怯えて暮らしてる。城には戻れないけれど、城下の人たちが……お父様のことも、心配で……」
私が言葉を詰まらせると、ヘリオスが低く唸った。
「お前は……城から、来たのか」
頷くと、金の瞳がわずかに見開かれる。
「お前の、父親の名は?」
「アルマンダイン・アダマス。この国の王よ」
沈黙のあと、ヘリオスは瞼を伏せた。
「ヘリオス……?」
黙り込んでいたヘリオスが、瞼を伏せたままで静かに口を開く。
「少し、風に当たってくる」
ヘリオスは、「何かあれば、俺の名を呼べ」と短く言い残し背を向けると、白い翼をはためかせて空へと舞い上がった。
断崖の上に消えていく背中を、私はただ見送った。
* * *
白い竜が断崖の間をふわりと飛び、土埃を巻き上げながら頂上へ降り立った。
金色の瞳が見つめるのは、はるか遠く、北の地。殆ど見えはしないが、この国の王都がある辺りだった。
「アダマス……」
ヘリオスはわずかに苦しげな表情を浮かべた。澄んだ金の瞳は揺らいでいる。
「あいつは違う……アリアは、関係ない……」
閉じた瞼に浮かんだのは、傷を癒してくれた温かな手。優しい声と、首にしがみついた温もり。そして、白い花を手にし、涙を滲ませて嬉しそうに微笑んだ顔──
(──アリアは弱い。俺が守ってやらないと、すぐにでも死んでしまうだろう……)
冷たい風が吹いて、土埃が舞い上がる。
風がやみ、開かれた金の瞳には、強い決意が宿っていた。
この先に、何が待ち受けているのか──アリアネルも、ヘリオスも、まだ知らなかった。
次回、第十二話「旅立ち」




