第十話 アリア、街へゆく
アリアが竜の谷に来て、ひと月が経った──
朝靄が掛かる谷に、白い竜の長い影が伸びていた。
ヘリオスは谷の中央に立ち、しなやかな体をぐっと伸ばすと、みるみるうちに大きな成竜の姿へ変わっていく。光を弾く白金の鱗が朝日を受けてまばゆく輝き、風が翼の膜をふわりと揺らした。
「……大きい……!」
私は思わず息を呑んだ。昨日まで見慣れていた大きさの何倍もある、その堂々たる体格に圧倒される。
「いつもは動物たちを怖がらせないよう、小さくなっているだけだ……」
ヘリオスが少し鼻を鳴らす。
私はくすりと笑い、胸がほんのり温かくなった。
「ふふ……優しいのね」
「……勝手に思えばいい」
そっけない声と裏腹に、金の瞳はどこか柔らかかった。
「乗れ。落ちるなよ」
差し出された前脚に手を掛け、恐る恐る背に跨る。
思ったより鱗は滑らかで、冷たいのに心地よい。
両手で首の根元にしがみつくと、ヘリオスの大きな翼が左右に広がった。
──風が、変わった。
次の瞬間、黄土色の地面が遠ざかる。
土色の断崖がぐんぐん下へと流れ、冷たい空気が頬を打った。
思わず声が零れる。
「……わぁ……!」
空は澄み切り、朝靄の中から山々の稜線が浮かび上がる。
はるか遠くには街の屋根が、赤茶色の斑点のように広がっていた。
どこまでも続く薄青の空に、胸がきゅっと締め付けられる。
(世界は、こんなに広いのね……)
頬を撫でる風は冷たいのに、心はどこか解き放たれていくようだった。
「景色に見惚れて落ちるなよ」
前方から低い声が掛けられる。
慌ててしがみつくと、鱗の奥からくすくす笑うような気配が伝わってきた。
「……ヘリオス、笑ったの?」
「笑ってない」
白い頰がほんのわずかに赤くなっているように見えて、私の口元にも笑みが広がった。
森の上空に近付くと、ヘリオスがゆっくりと降下する。朝露を含んだ葉の匂いがふわりと舞い上がった。
ヘリオスの白い翼が大きくはためき、木々の隙間から差し込む光が鱗に反射してきらめく。
やがて、木立の間の小さな空き地に舞い降りると、草の上の雫が一斉に跳ねた。
驚いた鳥たちが羽音を立てて飛び立ち、森は一瞬、静寂に包まれる。
ゆっくりと背から降り立つと、草の感触を足で確かめながら息を整えた。
ヘリオスは白い翼を畳み、森を見回してから低い声で言った。
「ここなら人間に見られん。……俺はここで待つ」
頷くと、ヘリオスの金の瞳がじっと見つめてくる。
「気を付けろよ」
低く付け加えられた言葉に、胸がじんと温かくなった。
「ありがとう、ヘリオス」
そう言って微笑むと、ヘリオスはわずかに尾を揺らして視線を逸らした。
「……さっさと行け」
背を向けるヘリオスを見上げ、深く息を吸う。
そうして私は、初めての街への一歩を踏み出した。
* * *
「見て! あれ、銀の髪よ……」
「まさか……銀じゃなくて灰色だろう」
思わず、髪を手繰り寄せる。
すれ違う人の視線が集まる。耳打ちし合う女性たちや、じっと見つめてくる子どもを視界に入れないように俯くと、私は早足で歩いた。
だが、頭から土埃を纏った見窄らしい姿のせいか、誰からも声はかけられなかった。
商店街の外れで買い取りもしているという商店を見つけ、持ってきた薬草と鉱石を木の台の上に並べる。薬草は谷へ来る動物たち、鉱石はヘリオスがくれたものだった。
丸眼鏡にルーペを翳した店主の榛色の瞳が輝いた。
「これは良い品だね! 合わせて三万リトスで買い取ろう」
(三万……リトス?)
物価の目安が全くわからず、近くにある品物に目をやる。
「あの……そこにある石鹸はおいくらですか?」
「二百リトスだよ!」
(石鹸ひとつで二百リトス……他にも色々買えそうね)
店内を見回し、薄茶の外套や女性物の生成色の質素なドレス、革袋が目に入る。
「それと、そこの外套とドレス……その袋もください」
「合わせて五千二百リトスになるよ。差し引いた分を袋に入れようか?」
「お願いします。……あ、外套は着ていきます」
店主から、硬貨の入った革袋と石鹸とドレスの入った包み、薄茶の外套を受け取る。
(初めて、買い物をしたわ……すごく楽しい!)
