第57話:朱妃、事件を知る。
この日の朱妃は陳氏が戻った後、商皇后の茶会の使者を体調不良を理由に追い返したため、表に出るわけにも行かず永福宮でおとなしく過ごした。
庭の垂絲海棠の木と芝に水やりをし、後は基本的に刺繍をして過ごす。ロプノールの刺繍紋様だけではない。瓏帝国に入り、后妃らや女官、武甲皇帝の着ていた衣、彼女の脳裏には中原の意匠が蓄えられ、新たな図案を生み出していた。
午後は羣氏がまた宦官を宮に派遣してくれたため、宮の整備や清掃などが進んでいる。
食糧も彼らに持たせ、ある程度は消費できている。ただ、それでも余剰は出るし、きちんと使い切る体制を作る必要はあった。
そして夜、薪と水に余剰があるため、朱妃は連日風呂に入っている。砂漠のロプノールでは当然風呂などという習慣は無いし、瓏帝国北部にある玉京も乾燥した気候であり、そこまで湯浴みを頻繁に行うということはないというのに。
「奴婢たちまで湯をいただけるなんて」
「こんな贅沢たまりませんわー」
風呂場で雨雨と羅羅がはふぅ、と蕩けた声を発する。
しかも朱妃は彼女たちも風呂に入れた。
使用人が風呂に入る機会などそう多くはない。盥に湯を張って浸かれれば上等であるというのに、ここは妃のための金の風呂である。
「湯加減はどうかしら?」
風呂場の外から先に湯浴みを終えた朱妃が声をかける。
「最高ですー」
「気持ちいいですー」
この時、ふと朱妃は宮の外が騒がしいなと思ったのである。騒がしいのは朱妃の宮から東、つまり紫微城後宮の中心部であった。武甲帝の居である乾帝殿の方角である。
結局、騒ぎは少しして収まった。それがなんであったのか判ることなく朱妃らは眠りについた。
そして翌朝である。いつも通り食糧や水が運び込まれ雨雨が応対に向かうも、今日は尚宮の辛花はおらず、代わりに別の宦官が雨雨に何か伝えていた。そして彼らが帰ると雨雨は慌てて朱妃の寝室に戻ってきた。そしてこう言ったのである。
「朱妃様! 昨夜、光輝嬪が捕えられたそうです!」
「なんですって?」
朱妃、光輝嬪、筍嬪、楽嬪。異国より同時に後宮に入った四人の姫である。
その中でも光輝嬪こと北方遊牧民の姫、ゲレルトヤーンは朱妃と玉京までの船旅を共にした仲である。まあ、特に仲が良かった訳でもないが、それでも共に茶など喫したのだ。それが突然、捕えられたと言われれば心配もするのは道理であった。
雨雨は言う。
「光輝嬪が昨夜、武甲帝に夜伽の相手として呼ばれたと。そこで陛下に対して拳を振るったとのことです」
朱妃は天を仰いだ。
「皇帝陛下はご無事なのかしら」
「はい。お怪我はないそうです」
「それで、光輝嬪はどうなりました」
「宦官らが取り押さえようとするも光輝嬪は抵抗。宦官らを数名殴り倒したところで陛下は部屋より避難されましたが、彼女はそれを追いかけたようです」
「血の気が多すぎますわ」
朱妃は思わず呟いた。
「前宮と後宮の境界まで追ったところで紫軍、皇帝陛下の近衛に囲まれ取り押さえられたようです」
朱妃はなぜ彼女が怒り、そして暴力に訴えたのか分かる。
一昨日の夜、朱妃も経験したのだ。敬事房の宦官らに裸を確認される恥辱、そして荷物のようにして皇帝の前に運ばれて着いたら即、『爾を愛することはない』である。
朱妃をはじめ、暴力という選択肢のない女であれば身を震わせるだけだ。だが、草原で男たちを従えて馬を駆り、戦ってきたという光輝嬪であれば?
そこで拳が出るということもあるのだろうと朱妃は思った。
「それで今、光輝嬪はどうされていると?」
「彼女の住まう宮、禄寿宮に謹慎させられているとのことです」
朱妃は安堵の溜息をつき、思わず寝床に腰を下ろした。
「良かった。いえ、安堵するには早いのだけど」
「どういうことでしょう?」
雨雨は頷き、羅羅が尋ねる。
「皇帝陛下に殴りかかったということは、本来ならば即座に首を刎ねられてもおかしくないということよ」
「今も処刑されてしまう可能性があるということですか?」
「もちろん瓏帝国と遊牧民との関係を考えれば、そう簡単に殺すわけにはいかないだろうけど……」
「でも後宮の中のことはなかなか外に情報が漏れませんからね」
朱妃の言葉に雨雨がそう続けた。
先帝である天海帝の御代、そして死後。後宮内で次代の帝位を巡って権力闘争が行われたが、そのほとんどが表沙汰になることはなかった。玉宮の民も周辺諸国も、百はいたといわれる皇帝の直系男子がほぼ全員死ぬようなことになっていたとは思いもしなかったのである。
「……ああ」
朱妃の翡翠の瞳から涙が溢れ、慌てて羅羅が布でそれを押さえる。
「どうなさいました」
「こうなることを想像すべきだったわ。昨日休んでいるべきではなかった。少なくとも光輝嬪に手紙など出すべきだったのよ」
皇帝に愛されないと言われること、これを光輝嬪には伝えておくべきであった。そう事前に言われていれば彼女が激昂することもなかったであろう。そう朱妃は後悔し、涙を落としたのである。





