第九話 竜の谷で始まる日々
遠くから、鳥の鳴き声がかすかに聴こえてくる。
肌に触れる岩肌はひんやりと冷たく、湿った土の匂いがかすかに漂っていた。
遠くから、まだ小雨が滴る音が微かに届く。
かすかな香ばしい香りに、瞼が震えた。
重たい体で寝返りを打つと、体の節々が軋むように痛んだ。だが、雨に打たれて冷え切っていたはずの体は、不思議とそう寒さを感じてはいなかった。
(ここは、竜の洞穴……?)
ゆっくりと起き上がると、傍らの岩の上に黒パンと小さな木の器が置かれているのに気付く。
木の器を覗くと、青臭い草の匂いがほのかに鼻をかすめた。
(これは……薬草の煎じ汁?)
まだぼんやりする頭で辺りを見回すと、洞穴の入り口に白い影が見えた。
白い竜は、まるで洞穴を守る門のように入り口に横たわっていた。鱗に朝の光が差し込み、淡い白金色の光沢が揺らめく。
竜は白い尾を巻き、眠っているように見えたが、片方の金の瞳がゆるりと開き、こちらを確かめるように光った。
(……あの竜が、置いてくれたの?)
胸がじんわりと熱くなった。
少しだけ固い黒パンを齧り、冷めた煎じ汁を流し込むと、体が温まり始める。
私はそっと立ち上がり、洞穴の入り口へ歩み寄る。
「……ありがとう」
振り向いた金の瞳が、わずかに瞬いた。
白い竜は小さく鼻を鳴らすと、そっけなく言い放った。
「別に……ここで死なれたら、迷惑なだけだ」
その言葉に、一瞬だけ胸がきゅっと痛んだ。
けれど、竜がわざわざパンと煎じ薬を用意してくれたことと、こうして言葉を返してくれたことが嬉しくて、思わず頬が緩む。
「あなたは、ずっとここに一人でいるの?」
暫しの沈黙。尾がかすかに揺れたあと、低い声が返る。
「昔は仲間が少しいた。……今は、俺だけだ」
その声音には、寂しさが滲んでいた。
この荒涼とする谷で独り過ごしてきた竜を思い、胸が痛んだ。
「そう……私も、一人になってしまったのよ」
私の言葉に、白い竜は長い首をわずかに傾ける。
「アリアネルと言ったな……まだ、ここにいるつもりか」
「駄目かしら?」
再び、暫しの沈黙。
澄んだ金の瞳が、じっと私を見つめる。
「……好きにしろ」
言い捨てるようにそう言うと、竜は立ち上がり、外の光の中へと出ていった。
その背を見送ったとき、私は彼の前脚に赤黒い傷跡があるのに気づいた。
「……あ」
慌てて外へ出て駆け寄ると、竜が怪訝そうに振り返る。
「何をする気だ」
「助けてくれたお礼よ。じっとしていて」
恐る恐る前脚に触れると、ひんやりとした鱗の下から鼓動が伝わる気がした。
祈るようにそっと目を閉じると、手のひらからじんわりと温かな光が溢れる。
傷口が塞がっていくにつれ、痛みが和らいでいくのを竜も感じたのか、短く息を吐いた。
金の瞳が瞬き、こちらを見つめてくる。
「……もう、痛くはない」
「よかった……」
「お前は、聖女なのか?」
その言葉に、言葉が一瞬詰まる。
「……お母様が、聖女だったの」
「そうか、その力を受け継いだんだな……助かった」
その言葉に私が微笑むと、竜はじっとこちらを見つめた。
「お前は……俺が怖くはないのか」
「初めは、少し怖かったわ。でも……それよりも、綺麗だと思ったの」
金の瞳がわずかに揺れた。
私は続ける。
「それに、あなたは優しいでしょう?」
竜は鼻を鳴らし、照れ隠しのように視線を逸らした。
「ええと……“白い竜”さん」
「ヘリオドールだ。……“ヘリオス”で良い」
「ヘリオス……素敵な名前ね。私のことも、“アリア”と呼んで」
ヘリオス──“太陽”の意味を持つ呼び名が、金の瞳によく似合っていると思った。
ふっと笑みを零した私に、竜は不思議そうな顔をした。
「お前……変な奴だな。人間は皆そうなのか」
「わからないわ。……私は、私だから」
私の答えに、ヘリオスはしばらくじっと私を見て、やがてかすかに目を細めた。その横顔は、ほんの少しだけ柔らかく見えた気がする。
そして背を向けると、再び谷の奥へ歩いて行った。
冷たい風が洞穴の奥まで吹き抜ける。
けれど、胸の奥は不思議と温かかった。
(少し……仲良くなれたかしら)
こうして、追放された王女アリアネルと人間嫌いで孤独だった白い竜の、不思議な暮らしが始まった。
* * *
アリアが竜の谷で過ごすようになって、一週間が経った。
毎朝、アリアが目覚めると、少し固くなった黒パンが二つと、いくつかの果物が枕元に置かれている。彼女が礼を言う度に、ヘリオスは小さく鼻を鳴らしたり、顔をふいと逸らした。
そっぽを向いた竜の横顔が、少しだけ照れているように見える気がして、アリアはいつも微笑んだ。
ふたりは、毎晩一緒に洞穴で眠った。
硬い寝床に慣れないアリアのため、ヘリオスがどこからか香りの良い大量の干し草を運び入れ、その上に敷布を掛けてくれた。アリアは毎晩、その上に丸まって眠るようになった。
眠るアリアがくしゃみをした日の翌日。ふらりといなくなったヘリオスが、薄手の毛布を咥えて戻ってきた。
彼はいつも、「ここで死なれたら迷惑だからな」と低く呟いたが、アリアは彼が優しいのだとわかっていた。
そうして過ごすうち、竜の谷を鳥や小さな獣たちが訪れるようになっていた。皆、アリアの手によって癒されていき、仲間を呼ぶようになったのだ。
「これを私にくれるの? ありがとう」
ある日、小さな栗鼠が谷の奥から顔を出し、アリアの足元に転がすように薬草と木の実を置いていった。
その背後には、枝にとまった小鳥がこちらを見て首を傾げている。
以前は竜であるヘリオスを恐れて近づこうとしなかった谷の周辺に住む生き物たちが、アリアを介して少しずつ集まり始めていた。
アリアと谷に集う小さな命と並んで過ごすうち、白い竜の鋭かった眼差しも、いつの間にかほんの少し柔らかくなっていた。
そしてアリアも、この谷で過ごす日々を少しずつ好きになっていった。
次回、第十話「アリア、街へゆく」