第63話:朱妃、ケバブの準備をする。
羅羅は朱妃がまた変なことを言い出したために思わず「はい?」と疑問を口にした。
「ケバブ……ですか?」
雨雨はそもそもケバブというものを知らないが故にそう尋ねた。
確かにケバブとは中原の言葉ではない。だが、西方では広く使われる単語である。ケバブ、あるいはカバーブ、カバブ。地方によって多少の音の違いはあるが、どれも同じ意味である。天火や窯でローストされた肉ということだ。
ロプノールやその西方に広がる砂漠の先でも、南は摩天山脈のさらに向こうの国々でもケバブと言えば肉なのである。
例えばこれらの料理の中で最も有名で伝統的な料理であるシシカバブとは、一口大に切られた羊肉を串打ちし、炭火で焼いたものだ。もちろん羊以外の肉や野菜を焼くこともあるが。
朱妃はそう雨雨に伝えた。
「ふむ……」
雨雨は考えながら返事をする。
「例えばこの数日、春餅や肉夾饃という形に調理して肉を食べてきましたが」
「そうね、美味しかったわ」
「それらではなく、そのケバブにしようというのは何か理由があるのでしょうか?」
朱妃はにやりと笑みを浮かべて頷いた。
三人で倒坐房に向かいつつ朱妃は雨雨に尋ねる。
「この宮の食材の中に、他の宮にはあまりないであろう特別なものがあるのよ」
「棗椰子でしたっけ。西方の乾果がありましたね」
「それもあるわね。……はい、羅羅」
羅羅が手を挙げたので、朱妃は彼女の名を呼んだ。
「香辛料ですか?」
「正解よ」
ロプノールからの朝貢の品々、その中にあった膨大な香辛料などの一部を癸氏が永福宮に送ってくれていたのである。
厨房の横の保存室に入り、朱妃は香辛料の入った箱を開けてみせた。まだ砕いてもいないが、刺激的な香りが広がる。
「ケバブはね。香辛料をたくさん使うから、本当に上手く作られたものは肉の臭みが全く感じないのよ」
朱妃はロプノールの王宮にいた頃を思い出す。朱妃は離れに追いやられていたため、なかなか口にする機会はなかったが、宴席で食べることのできたケバブは本当に美味しかった。
普段食べるそれと同じ羊肉なのにまるで違うと思ったものだ。
羊肉とは癖や臭みが強い肉である。それを唐辛子や胡椒、馬芹、肉桂、香菜など五から十種類ほどの香辛料を揉み込むのである。
香菜は朱妃らの国でコリアンダーと呼ばれているものだが、船の中で粥に入っていたのを食したので、瓏帝国でもあるのだと朱妃は知った。
だが唐辛子や馬芹はほとんど使われていないようだ。
「肉が余っている。腐らせるわけにはいかない。それならばどうすれば良いかしら」
「ケバブにすれば香辛料で保存がきくということですか?」
雨雨は尋ねる。香辛料には殺菌作用があるものも多い、保存が効くという側面はあるだろう。だが朱妃は首を横に振った。
「保存してもいずれいっぱいになってしまうわ。余った肉をどうしましょう? って思ったのよ」
「振る舞うとかですか?」
先日、羣氏と彼の配下に庭で料理を振る舞ったことを思い出して羅羅は言う。
「そう。でもそれだと毎日は彼らは来られないじゃない」
当然だが彼らにも仕事はあるのである。毎日の昼を永福宮でとるわけにはいかないのである。
「門番の方にお土産に持って行ってもらいます?」
「残念。それもいいけど、それでも余るでしょう?」
肉十六斤とはそれほどの量なのであった。あの昼に庭で食事をしてもらった日だって肉はほぼ食べきったが、実は穀物などは余り続けている。これはまだ保存が効くとはいえ、いずれ問題となるのは明らかだった。
「……はい」
雨雨が先ほどの羅羅のように手を挙げた。
「はい、雨雨」
「ひょっとして施すのですか?」
「…………」
朱妃は沈黙してじっと雨雨の顔を見た。
「な、なんでしょう」
「……正解っ!」
そして妙に間を開けて満面の笑みで答えた。
「まだ数度だけど宮の外を移動しているじゃない」
「はい」
ごりごりごりごり。
薬研で香辛料を擦り潰す音が響かせながら朱妃が話す。
ダーダーは一度部屋に入ってきたが、部屋にこもる匂いがきつすぎたのか、慌てたように庭に逃げていった。
「下級の宦官や女官が酷く痩せっぽちでふらふらしているのよ」
「……そうですね。私も瓏帝国の後宮ってもっと誰もが華やかなものだと思っていました」
ダン!
肉を包丁で断ちながら羅羅が答えた。
後宮に入った日、馬糞を投げつけてきた宦官の姿や、皇帝の寝所に呼ばれた夜、飢えて死に打ち捨てられていた宦官の姿が朱妃の脳裏に浮かぶ。
「貴族なんかは貧民に施しをするじゃない。食材が余っているんだしそうしても良いのかなって」
「朱妃様はお優しいですからね」
羅羅は肯定する。
「仰ることはわかりますが……」
一方で雨雨はあまり賛成ではないようである。
だがその先の言葉を口にすることはなかった。朱妃のすることに反対するつもりはないのだろう。
雨雨の気持ちは理解できる。この肉は妃のためのものであるし、長い距離を旅してきた香辛料は非常に高価なものであるはずだからだ。下級宦官・下女らに与えられるべきものではない。
朱妃は内心で雨雨に謝罪しつつも、ケバブの準備をするのであった。
注:現実世界だと唐辛子は「唐」って書いてありますが中国原産じゃないです。中南米原産でいわゆる大航海時代にヨーロッパに伝わり、それが後に東へと広まっていきました。
中国に伝わったのは明の末期となるはずで、その伝達ルートで砂漠ごえ陸路説があるので、そのイメージですねこの作品っていう設定裏話。
それはそれとして『朱太后秘録』発売中です! よろしくおねがいします。





