閑話4:聖君、古き詩の一節を詠む。
朱妃は羅羅と共に浴室へと向かった。そちらからは「しゅしゅしゅ朱妃様、血が!」とか「ええ、だから返り血だから大丈夫よ」などと声が響く。
「こちらにどうぞお掛けください、すぐにお茶をお淹れいたしますから」
一方で雨雨は臉譜の男を卓に誘った。元より、朱妃が戻ってきた時のために湯や茶、軽食の用意はしてあったのだ。
「癸昭様、いや聖君様、ふふ」
彼女は名を呼びながら思わずといったように笑みを溢した。
男は椅子に腰掛けながら溜息を一つ。
「お前に聖君と呼ばれるのもな」
男が顔に手をやってひと撫ですると、赤を基調とした臉譜はたちまちのうちに掻き消え、癸氏の精悍な顔が現われた。仮面早替わりの秘術が如き技である。
雨雨は手元の器に茶を注いで彼の前に置くと、癸氏に尋ねる。
「して、如何いたしましたか」
癸氏は茶を喫しつつ、敬事房の宦官らが朱妃を襲おうとしていた旨について話す。自分が彼らを斬り殺し、朱妃をここまで抱えてきたことを。
話がひと段落つくと、雨雨は拱手して深々と腰を折った。
「癸昭様、我が主人をお助け下さいましたこと、心より感謝いたします」
「うむ。まあ在下に……俺にとっても彼女は守るべき者であるからな」
癸氏にとって今回遠方より後宮に集めた四人の妃嬪は、辛氏の、あるいは辛慈太皇太后の影響下にない貴重な手駒である。
そして朱妃はその中でも待望の、その身に火を強く宿した姫であった。
癸氏が自ら護りに行くのも当然と言える。
だが、それにしても雨雨の言葉である。癸氏は雨雨が再び注いだ茶を口に運びつつ、笑みを浮かべた。
「我が部下たる雨雨よ。お前が朱妃のことを主人と呼ぶとはな。彼女に仕えるべき価値を見出したか」
本来は癸氏に仕える女官であった雨雨であり、今も書面上は癸氏のところから出向している、要は朱妃に貸している扱いである彼女だ。それが癸氏に対して、朱妃を我が主人と言うとは。
雨雨もまた笑みを浮かべて答える。
「朱妃様に中原の后妃や公主、貴人として求められる資質は無いでしょうね」
彼女は敢えてそう言った。
「む?」
「自ら手を動かすことは貴人として相応しくはありません」
貴人とは命ずるものであって、自らなにかを為すことは貴人としての資質を疑われるのである。例えば手にしたものを落とした時、それを自ら拾うだけで馬鹿にされるということだ。
洋の東西を問わずこういった文化はあるが、瓏の宮中にはその傾向が強かった。
朱妃は今回、女官や宦官ら仕える者らのいない生活を強要されたのもあるが、竈に火を付け、食事を作り、木に水をやるなど、自ら動く姿勢を見せた。これはそもそもロプノールでも冷遇されていたがため、自ら動くことが染み付いているといえる。
「ふむ。確かにな」
癸氏もまた彼女を御座船の時から観察しているが、その傾向は見てとれた。軍属の嫁などはいざという時のため自ら厨に立つこともある者も多いとはいうが、確かに后妃や公主のすべき動きではない。
しかし雨雨は続ける。
「ですが朱妃様には徳があります」
「なるほど……なるほどな。徳か」
いわゆる五徳。仁、義、礼、智、信は尊ばれるものであり、徳高き者を君子という。皇帝すら君子たるべきとされるものであるが、奴婢に傅かれる様に徳はあろうか?
今の瓏の貴人らのうちに、あるいは宮中の役人、宦官、女官らのうちにそれらはどれだけ見られようか。
雨雨が朱妃にそれを見出したというならそれはまた価値あることであろう。
「蓮華之君子者也」
癸氏は古き詩の一節を詠んだ。
「ええ、朱妃様には後宮なる泥中に咲く清廉なる華であり続けて欲しいものです」
二人は笑みを交わした。
「きゃあ!」
風呂の方から羅羅の悲鳴が聞こえる。
「朱妃様! お風呂の中で眠らないで下さいませ! 朱妃様!」
「すー…………」
「ああ、お疲れでしょうけど、それでは溺れてしまいます!」
癸氏は顔に手をやると、再びその顔は赤の臉譜で覆われた。
「雨雨よ、朱妃の身体を拭い布で隠しておけ。俺が寝床まで運ぼう」
まあ隠せといっても、癸氏は先ほど朱妃の裸身を目にしているのであるが。
「御意。ありがとうございます」
そうして癸氏は朱妃を抱き上げて浴室より寝床まで運び、永福宮を後にしたのであった。
宦官らの警備に見つからないよう、屋根の瓦の上や木々を伝って。
ξ˚⊿˚)ξこれで四章終わりです。半端なところで長々と間空いてしまい申し訳ない。
五章は二日に一話くらいのペースで更新できればなと思っています。
書籍情報に関しては24日頃くらいに表紙等の情報が公開できるようになると思いますので、後書きや活動報告などで告知させていただきます。
よろしくお願いしますー。