第8話:朱妃、再会する。
かさかさと荷物から音がする。
「きゃっ」
羅羅が朱妃を護るようにずいと前に出る。が、腰が引けている。
「ね、鼠でしょうかね」
朱妃たちが船に乗るのは初めてのことであるが、船には鼠がよく出没するということくらいは聞いたことがある。
穀物が齧られたり、遠方より遥々と運んできた貴重な織物が駄目にされることもあるのだとか。
––こんな立派な船にも鼠が出るのかしら?
この御座船はこの龍河に浮かぶ中で、間違いなく最も立派で美しい船の一つであろう。
だが鼠にとっては関係のない話なのかもしれない。
ちなみにここで彼女たちが想像している鼠とは茶色い毛で小さく乾いた砂鼠のことである。灰色で大きく肥えて濡れそぼった溝鼠と出会って悲鳴をあげるのはまだ先の話だ。
がさり、と荷物の袋が揺れ、隙間からするりと顔を出したのは、親指の爪くらいの大きさの頭。それは熾火の如き赤を内包した黒い鱗に覆われていた。
尖った顎からちろりと橙色の舌が覗く。ぺたぺたと小さな手足を動かして出てきたそれは小さな蜥蜴であった。
細く長い尾がくるんと弧を描いた。
頭から尾の先までの長さはおよそ四寸。少し大きめの家守程度の蜥蜴である。
蜥蜴は首を上げ、朱妃に数珠玉のような瞳を向ける。黄色い目に縦割れの瞳孔、猫のような瞳であった。
「まあ、ダーダー、あなたこんなところまで付いてきてたの?」
朱妃は驚きに目を見張って言った。
「きー」
微かな鳴き声が、まるで返事をしているかのように聞こえた。
「まあ、お城の庭に置き去りにしたはずですのに」
「そうよねえ?」
話しながら朱妃は前に出て掌を差し出す。ダーダーと呼ばれた蜥蜴は何を考えているのか分からぬ瞳でしばし手を見つめていたが、のそり、と動いて朱妃の手の上に乗った。
蜥蜴の細い指が掌の上に踏み出されると、擽ったさを覚えてか、朱妃は笑い声を溢しながら言った。
「ねえ、ダーダー。あなたこれから行くところは砂漠ではないのよ? わたくしだって暖かいのか寒いのかすらよく知らないんだから。あなたが食べられるものがあるのかも分からないし」
蜥蜴は何も答えない。ちょうど朱妃の掌に収まるような大きさのそれは、もぞもぞと掌の上を動くと、母指球、親指の根元の膨らみを枕とするようにぺたりと顎をつけて、どことなく満足そうに動きを止めた。
「ダーダーは姫さまのことが大好きですね」
「ふふ、そうなのかしらね」
朱妃は翡翠の目を細めながら、右の手の中指でダーダーの背を撫でる。
「この子はね、わたくしが生まれた頃からずっと一緒にいるのよ」
「ええ」
羅羅が何度も聞かされている話であった。実際にいつからこの蜥蜴が朱妃の側にいたのか、羅羅は知らない。
ロプノール王国で彼女がシュヘラ姫の侍女として仕えることとなった時、そこにはもうダーダーがいたのだ。彼女の部屋、碌な調度品も置かれていない王家の姫のものとは思えぬ部屋、その窓際に棲みついていたからだ。
「わたくしが言葉も分からない頃からだぁだぁとこの蜥蜴のことを呼んでいたから、母さまたちもこの子をダーダーと呼んで……」
それはまだ、彼女が疎まれていなかった頃の話だ。
その言葉が真実であれば、この蜥蜴はおよそ十五年の歳月を生きていることになる。朱妃も羅羅も蜥蜴の寿命に詳しくはないが、この家守のような小さな生き物がそれほど長く生きているとは不思議なものであった。
「召使いに箒で追い出されても戻ってくるし、わたくしが部屋を変えた時もいつの間にか部屋にいたもの。この旅にも付いてきちゃったのよね」
出立の前の日、朱妃と羅羅はオアシスから水の流れる王城の水路へと向かったのだ。ダーダーを放つために。わざわざ食事のための蟋蟀や飛蝗などの虫も捕まえて、それらと共に水路近くの草むらにダーダーを置いて、別れの言葉まで掛けたのだ。
その時の朱妃は泣いてこそいなかったが、目に涙を湛え、目元を赤くし、ぎゅっと手を握りしめていたのを羅羅は見ている。
「まあまあ、結局付いてくるのが分かっていたならあんな苦労して置いてくることは無かったですねえ」
羅羅はわざとらしく悪態をつく。
ダーダーとの別れのためにと、ダーダーが飢えないようにと、慣れぬ虫取り網を振り回して蟋蟀やら飛蝗やらを捕まえてきたのはなんだったのだ。実際そう文句の一つも言いたくもなる。
「ふふ、そうだったわ。手数をかけさせてしまったわね」
だが、今その赤黒い背を撫でて優しく笑みを浮かべる主の顔を見れば、そのような文句など霧散していくのであった。