第60話:朱妃、光輝嬪に飯を供する。
朱妃はぐるりと部屋を一瞥する。部屋の調度品が美しく配置されている様、窓から見える庭の景色の見事さ。何もない朱妃の永福宮とは違い、本来の宮とはこうあるものなのだろう。
朱妃は、ほうと溜息をついた。
「座んなよ」
光輝嬪の声に従い、向かいの席に腰を下ろす。布張りの座面が柔らかく朱妃の尻を受け止める。
「お元気そうで何よりです」
光輝嬪は、はんと鼻を鳴らして答えた。その音には自嘲の響きを感じさせた。
「つい手が出てしまわれましたか?」
朱妃はあえて軽く問う。光輝嬪は憮然とした表情で答えた。
「お前は恥辱に感じなかったのか。怒りを覚えなかったのか?」
問い掛けに問い掛けで返される。しかも言葉不足であるが、朱妃が自分と同じ体験をしたと勘付いているのであろう。
つまり、敬事房の宦官らに裸身を確認されたこと、皇帝に愛さないと言われたことだ。
朱妃はここに及んで惚ける必要もあるまいと話を進める。
「それは感じましたし、怒りを感じなかったかと言えば嘘になります。ただ、本宮にはその怒りを拳で表現するという考えもないのですよ」
そう言って朱妃は右の拳を前に突き出した。
「えい」
座っての手打ちであることもあるが、服の袖の重さにも負けた、遅くぶれぶれの軌道が宙に描かれた。
朱妃自身でもあまりの不恰好さに呆れる思いだ。一軍を率いる将であった光輝嬪にとってはいかほどか。毒気を抜かれたという様子で溜息が返る。
「そうだな。ついかっとなって手が出たのは失態だった」
「そうですね」
「だが後悔はしちゃいねえぞ。ああも面子を潰されたら殴りかかるのは当然だ」
武を尊ぶ平原の遊牧民、その頂点たる汗の一族の姫。
中原の民とも古来より幾度となく衝突してきたのだ。あれで拳を出さないほど弱腰ではないという誇りがあるのだろう。そう感じさせる言葉であった。
それより朱妃は今の表現が気になった。
「今、殴りかかると仰いました。殴ってはいないのですか?」
強烈な舌打ちが返ってきた。
朱妃が何も言わず光輝嬪を見つめていると、ぼそりと言葉が紡がれる。
「……避けやがったのよ」
雨雨も武甲帝が怪我を負っていないと言っていたのだ。その確認でもあった。光輝嬪は独り言のように続ける。
「まあ、あの野郎、あたしが殴りかかるのは予想してたんだろうなぁ。避ける動きもそうだし、その後の退避にも迷いがなかった。あたしの攻撃を避けつつ、建物を抜けながら南に真っ直ぐ。男の兵のいるところに誘導されてお縄だ」
後宮は護衛も全て宦官である。将であった光輝嬪を押さえるには力不足である可能性を考慮し、誘導したのであれば、この流れは初めから皇帝の手中にあったということだ。
ああ、なるほどと朱妃は気付く。
「光輝嬪、貴女の謹慎の理由はなんです?」
「宦官への暴力、それと後宮から無断で出ようとしたことだ」
皇帝に手を出そうとしたことは不問にしている、そういうことだ。光輝嬪は再び溜息をついた。
「嫌だね、お前も皇帝も頭が回りやがる」
朱妃は首を横に振った。
「陛下の考えをまだ理解できてはいませんわ」
「ってえと?」
「例えばなぜ本宮たちを『愛することはない』と仰ったのでしょう」
光輝嬪は蒼の瞳をきょとんとさせる。
「……そのままの意味じゃねえのか?」
「武甲帝は皇帝ですよ。王や汗がそのようなことを言いますか? もちろん本宮らが醜女であるというなら分かりますが……」
そう言って朱妃は慎ましやかな胸を押さえた。
「あたしが悪かった。以前あんたに傾国じゃないって言ったが醜女でもねえよ。まあなんだ、確かにそうだな」
ロプノールのホータン王も平原のシドゥルグ汗も複数の妃を娶っているのだ。瓏の皇帝ともあれば何をか言わんやである。
「普通に考えりゃ、わざわざ愛さないなんて言う必要はないし、抱かない意味もないってことか」
愛なんてあろうがなかろうが男は女を抱くものである。それが世継ぎを求められている皇帝であるなら特にそうせざるを得ないはずだ。
「さらに言えば、特にこうして異国より姫を呼んでそう告げるのは普通なら悪手な筈です。楽嬪や筍嬪のどちらかが寵愛の相手という可能性が無いとは言いませんが……」
「それなら先にそいつを床に呼ぶよな」
「妃の位もそちらに与えるでしょうしね」
うーんと二人は唸った。
光輝嬪は雀斑の載った鼻をぴくりと動かす。
「ところで美味そうな匂いがするな」
「ああ、差し入れなど持ってきたのですが忘れていました。食事は召し上がりましたか?」
彼女は首を横に振った。
「今日はまだだ。使用人やらは向かいの建物に押し込められたからな」
そう言って窓の外を見る。庭には羅羅と雨雨が座って話しているのが見えた。その向こうの倒坐房は使用人の棟である。
「残りもので申し訳ないのですけど」
朱妃らの昨日の朝食である。たくさん作った饅頭の残りに、また今日新たに肉を煮て挟んだ肉夾饃を差し出した。
「おいおい、ご馳走じゃねえか。良いのか?」
「もちろんですわ」
光輝嬪は嬉しそうにそれを手に取ると齧り付いた。
唇の端から垂れた肉汁を親指で拭ってぺろりと舐める様は豪快であると同時に艶かしい。
朱妃はそれを見ながらお茶を淹れた。
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