第62話:朱妃、宮に戻る。
「まずは、光輝嬪がお元気そうで良かったわ」
禄寿宮の庭で光輝嬪のいる本房に礼をし、再び輿に乗って永福宮へと戻って朱妃はそう言った。
朱妃は服にくっついているダーダーを庭の芝の上に放つ。
「きー」
彼は足元を照らすための石燈篭の上に移動し、満足そうに喉を鳴らした。
かわいい。だがそれはそれとして、やはり比較すると庭の様子などが寂しいなあと朱妃は考える。正直、もう少し庭に飾り気が欲しい。花があれば虫もきて、虫を食べる家守でも来ないだろうか。それがダーダーの友達にでもなってくれればなお良い。
朱妃はそんなことを思いつつも、羅羅と雨雨に光輝嬪の様子を伝える。差し入れの食べ物とお茶をことに喜んでくれたことも。
「それは良うございました」
羅羅は笑みを浮かべて返す。一方で雨雨は話を聞いて、考え込むように沈黙していた。
やはりなぜこういう事態となったのか、あるいは朱妃たちも考えたように、なぜそもそも『愛することはない』と武甲皇帝陛下が仰るのか。そこを考察しているのだろうか。
「何か気づいたことがあったら教えてね」
「あ、ええ。畏まりました」
朱妃がそう言えば、雨雨は慌てたように拱手した。
「そういえば、何という名だったかしら。護衛の方もいなかったわね」
「確かビルグーンと仰っていたかと」
御座船の上で光輝嬪が朱妃の部屋にやってきた時、あるいは下船した時に見かけた光輝嬪の護衛の名をふと口にする。
その時にいなかった雨雨が「ビルグーン?」と問うたので、朱妃は光輝嬪と共に瓏へやってきた護衛か側近かという話をする。
「それは当然でしょう」
「ああ、そうね。ここは男子禁制だったわよね」
雨雨は声にちょっと呆れをのせて答え、朱妃もすぐに気がついた。確かに当たり前のことであった。男性である彼が後宮にいるはずはない。
それでも、と思う。
朱妃は彼と光輝嬪は深く信頼関係で繋がっていたのではないか、と思った。彼が側にいないのであれば、それが僅かに光輝嬪の精神の均衡を損ない、思わず手が出るという暴挙に繋がってしまったのではないか。そうも思うのだ。
光輝嬪は蓮っ葉で荒々しく見せているが、その本質は乙女なのだから。
「ん?」
「どうされました?」
朱妃はあれ、と思う。光輝嬪の本質など自分が知るはずはない。なぜ今、そんなことを知っているかのように考えていた?
朱妃は自問する。当然その答えなど返ることはなかった。
「なんでもないわ。さて、今日はどうしようかしら」
いまは午下がり、およそ未の刻である。紫微城は東西南北がはっきりしているため、太陽の傾きからおおおまかな時刻がわかりやすいなと朱妃は思う。
宮に戻って早々に、朱妃ら不在の間に使者が来た旨を門番の宦官らから伝えられているのである。それは不要不急の外出を禁ずる旨を伝える商皇后殿下からの令が発せられ、その伝達があったというのだ。
「できるだけ宮から出るなと言うけど」
「先に出かけていて良かったですね」
羅羅の言葉に朱妃は頷く。彼女は光輝嬪に会うための許可を得て動いていた。だが、そう言われてから出かければ無駄な軋轢を生んだであろう。
雨雨が続ける。
「茶会などの誘いは来ていましたが、これらもしばらく中止ですね」
外出が禁じられれば当然だろう。
「どうして外出禁止令がでて、いつまで続くのかしら?」
そう問えば雨雨は頬に手を当てて首を傾げた。
「想像にはなりますが、光輝嬪の減刑を求めるため、後宮は連帯して反省の意を示しているという形をとっているのだと思います。後宮全体の后妃が関わる行事は直近に月見の会がありますので、期間はそこまでかと」
ふむ、と頷く。納得のいく答えであった。
「皇帝陛下と皇后殿下のお力の関係にもよるけど、抗議や圧力ということもあり得るのかしら?」
答えはない。雨雨は賢くも首を傾げて笑みを浮かべるに留めた。
それはそうだ。今の発言は不敬に繋がる。
「ごめんね、忘れて」
朱妃はそう言いながら、この方向性は無いかなとも思う。後宮に来た日にお会いした皇后殿下は美しく優しき人であった。癸氏は彼女に気をつけるよう言っていたし、見た目通りの女性というだけでもないのだろう。
だが少なくとも彼女はそういった抗議などを率先して行うような女性ではない。そう結論づけた。
さておき、これで朱妃はあまり外に出られないことが確定した。今日の夜、癸氏が宮にやってくるらしいが、少なくともそれまでやることがない。
他の宮の妃嬪の方々はどうやって時間を潰すのだろうか。女官たちがたくさんいるなら何か遊びもしやすいのだろうか。
駒を動かし戦を模して遊ぶ象棋などが遊戯盤として有名であるが、どちらかというと男性の遊びである。双六などでもしているのだろうか。
「朱妃様は何をなさいますか?」
羅羅がちょうど朱妃の考えていることと同じことを問うてきた。
刺繍などもあるし、手慰みにダーダーの帽子など作ったりもしたが……。ああ、そうだ。と朱妃は思いついていたことを口にした
「食材の件なのですが」
「はい」
「余る肉は全てケバブにします」
「はい?」





