第1話 プロローグ
「ふぅ~、自由だ!」
俺の名は村本海斗、35歳。
ブラック企業に勤めて12年、ようやく退職届が受理され、今日がその最終出社日だった。
次の仕事は決まっていない。けど、数年ニートしても食いっぱぐれない程度の貯金はある。
解放感に満ちた俺は、明日から何をしようかとぼんやり考えながら、夜の街を歩いていた。
駅の構内で、ふと目に入ったのは――
伊豆諸島旅行のキャンペーンポスターだった。
「……久々に行くか」
大学の卒業旅行で三宅島に行ったことがある。あの時は時期が早すぎてイルカとは泳げなかったが、今は7月直前。ちょうどシーズンに入る頃だ。
そんな記憶を思い出しながら、スマホでドルフィンツアーの情報を検索しつつ、帰宅の電車に乗った。
数日後、俺は夜の浜松町にいた。
竹芝桟橋から出航するフェリーに乗るためだ。浜松町駅から桟橋に向かって歩いていると――
『……きょ……ね……』
女の子のような声が、風に乗って耳元をかすめた。
立ち止まり、あたりを見回すが、サラリーマンやOLばかりで、それらしき姿は見当たらない。
「気のせい……か?」
再び歩き出すと、潮の香りが鼻をくすぐった。海が近い――
そんな感覚に、自然と足が速くなる。
『あ……ねぇ……』
まただ。さっきと同じ声。
今度は確かに南の海の方から聞こえた気がした。
直感が、なにか不思議なことが起きようとしていると告げていた。
「……事件じゃありませんように」
そう心の中でつぶやきつつ、乗船手続きを済ませてフェリーに乗り込む。
出港後しばらくはデッキで、東京湾の夜景を眺めていた。
『……っ、近づいて……』
さっきよりも鮮明に聞こえたその声は、やはり海の向こうから届いている気がする。
声も次第に聞こえなくなり、夜景にも飽きてきたので、船室に戻ることにした。
到着は朝の5時。それまでしっかり眠っておかなければ。
個室に入ってシャワーを浴び、布団に横になる。
◇◇◇
――夢の中。
真っ暗な空間に、少女の声が響く。
『早くおいでよ! 君を待ってるんだから!』
元気で、どこか懐かしさを感じさせる声だった。
目を覚ますと、部屋の中は静まり返っていた。時計を見ると、4:40。
「やば……!」
アラームは鳴っていたが、どうやら夢の中の声に助けられたようだ。
「……ありがとうな」
軽く礼を言って、急いで支度を整える。
船を下りると、桟橋では宿の人が迎えに来ていた。
プラカードを掲げる人たちの中に、宿の名前が書かれたものを見つける。
「あっ、村本さんですね?」
声をかけてきたのは、にこやかな中年女性だった。
「はい……。なんで分かったんです?」
「分かりますよ~。10年ほど前、お友達といらっしゃいましたよね? あの頃と雰囲気は違いますが、面影はそのままでしたから」
10年以上も前のことを覚えてるって……本当かよ。
「そんな昔のこと、覚えてるんですか?」
「えぇ。当時、大きなシマアジを釣られましたよね? あの時の写真、今でも残ってるんです」
言われてみれば、釣りやスキューバをした記憶はある。
でも、大物を釣ったなんて……記憶の彼方だ。
「そうでしたっけ……?」
「ふふ、車でお宿に向かいましょう」
車に乗り込み、走り出す。
「他のお客さんは?」
「船で来る方は、村本さんだけですね」
「なるほど、飛行機もありますしね」
「えぇ、着いたらすぐに朝ごはんですから、楽しみにしててくださいね」
「新鮮な魚、久々で楽しみです」
「今日はアジのお刺身をご用意してます。それと……ちょうどいい時に来られましたね」
「ちょうどいい時?」
「この2~3日、島の近くに白イルカが来ているんですよ。運が良ければ、今日のお昼に会えるかもしれません」
白イルカ……?
