第5話:シュヘラ姫、吃驚する。
さて、一眠りして翌日である。朝食前に陳医官がやってきて様子を見にきた。
「おはよう、姫様がた。調子はどうかね?」
気さくな様子で問診する。
「すっかり元気ですわ」
シュヘラは微笑んだ。
「それは善哉。食事はどうかな?」
シュヘラの腹はそれに雄弁に答え、陳医官は呵々と笑った。若い彼女にとって、元気になれば、粥だけの夕飯では保たないのが道理。彼女は顔を赤くして俯いた。
「腹の虫が鳴るのも健康なればこそ。妃嬪は健康であることが何より大事じゃしな。しっかり朝食をとってもらいましょう。これから癸氏には元気であると報告しておくから、食後に訪いがあるじゃろう」
そう言って陳医官は部屋を辞去した。
直ぐに食事が運ばれる。昨日の夕飯と同じ粥に、今朝は油条と点心、林檎までついていた。
彼女はそれをぺろりと平らげる。
同室のロウラはお湯を貰い、主のために茶の用意までしてから、自分の食事に取り掛かった。
「ゆっくりお食べなさいな」
シュヘラはそう言うが、これから癸氏が来るというならそうも言ってられない。訪までに主の身嗜みを整えるのはロウラの仕事なのだから。
ロウラは癸氏を帝の側近と考えている。ここでの振る舞いや様子が武甲帝に報告される可能性があるとなれば、手を抜くなどとんでもないのだ。
と言ってもロプノールの正装は西方国家のドレスのように、胴を細く見せるために数人がかりで紐を引いて腹を押さえつけたり、瓏帝国の皇后のように髪を盛るのに一刻もかけたりはしない。
––皇后には梳頭なんていう、髪に櫛を入れる専門の宦官がいたりするらしいですからね!
ロプノールの文化の系統としては遊牧民のそれに近い。代々継がれる布に精緻な刺繍を加えていくという、布の準備に関しては洋の東西どこよりも時間をかけているかもしれない。だが着付けそのものに関してはそこまで時間がかからないとも言えた。
着付けの後に唇に紅を乗せて、紗で顔を覆う。
そうして用意ができた頃、癸氏がやってきた。
彼は瓏服のゆったりとした袖の内で手を合わせて優雅に腰を折った。緑がかった射干玉の髪がシュヘラの前で揺れる。
「シュヘラ姫、御気分は如何でしょう」
「ええ、問題ないわ。良くしていただいて。そういえば今日は船がほとんど揺れませんのね」
昨日は出港してすぐに船は大きく揺れていたのだ。それもあって船酔いしてしまったのだと思う。
「ああ、龍の胴に入ったのでしょう」
シュヘラが首を傾げると、癸氏は彼女の座る向かい、座席につく。
「ではその話から始めましょうか。伝承によれば、神代の世界は混沌としていましたが、万象が五行の相を帯びたことで、青龍は東海に住まうと定められました。ですが龍のうちの一体が西方の山脈で寝ていたといいます。慌てて起きて東へと急いでいる様が龍河なのであると」
「まあ、ねぼすけさんですわね」
シュヘラは口元を隠して笑い、癸氏は頷いた。
「それ故に、龍河は上流を龍の尾、中流を龍の胴、下流を龍の頸、河口を龍の頭などと言うのです」
なるほど、一般に河は上流の方が流れが速く、また河底に大きな岩でもあれば、水流が乱れやすい。龍の胴に入ったとは中流に入ったということかと思う。
シュヘラは頷いた。
「特に龍の尾から龍の胴に入るところは龍の後脚と呼ばれる支流が合流するところです。それ故に大きく揺れたのでしょう」
––それなら龍の胴に入るところまで馬車で移動して、そこから船に乗るわけにはいかなかったのかしら?
そう思わなくもない。
とはいえ、馬車は馬車で尻が痛くなるので痛し痒しではあるが。
「主上のおわす、紫微城は玉京の都にあります。龍河の河口付近の北側に位置し、龍の瞳とも言われますね」
シュヘラはふむふむと頷いた。
「船を降りたら騾車、騾馬に牽かせる車に乗って玉京へ。市中では輿に乗って紫微城の後宮へ妃としてお入りいただくことになります」
ふむふむと頷いていた動きが止まる。
壁際で控えて話を聞いていたロウラも息を呑んだ。
「お待ちになって。今、妃と仰いましたか?」
「是」
癸氏は肯定する。
「私は嬪として後宮に入ると伺っていたのですけど⁉︎」
シュヘラは思わず立ち上がって声を上げた。
大商人が正妻と妾を持つように、皇帝の正妻とは皇后である。後宮にいる妃嬪は規模は違えど、全ては妾のようなものだ。
ただ、規模が違う故に、妃嬪のうちには明確な上下関係があった。
序列順に、上から貴妃、妃、嬪、貴人、常在、答応、官女子。
今回の武甲帝の親征においてはロプノール王国はじめ、帝国周辺の各国から朝貢として姫を供させた。
それらはもちろん姫である故に下級にはおけない。だが、一方で従属国の姫である故に最上位でもない。
序列三位にあたる嬪に置くと決まっていたはずだった。
しかし、癸氏は首を横に振った。
「シュヘラ姫は序列二位である妃になると決まりました」
「……他の国の姫も妃におくということですか?」
癸氏は再び首を横に振る。
「否。シュヘラ姫のみが妃となります」
シュヘラの顔が色を失った。