6.受け継がれるもの
二人がオベール男爵邸に着くと、前当主からの遺言を執事に伝えられた。
それによると、結婚式前に当主夫妻は必要な禊の儀式を済ませておくようにという指示があった。
当主夫妻しか入ることを許されないオベール邸の禊をする泉というものが、古い蔵の中にあるというのだ。
海や運河に隣接する建物には、建物内からそのまま舟に乗ることができるようになっている造りもあるが、オベール男爵邸の側には森や小川はあっても海も運河も無かった。
泉や池は見渡した限り、男爵邸の敷地内のどこにも見当たらない。
オベール男爵邸は、貴族の邸宅というよりも、古城と呼ぶ方が相応しかった。それだけ古い家門であったことが窺える。
最後の当主の嫡男が先の戦争で戦死したため跡を継ぐ者がいなくなったのだが、トマにはまだ知らされていない別の理由がオベール男爵家にはあった。
トマは執事から手渡された鍵で石造りの蔵を開け、ルネと共に燭台を手にして中へ入った。
最奥の戸にトマが手を触れるとそれは音もなく自然に開き、そこに古い井戸があった。
井戸の上には銀色の光の玉が煌めいていた。
泉とはこの井戸のことなのかわからないまま、 恐る恐る井戸を覗くと、眩しい閃光が走り、トマとルネはその光の中に吸い込まれていった。
『待っていたよ、怖がらずに先へ進みなさい』
どこからか、そんな声が聞こえてきた。
二人は光の先へ進んでいくと、突然水の中に放り出された。息苦しさから呼吸をするために、必死に水を掻き分け浮上していった。
水を吸った服が体にへばりつき、その重みは自由を奪い動作をままならなくしたが、水はとても澄んでいて、その明るみから空や森が水面を通して見ることができた。
もう少しで顔を出せると思ったその時、水面に花冠のようなものが投げ込まれ、同時に呪文のような声が響いていたが、それはすぐに悲鳴に変わった。
「ぷはあ」
二人は水面にやっと顔を出した。
「ルー、大丈夫か?」
「大丈夫です」
ずぶ濡れで泉から上がると、泉の傍らに尻餅をついて恐々と二人を見ている初老の男の姿があった。
「なっ、なんだお前達は!?」
二人を指差す男は、腰を抜かしているようだ。
悲鳴の主はこの人のものだったのだろう。
「驚かせて申し訳ない。ここはどこか教えていただきたいのだが·····」
「···シャゼルの妖精の森だ」
怪訝な顔で男は言った。
「ここにいるということは、お、お前達も妖精公爵一族なのだな?」
トマとルネは顔を見合わせると困惑してしばらく黙り込んだ。
「妖精公爵かどうかは知りませんが、私はトマ·オベール男爵、こちらは妻のル······」
ルネを紹介しようとした途中で、トマが驚きで固まってしまった。
「ルネ、その髪はどうしたんだ!?」
ルネは短髪だった髪が長く伸びていて、しかも赤褐色の髪は、淡紅色の髪に変わっていた。
水面に映して自分の姿を確認するとルネは呆然とした。
振り返ってトマを見ると、トマも瞳の色が淡い青色から深い青色に、白みの強かった金髪が濃い金色に変わっていた。
「···これが禊なのでしょうか?」
『そういうことだね』
銀色の光の玉が現れ、銀の羽を煌めかせながら小さな妖精の姿に変わっていった。
「あなたはいつぞやの!」
トマが声を上げた。
「知っているのですか?」
「ああ、戦場で危ない時に逃げ道を教えてもらい助けてもらったんだ。ルネにも見えるのか?」
「はっきり見えています」
「それから、俺はルネという女性と結婚するとその時言われていたんだよ」
「ええ!? だからアナイスとの婚約解消があんなにあっさりと平気だったのですか?」
「まあ、それもある。まさかルネがルーだとは思わなかったけどな」
トマは笑いながら白状した。
『トマの父はオベール男爵の縁戚、ルネも母方が妖精公爵の血を引いている。だから、絶えた妖精公爵のオベールの跡継ぎには丁度いいんだ』
「アルビエール伯爵が妖精公爵の縁者? あらっ?ではアルナリアの王族は妖精の血は引いていないの?」
アルナリア王家は妖精の血を引いているという噂が長く国内では囁かれてきた。
ルネも子ども時代にその物語の童話を読んだ記憶があった。
『ああ、それは嘘だね』
「嘘!?」
『王族が箔をつけるための方便だよ』
「······嘘はもう懲りごりだ」
トマの独り言にルネも頷いた。
「君らはアルナリアの人間か?」
腰を抜かしていた男は冷静さを取り戻したようだ。
「そうです」
『エルナン、二人をエドワードのいるモンサーム邸へ連れて行ってやってくれないか、···ああ、彼には聞こえないのか。トマ、妖精公爵についてはエドワードから詳しく聞くといい』
トマはそこでオベール男爵家がなぜ絶えたのかを知ることになる。
当主になる筈だった嫡男が妖精の啓示を破ったからだ。
その嫡男は未婚のまま戦死していた。
「エルナン様、よろしければ私共をモンサーム邸へ案内していただけますでしょうか」
「うむ。私はエルナン·シュバリエ子爵だ。これでも妖精公爵の一族だ」
エルナンは、若かりし頃にこの森の妖精の泉で双魚に顔を噛まれる経験をしたことがあった。
今回も啓示を受けようとした最中に二人が泉から突然姿を現して、どれほど肝を冷やしたことか。
これは後にフレデリクの備忘録にオベール男爵についての記載に付け加えられることになる。
泉の中から登場したオベール男爵夫妻の話はフレデリクのお気に入りのひとつだ。
トマ達にエルナンが遭遇し腰を抜かした様子を聞くと、エドワードが「ふははは」とひとしきり笑っていたのは、かつてエルナンが双魚に顔を噛まれた時に彼も居合わせていたからだ。
エルナン·シュバリエは自分の啓示を受ける途中だったこともすっかり忘れて、オベール男爵夫妻を自分の馬車に乗せ、従弟のエドワードが待つモンサーム伯爵邸へ急いだ。
(了)
モンサーム家とモンターク家以外の一族も書いてみたいなという、付け足しの付け足しみたいなお話でした。
今回も読んでくださってありがとうございます。