「この島では、白イルカが来る年は大漁になるんですよ。島では“神様の使い”だと言われています」
「じゃあ今年は……?」
「えぇ、すでに去年の倍近い漁獲量です。特に3月から一気に伸び始めていて」
白イルカと“何か”が起きる予感。その不思議な符合に、俺の胸は高鳴っていた。
車が民宿に到着する。
——懐かしい。
10年以上ぶりに訪れた場所は、思い出のままにそこにあった。
民宿で朝食を済ませたあと、ドルフィンスイムに向けて、漁港まで車で送ってもらった。
港に着くと、すでに海風が強くなっており、空にはまばらに雲が流れていた。
出迎えてくれたのは、現地の漁師風の中年男性。日焼けした顔に、白い歯が眩しい。
「お、来たな兄ちゃん。今日は運がいいぞ。朝から沖合に白イルカが出てるんだよ」
「ほんとですか?」
「おう、それもな、どうやらいくつかの群れが集まってるらしくてな。やけに多くのイルカが出とる。漁にゃ困ったもんだが……兄ちゃんにとっては最高のタイミングだろうよ」
そう言って、男は陽気に笑った。
確かに、これだけの数のイルカを一度に見られるなんて、普通じゃない。
しかもその中には、あの“白イルカ”もいるかもしれない。
「ありがとうございます。なんか……本当に来てよかった気がします」
「ははっ、だろ? じゃあ、さっそく準備しようか。今日は乗り合いのボートだが、ちょうど定員ぴったりだ。潜るポイントも天気もバッチリだし、きっと楽しめるぞ」
漁港の片隅では、すでに他の参加者たちがウェットスーツに着替えたり、ライフジャケットを着けたりしていた。
俺も着替えを済ませ、指定されたボートに乗り込む。
船のエンジン音が唸りを上げ、港を離れると、いよいよ本格的な海の冒険が始まった。
伊豆諸島の群青の海が、目の前に広がっていく。
どこかで、あの声の主が待っているような気がしてならなかった。
船は沖へと進み、波しぶきが風に混じって肌を打つ。
遠く水平線の向こうに、いくつものイルカの背が水面に跳ねているのが見えた。
「見えてきたな!あれが今日の群れだ」
船長が指さした先には、信じられないほど多くのイルカが跳ね、泳ぎ、回っていた。
その光景に、乗っていた他の参加者たちからも歓声が上がる。
「すっごい数……!」
俺も思わず息を飲んだ。
だが、その中で――ひときわ異彩を放つ、1頭の白いイルカがいた。
全身が淡く光っているようにすら見える、真っ白なイルカ。
まるで雪のような白さで、周囲の青い海と空に溶け込むどころか、むしろ浮き立つ存在感。
「あれが……」
そう。民宿のおばさんが言っていた“白イルカ”だ。
奇跡のように現れる存在。神様の使い。
ボートがエンジンを止め、参加者たちが次々に海へ飛び込んでいく。
俺も続いて海へと身を投じた。
水中は透き通るほどに澄み切っていた。
イルカたちの声が、キュイキュイと音を立てて水中に響いてくる。
その中で、白イルカが真っ直ぐこちらに向かって泳いできた。
不思議と恐怖はなかった。
むしろ、どこか懐かしいものに触れたような、そんな感覚だった。
白イルカは俺の目の前で動きを止め、優しく瞳を合わせてくる。
——すると、まるで海の中で誰かが“囁いた”かのように、声が響いた。
『……やっと、見つけた。』
女の子の声だった。以前、船に乗る前や夢の中で聞こえた、あの声。
『ようこそ、私のもとへ。私、まだ不慣れだけど、女神なんです。……あなたに、お願いがあって……』
その瞬間、海中の光が強くなった。
白イルカの身体が淡く輝き、まるで光のベールを纏っていく。
気づけば、彼女の姿は“人間の少女”へと変わっていた。
透き通るような白い髪と、水色の瞳を持つ少女。
海の中とは思えないほどはっきりと見えるその姿は、どこか神秘的で、現実離れしていた。
『私は……ヴェリディアと呼ばれる世界の“女神”です。そしてあなたは、私がこの世界で唯一選んだ《使徒》なんです』
彼女の声が、直接頭の中に流れ込んでくる。
夢か現実か分からないまま、俺はそのまま、彼女の差し伸べる手を取った。
——光が、世界を包む。
視界が真っ白になり、音も匂いも、すべてが溶けていく感覚。
次の瞬間、俺の足元から海の感触が消え、地に立っているような不思議な感覚に変わっていた。
『ようこそ、あなたの“新しい物語”の始まりへ——』