第4話 妻の想い、夫の決意
「……うっ……おえぇぇぇ!」
心に深く刻まれたトラウマに、俺はその場で嘔吐した。
「達夫さん!」
「ざわるなっ!……おええええぇぇ……」
慌てて寄ってきた恵子の手を振り払い、嘔吐し続ける俺。
恵子は俺の姿にまた号泣し始めた。
「達夫、すまん! その写真のここをよく見てほしい。辛いだろうが頼む!」
もう写真は見たくなかったが、俺は口から吐瀉物が混じった涎と鼻水を垂らしながら、尊が指差す部分に目を向けた。パーカーのフードを被り、サングラスをかけた女性らしきひとが写っていた。
「ご……ごれがなんだ……」
「いいか、彼女は俺の妻だ」
意味が分からない。不倫の現場になんで尊の奥さんがいるんだ?
恵子が震える声で説明を続ける。
「こ、小林さんはね、達夫さんから野球を奪ってしまったことにものすごく責任を感じてくださっていて……達夫さんのプライドを傷付けないかたちで、何か支援はできないかって……私に相談してきたの……」
驚く俺に尊も続けた。
「もちろん、二人きりで会うなんて絶対ダメだから、俺は妻を連れて三人で会食をしたんだ。ところが、妻は芸能人ということもあって変装をしていて……週刊誌側もそれに気が付かなかったらしいんだ……」
「その記事が出て、小林さんは周りの方やネットで、ものすごく叩かれて……」
「『ひとの心がない鬼畜』だとか『プロ野球選手以前に人間失格、早く引退しろ』だとか……さすがのオレもへこんだよ……」
「事情を知った大阪フェニックスの法務さんと広報さんが急いで週刊誌の出版社へ抗議の連絡をしてくれて、出版社側は初めてミスに気付き、それを認めたの……」
俺はふたりの話に唖然としていた。
「でも、もう達夫は消息不明の状態になっていて……それを知った出版社側は慌てて週刊誌上で誤った記事の掲載のお詫びと、達夫を見かけたら警察か週刊誌の編集部まで連絡が欲しいって、何ページも割いてくれたんだ。それがもう一冊の方だ」
もう一冊を手に取ると、表紙から大きなお詫びの言葉と、数ページに渡る出版社と編集部のお詫び、そして俺の目撃情報を求める旨の記事が掲載されていた。
「達夫、全部誤解なんだ。オレは恵子さんと不倫なんてしていない。オレはお前がどれだけ恵子さんを愛していて、どれだけ息子の雄作くんに愛情を注いでいたかを知っている。それにオレだって自分の妻を愛しているし、妻も達夫のことをすごく心配していたんだ。支援の相談をしたときは『すぐに話を進めよう』って。それで三人で会ったんだ。不倫なんてするはずがない」
「達夫さん、お願い、信じて……みんなあなたのことを心配して……」
誤解なのは理解した。
でも、もう俺には何も残されていない。
俺は顔を上げて恵子を見つめた。
「恵子、ごめん……」
「えっ……」
「俺に恵子と雄作を幸せにすることはできない……」
「そんなこと……」
「何もできない隻眼の男のことは、もう忘れてくれ……」
先程まで不安気だった恵子の表情が真剣なものへと変わっていく。
「……その言葉、雄作に向かって言える?」
向こうから女性と手を繋いだ雄作が歩いてきた。
もう片方の手には、東京バーバリアンズの野球帽を持っている。
そして、恵子の隣に並んだ。
女性は尊の奥さんだった。
「お父さん……」
「雄作……」
雄作は怒りに顔を歪め、野球帽を地面に叩きつけた。
「お父さんをイジメたバーバリアンズなんて大っ嫌いだ!」
涙を零しながら、何度も野球帽を踏みつける雄作。
「達夫さん、幼い雄作も戦っているわ。そんな雄作にさっきの言葉を言える? お父さんのことは忘れてくれって」
「…………」
俺は何も言えず、うなだれた。
尊と奥さんは、そんな俺たちの様子を心配そうに見ている。
「嫌なことから逃げたっていい。でも! お願いだから自分自身の人生から逃げないで! どんなかたちでだっていい! 雄作に頑張っている父親の背中を見せてあげて!」
「…………」
「私や雄作が達夫さんに高価なものをねだったことある? もっと贅沢をさせろって言ったことある? ないよね? お金だけじゃ計れないんだよ、幸せって」
ハッとして恵子に顔を向ける俺。
恵子は優しく微笑んでいた。
「私や雄作を幸せにできない? 男として恥ずかしいとかって思ってるのかな? 大丈夫、何の心配もいらないからね」
にっこり笑う恵子。
「だって、私が達夫さんを幸せにしてあげるんだから」
「お父さん、僕もお父さんを笑顔にするよ!」
もう立っていられなかった。
その場に膝から崩れ落ちた俺は、涙ながらにつぶやいた。
「……恵子……雄作……ありがとう……」
情けない姿を晒す俺を強く抱きしめてくれた恵子。
「お父さん、よしよし」
雄作も俺の頭を撫でてくれている。
こんな素晴らしい家族を俺は捨てようとしていたんだ。
俺は深く後悔すると共に、それをバネにふたりを必ず幸せにして、そして自分の人生を取り戻すことを胸に誓う。
地方の小さな寂れた遊園地。アナログな「鬼退治」のゲームコーナーの前で、俺たち家族を尊夫妻、そして鬼すらも優しく微笑みながら見守ってくれていた。