ある老爺の手記、あるいは心を食う妖狐の記録
下記の文章は、ある古いアパートで孤独死を遂げた老爺の手元にあった手記である。
なお未確認情報ではあるが、老人の顔には待ちわびたなにかを見つけたような笑みが張り付いていたらしい。
私がアレを最初に見たのは、小学生最後の夏休みのことだった。そしてそれが最後でもあった。それ以来一度も見ていない。
あと一週間もすれば学校が始まる、そんな時期に毎年行われる町をあげてのお祭。
普段は財布のひもが固い父も母も、この日ばかりはさすがにひもが緩むのか、二人とも私にたっぷりのお小遣いを握らせると、心行くまで楽しんできなさいと私の背中を押した。
町の中心を走る大通りは車が通れないように封鎖されており、周辺一帯は祭り一色に染まっていた。
辺りからはタコ焼きに焼きそば、イカ焼きなどのお祭り特有の香ばしい匂いが立ち込め、射的に金魚すくいに輪投げにと一喜一憂する声があちらこちらから聞こえてくる。
私も学校の友達が作る祭の輪に飛び込むと、声をあげてはしゃぎながらお祭りを楽しんだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。疲れてきた私は一人で鳥居の近くにある石段に腰を下ろして休んでいた。
すると私の後ろ、神社のあるお山の方から声が聞こえてきた。
「お祭り、楽しんでる?」
はい、とってもと答えながら目を向けると、私の座っている石段より何段か上のところに一人の女の人が立っていた。
濡れたように光を反射する長い黒髪は腰の少し上まで伸ばされていて、それに無地の赤い着物がよく映えていた。しゃんとした立ち姿には気品がある。
とりわけ私の目を引いたのは、その顔に付けられた狐のお面だった。
私はすぐにそれが、この神社に奉納されているお狐様の面のレプリカであることに気が付く。
この神社はかつて、この辺りがまだ村と呼ばれていた頃、そこに住んでいた、人を化かして心を食う妖狐を退治したある男が建てたものらしく、そこに奉納されているお狐様の面は、その男が妖狐のことを封印したものであるらしい。
そんなお狐様の面のレプリカはこの町の特産品の一つである。
「そ、良かった。……私も楽しみたいなあ」
と、と、と。リズムをつけてその女性は階段を降りると、私の隣に座った。ふわりとたなびいた髪が私の鼻をくすぐり、お香とも古い木とも不思議な香りを届けてきた。
「お姉さんはお祭りに行かないの?」
私からの問いかけに対して女性はうん、と幼い子どものするような動作で頷くと、私はここから出ちゃいけないから、と答えた。
なぜ、とか、どうして、とか、そんな疑問は頭に浮かばなかった。子供の頃特有の勘だったのだろうか。私は、その女性の言葉が一片の嘘もない真実であることを悟った。
すっくと立ちあがる私を見て女性は寂しげな声で、もう行く? と尋ねてくる。
「お祭り、楽しんでね」
「お姉さんも一緒にね!」
私はそう言いおくと、全速力で鳥居をくぐって祭の現場へと駆け戻った。それからどれくらいが経ったのか、私は両手いっぱいにたこ焼きやチョコバナナやかき氷といった、とにかくお祭りっぽいものを持って鳥居に戻って来た。
いま考えれば子供の浅知恵も良いところである。だがその時私は必死だった。
お面で表情は見えなかったが、それでもあの女性が寂しそうだったのは分かったから。
そういえばお姉さんに待っててと言うのを忘れていた、もう戻っていたらどうしよう、そんなことを考えながら鳥居をくぐると、あの女性は先ほどと同じ場所に座り、両手を妙な形に組み合わせ、その空いた穴から周りを見ていた。
あとでそういうのに詳しい奴に聞いた話によると「狐の窓」というおまじないのようなものらしい。
「おかえり。随分走り回ってたね」
女性の言葉に私はハッとすると、はいこれ、と持っていた食べ物を全部女性に渡す。
女性はたぶん、キョトンとしていた。そして差し出した食べ物と自分自身の顔を交互に指すと、「これ、私に?」と聞いてくる。
「うん。お祭りで食べる食べ物っておいしいんだよ。だからここから出られないお姉さんにも、お祭りのおすそ分け」
女性はまだしばらく呆気に取られていたが、やがてありがとうとお礼を言ってから食べ物を受け取る。そして手を顔の後ろに回すとお面の紐を外した。
本当は素顔を人に見せちゃいけないんだけど、そう言いながら左手でお面を抑え、右手は「内緒だよ」と言うようにピンと人差し指を真っすぐに伸ばしていた。
お面の下から現れた素顔に、私は目を奪われた。たぶん、心も一緒に。
狐に化かされるのはきっとこんな気分なのだろう。
「ああ、本当だ。美味しい」
切れ長の目をさらに細めて、女性は笑った。その笑顔は楔のように私の心に打ち付けられた。
後日になって私は必死にその女性を探した。だが誰に聞いても、なにを聞いても手掛かり一つ得られない。
鳥居の石段にいる私を見た人も何人かいたが、その人たちには私しか見えていなかったらしい。
人を誑かし心を食う妖狐はおそらくまだいるのだろう。
私は彼女を恨んではないない。ただ、もう一度だけあの顔を見たい。ただそれだけなのだ。それだけが、心残りなのだ。