第53話:朱妃、覗き見する。
朱妃たちのいる永福宮は四合院造り。庭を中心に四つの棟が取り囲んでいる構造であり、彼女らは今、主人らの館である北の正房にいる。南向きの窓からは格子越しに庭の垂絲海棠の木の向こう、厨房などのある倒坐房が見える。
そのさらに向こう、宮の南東の隅に門があるのだが、今その扉が開け放たれ、警備用の杖を持った宦官が庭へと入ってきた。
彼の名は知らないが、内僕局、輿を運ぶことなどを担当する宦官たちの所属する部署の者であり、羣氏の部下である。癸氏と羣氏の厚意により、本来の業務ではない永福宮の警備を務めて貰っているのである。
寝着から着替えて窓の外を眺めていた朱妃が言う。
「羅羅、雨雨お客様みたいよ」
「ああ、はいはい。すぐ行ってきます。朱妃様はごゆっくりしていて下さいね」
羅羅はまだ朱妃の柘榴色の髪を梳っているので、雨雨が対応しようとして立ち止まった。
「ちょっと失礼します」
雨雨は戻ってきて朱妃が見ていた窓の帘幕を閉じた。そして正房の扉が叩かれる音が聞こえ、急いで階下へと向かった。
薄暗くなった部屋の中で朱妃と羅羅は首を傾げる。
「なんでしょう?」
「外を見るなか、隠れていろかしら?」
まあ、特に言われなかったしと帘幕を少しだけずらして隙間から朱妃が庭を見下ろしていると、雨雨と護衛が正房の前から庭を横切り南へと向かうのが見えた。少しすると二人に先導されて門から荷車とそれを牽く宦官を従えた女官が現れた。
「まぁ。また辛花さんたちが来ているわね」
「そうなのですか?」
羅羅も朱妃の肩越しに隙間から外を見る。
毎朝、全ての宮にはその妃嬪の位に応じた量の食糧や清浄な水が運ばれる。これはその宮の使用人らが食べる分も含まれているのだが、後宮女官らが朱妃に嫌がらせをしているというのがここにあるのである。
朱妃は妃の位にあるので本来なら数多の使用人を抱える立場である。しかし朱妃に女官や宦官を仕えさせることなく、与えられる食糧はその位の通り、例えば肉は日に十六斤与えられているのである。到底食べ切れるものではない。
昨日は羣氏らに振る舞ったり、一部を乾肉に加工し始めることで凌いでいるが、早晩、宮が食糧で溢れることは明らかであった。
「何を話しているのかしらね」
視線の先では宦官らが倒坐房に肉や水の入った甕を運んでいる様と、庭で話をする辛花と雨雨の姿が見える。
辛花は後宮女官の長である尚宮である。その彼女自ら、連日この早朝に妃の宮にやってくるというのは異常なことであった。
さて、声は聞こえないが辛花は何やら機嫌が良くないようだ。一度、朱妃たちのいる本房の寝室の方をキッと見上げてきたので思わず二人はびくりと窓から身を離した。
彼女らが帰ったのを確認し、身嗜みも整えてから朱妃らが寝室から出て外に出ると、正房の玄関のところで雨雨が待っていた。
「おはようございます」
「おはよう、雨雨。対応ありがとうございます」
三人は庭を渡って倒坐房へと向かう。
庭はまだ東の棟の影に沈んでいる時間だが、西側の瑠璃色の甍は陽光に煌めいている。
朱妃の肩の上で機嫌よさそうにダーダーが鳴く。
「きー」
「そうねー。良い天気ねー」
朱妃が答えれば雨雨はくすくすと笑った。
「朱妃様がダーダーとお話しているみたいで」
「ずっと一緒にいらっしゃいますからね。それより尚宮は何と?」
羅羅は答えて、話を促した。
「そうですねえ、まず今日の肉は牛が八斤に豚が四斤、それに鶏が三羽だそうです」
雨雨の言葉に朱妃と羅羅はうへぇ、と顔をしかめた。
肉の種類は違えど、また肉が十六斤積み上げられたのである。また昨日は葉物野菜こそ使い切ったが、根菜や小麦などは残っている。肉に加えてそれらも積み上げられたのは明らかであった。
朱妃は尋ねる。
「こっちを怒ったように見上げていたけど何だったのかしら?」
「見ておられましたか。朱妃様にお目どおりしたかったのですよ」
「あら、行かなくて良かったの?」
「ええ、彼女の目的は昨夜どうだったかの探りですからね。昨日のお渡りが事実かどうかの確認に来たのですよ」
昨日の夜、朱妃は武甲皇帝に閨に呼ばれたのである。
ああ、と朱妃は得心した。なるほど、それは後宮における最重要の関心ごとであろう。
「それで、どうしたの?」
「朱妃様はお疲れでまだぐっすりお休みですわ、とだけ伝えておきました」
三人は笑う。なるほど、そうとぼけられたら追求もできないであろう。
倒坐房に入り、雨雨は扉を閉めると朱妃と羅羅の頭を寄せて声を顰めて言った。
「朱妃様、失礼致します。確認させていただきたいのですが陛下に抱かれていませんね?」
朱妃は裸で抱きしめられたことを思い出し、赤面する。だが雨雨が問うているのはそういう意味ではない。
「ええ、交合はしていないわ」
「畏まりました。ありがとうございます」
雨雨も羅羅も昨夜、戻ってきた後の朱妃の裸身を見ている。彼女が交合をしていないのは明らかであったため、意外ではない。
雨雨は続ける。
「奴婢は癸昭様付きの女官でしたし、後宮には詳しくないのですが、それでも皇帝陛下が女を抱かないという噂は聞こえていました」
「『爾を愛することはない』と言われたわ」
「まあ、朱妃様に何と失礼な!」
羅羅は憤った。





