1-1 格好いい大人じゃない
「かけちゃった」
そう言って客はにたにたと笑っていた。
「やめてください」
後の祭りであることは分かっているのに、ついそんなことを言ってしまう。
よく覚えてないのに服を着て、裸の5万円を持っていたので、どうやら金を受け取ったらしいことを知った。
どうしたら、この着てあげたいのに着ることが出来なくなったコートを着ることが出来るようになるのか。自分の何かを守るためにいつも夜に着ていたコート。
体を売る仕事をしているから悪い。そういう意見もあったことに驚いた。家に帰って何とか落とす方法はないかと思って、インターネットで質問した結果の回答だった。
もしかしてあなたの旦那さんの性欲を発散させてあげているかもしれないのに、よくそんなこと言えますね。って、普段なら言ってやるのに。私はグッと我慢した。
どうやらお湯で落ちるらしい。お湯で落としたけど、陰干しをしないといけないのか、元々うち陰だし問題ないかと絞った。重いコートをバルコニーまで持って行く。
水がしたたらないように風呂桶にいれたが、桶からはみ出た部分から水が落ちる。
コートの涙みたいだと思った。
泣きたいのは私だって一緒だ。ばあちゃんがくれたコートなのだから。
「夢ちゃんはかっこいい人になれるよ」
しわしわで背中の丸いばあちゃんは実家の奥座敷でいつもミシンを動かし何かを編んでいた。それがなんだったか聞く前にばあちゃんとは会えなくなった。
「大学生捕まえてかっこいい人って、幻想見過ぎだよ」
私は家族の前や友人の前で豹変するのが嫌でお酒を飲めなかった。
唯一飲めることが出来たのがばあちゃんの前だった。だからばあちゃんの部屋でへべれけになって、ばあちゃんの部屋で寝る。
大学の友達は加齢臭するからばばなんてやだって感じだけど、私は好きだった。いいじゃん加齢臭最高じゃん。
「そうかい? 社会人でもかっこいい人はいるよ」
「私はカッコよくない」
「へぇ、私には夢ちゃんはかっこいいと思うけどね」
かっこよくない。同級生のかっこいい友人は早々に就職先を見つけた。
好きに遊んだせいでスタートが遅かった私は、講義中教室でフライドポテトを食べあった友人たちから離されつつあった。
「じゃぁ、夢ちゃんはどういう大人になるんかい?」
「え、いきなり話変わったね。ばあちゃんが誇りに思う大人になりたい」
「夢ちゃんはもう誇りに思う孫だよ?」
「違うの! 私は大人になりたいの」
「大人かね。大人になりたいのかね」
話がばあちゃんが誇りに思う大人になりたいから、大人になりたいに論点が変わっているが、夢は気にしない。
だってばあちゃんと話すのが好きだから、内容は何でもいい。
「うん、大人、大人」
「そうかい。分かった。ちょっと待っていな、週明けまで」
「週明け?」
「そう、週明けよ」
「分かった」
夢は一体これから何がやってくるのか楽しみで仕方なかった。週明けまで待てる気がしないが、ばあちゃんとの約束だから仕方ない。
男の体液をかけられたコートが乾いた。
確かに着るのは問題なさそうだが、あの軽薄な男の臭いがする気がした。
やはりクリーニングに出すか、店に連絡して得意客なら追ってもらうか。
仮に弁償してもらってもそのコートを着ることはないけど。
店には一応連絡した。同情されたが、あんたたちにとってこのコートの価値は分からないだろうとふつふつを怒りを感じるだけだった。弁償の話も出た。結局、客を追えるのでお金だけもらうことにした。もらえるものはもらおう。