第61話:朱妃、光輝嬪と茶を喫する。
肉夾饃は別にご馳走でもなんでもない庶民料理である。
当然である。肉を包子で挟んで挟んで手掴みで食べる食物だ。本来は妃嬪が口にするものでもなければ、このような宮で食べる食事でもない。だが光輝嬪はそれを喜んでぱくぱくと口に運んだ。
朱妃が茶を淹れながらその様を見ていれば、光輝嬪はその視線を感じたのか、言い訳をするかのように頬を掻いて言う。
「いやな、後宮の飯が美味いのは間違いねえのよ。量だって満足さ。だけどよ、高そうな皿に綺麗に盛られてるのを箸でちまちま口で運んでると、なんか飯食ってるって気はしねえんだよな」
朱妃は笑みを浮かべる。
「しかも『美味え』って言ったら、『美味しゅうございます』って言うようにとか指導されるんだぜ」
朱妃はその様子が容易に想像できてころころと笑った。光輝嬪には瓏の後宮の礼儀作法を指導するための女官が付けられているのだろう。
光輝嬪は頷きながら、もぐもぐと口に運び、「こういうのでいいんだよ、こういうので」などと独りごちた。
そしてぺろりと平らげて言う。
「そちらの厨師に美味かったと伝えておいてくれ。美味しゅうございましたの方がいいのか?」
「気取ったものではございませんもの。美味かったで十分ですわ。ああ、あの二人が作りましたのよ」
朱妃は庭の羅羅と雨雨を指し示した。こちらを見ていた羅羅と視線が交わり、頷けば向こうは頭を下げた。
光輝嬪も頷きを返し、困惑の表情を浮かべて朱妃に向き直る。
「あれは側付きの女官だろ?」
「うちの宮には厨師がいませんので」
「んな馬鹿な……」
「はい、お茶をどうぞ」
朱妃は卓上に茶を置き、話が途切れた。
白い茶器の中に灰がかった褐色の液体、その表面には細かい粒状のものが浮いている。
光輝嬪はそれを持ち上げて鼻先に近づけて嗅ぐ。
「蘇油茶、いや乳茶か。以前も、船の上で茶を淹れてもらったが、あの時は……」
「船上で蘇油茶をお出ししたのは旅の途中であったからです。今は生乳が手に入りますからね。光輝嬪のところのお茶はこちらの方が近いでしょうと思いまして」
遊牧の民は北の大平原の民も南の摩天高地の民も乳を入れた茶を喫する習慣がある。
遊牧民にとって最も身近な栄養だ。当然とも言えよう。
ただ、南の民は蘇油を使うことが多く、北の民は生乳を使うことが多いという。朝、送られてくる食材の中に牛の生乳があったので朱妃はそれを使って茶を淹れたのである。
「しかも煎り粟まで入れてくれるとはな」
流石は交易の民の姫だ。遊牧民の風俗に詳しい。そう感心しながら光輝嬪は先ほどの肉を食べている時とは違う、ゆっくりと落ち着いた所作で茶を一口喫した。
「美味い」
「それはようございました」
ゆったりとした時間が流れた。
鼻に残る煎り粟の香気に快を感じつつ、さて、と光輝嬪は考える。
今彼女が手にしているのは朱妃が宮から持ってきた茶器である。倒坐房にあった使用人用の着彩されていない器であり、この部屋に、あるいは嬪に出すのに相応しい品とはいえない。
もちろん光輝嬪はそれを気にするような女ではない。軍を率いていた頃は割れた土器で酒も茶も飲んでいたものだ。
だが昨日、光輝嬪は商皇后の茶会にいたのだ。異国の四姫以外の妃嬪らとも会った。そこで茶会の主催者や参加者たちがどれほど器やら花やらに気を使うかを見てきているのである。それを考えれば妃である彼女が出すに相応しくないのは明らかであった。
それに先ほどの、厨師がいないという朱妃の言葉。
––コイツのところに人や物がいっていない?
何らかの悪意に晒されている、嫌がらせを受けているのではないかと光輝嬪は思い至る。
––だがなぜそれをコイツは開示した? それは弱みになるんじゃねえのか? それともあたしに何か援助しろってことか?
光輝嬪は蒼の瞳で朱妃を睨む。だが彼女の翡翠の瞳はそれを柔らかく受け止め、緩く首を傾げられた。
「くそっ、何も考えていないような面しやがって……」
光輝嬪は朱妃に聞こえないよう呟く。
朱妃は素知らぬ顔で自分の分の茶を喫し、光輝嬪の器におかわりを注いでいる。
「でも良かったです。光輝嬪が厳罰に処されるという心配はしなくてよさそうですし、そう長く謹慎させられるということもないでしょう」
「そう……だな」
朱妃は改めて励ますようにそう言う。そして肉夾饃を追加で置いていき、また明日様子を見にくると言い残して部屋を後にしようと立ち上がる。
光輝嬪は怒りや不満にささくれ立っていた心が凪いでいくことと、朱妃に恩を感じてしまったことを悟り、敢えて舌打ちを一つ。
「ああ、また来い」
「ええ、ではまた」
光輝嬪が瀟洒な格子越しに窓の外を見ていると、庭で朱妃が使用人らと合流するのが見えた。
彼女らは振り返ってこちらに拱手する。光輝嬪は立ち上がって頭を下げた。