買ったばかりの薄茶の外套を纏い、硬貨の入った革袋を首から下げて懐にしまうと、包みを抱えて店を後にする。
(食べ物も買って帰りましょう……ヘリオスも食べるかしら)
薄茶のフードを被り歩いていると、焼き立てのパンの匂いが漂ってくる。
「美味しそう……」
思わず声を漏らしていた。
「おや、可愛らしいお嬢さん、お一ついかがかな」
店主から声を掛けられ、店先へと足を向ける。
(これ、ヘリオスがいつもくれるパンと同じだわ!)
ヘリオスに助けてもらったあの日の朝から、毎朝枕元に置かれている黒パンと同じものが店先に並んでいて、笑みが零れる。
こちらをそっとうかがっていた金の瞳を思い出し、心がじんわり温かくなった。
「これを二つ……それと、そこの果実の入ったパンも二つください」
「はいよ! 四百リトスだよ」
(四百……どれかしら……)
革袋の中を覗くもよく分からず、とりあえず銀色の硬貨を四枚差し出す。
「お嬢さん、これは多すぎるよ!」
「どうしたんだい」
わずかに戸惑いの表情を浮かべる店主の後ろから、女性が顔を出す。
「おや、お嬢さん。これだと四千リトスになっちまうよ。百は銅貨だよ」
「あ、ありがとうございます」
慌てて銀貨を革袋に仕舞うと、銅貨を四枚取り出す。
「はい、丁度だね。毎度あり!」
笑顔の店主から、パンの入った包みを受け取る。
「あの……金色の硬貨は、いくらになりますか?」
「……金貨一枚で、一万リトスだよ。……何だか、最近よく来るお客さんを思い出すねぇ」
薄く笑って息を吐いた店主の言葉に、女性が声を上げて笑った。
「ああ、毎晩遅くに来るあの綺麗な顔の兄さんだね! 黒パンひとつ買うのに、金貨を一掴み出してきたのはたまげたねぇ!」
(黒パン……)
再び、ヘリオスがいつも用意してくれる黒パンを思い出す。
女性は余程おかしかったのか、笑い続けている。おかしそうに笑いながら、空を見上げるようにぽつりと呟いた。
「でも……あの人、どこから来てるんだろうねぇ」
その言葉に、胸の内がわずかにざわめく。
「おばちゃん、おはよう! パンを買いに来たよ!」
不意に、背後から愛らしい声が響く。
振り返ると、後ろから家族連れの客がやってきていた。
「女将さん、いつものを頼むよ!」
「あいよ! お嬢さん、また買いに来てね!」
「はい。……女将さん、ありがとうございます」
(お店にいる女性を、“女将さん”と呼ぶのね……覚えることが、たくさんあるわ)
店主と女将さんに頭を下げると、パン屋を後にする。
フードを目深に被り辺りを見回すと、質素な生活の中で穏やかに暮らしている街の人々の姿が目に入る。
(ここは、魔物の被害は出ていないみたいね……)
笑顔で駆け回る子どもたちの姿に安堵するも、魔物の襲撃に怯えて神殿へ押し寄せる城下の人々の姿が思い出される。
そして、変わってしまったお父様のことも……。
(忘れないと……もう、私には何も出来ないもの)
二つの包みをぎゅっと抱え直すと、私は重い足取りで街を出る。
街外れの森でヘリオスが待ってくれていると思うと、少し心が軽くなる気がした。
森に戻ると、ヘリオスが翼を休めて待っていた。金の瞳がちらりとこちらを見て、持っている包みに視線が留まる。
「……買えたのか」
「ええ。おかげで色々買えたわ。黒パンと果実のパンも買ってきたのよ。ヘリオスと一緒に食べたくて」
微笑んで包みを差し出すと、ヘリオスは小さく鼻を鳴らした。包みから香ばしい黒パンと果実の甘酸っぱい香りが広がる。
柔らかい光を宿す金の瞳に、胸の奥がじんわりと満たされるのを感じた。
尾がわずかに揺れたのを見て、思わず口元が綻ぶ。
「ヘリオスも一緒に食べてくれる?」
「……どうしてもと言うなら」
ヘリオスの言葉に小さく笑うと、金の瞳がふいと逸らされる。
(あなたが優しいって、知ってるわ)
その白い背に乗ると、首にそっとしがみつく。
「しっかり掴まっていろ」
首に回した腕に力を入れると、ヘリオスの白い翼が大きく開いた。
振動も感じさせずにふわりと飛び上がると、森と街があっという間に下へと流れていく。
頬にあたる風が心地よく、胸の奥がほんのり温かくなった。
「ありがとう、ヘリオス」
白い竜はわずかに首を揺らし、谷へ向けてまっすぐに飛ぶ。
こうして、アリアネルの竜の谷での日々は、少しずつ広がっていった。
だが、谷へと戻る風の中、アリアネルの胸の奥に、靄のような不安だけが残っていた──
次回、第十一話「近づく心と揺れる想い」




