第51話:朱妃、寝落ちする。
ξ˚⊿˚)ξお久しぶりです。諸々は後書きと活動報告に。
仮面の男に抱きかかえられて、朱妃は永福宮の門前に降り立つ。
体術の極みか、あるいは神仙の技か。音をたてることなく、また朱妃にほとんど衝撃も伝わらないように壁の上から石畳にふわりと飛び降りた。
永福宮の門前に番人として立つ内僕の宦官らは一瞬呆然とした様子を見せながらも、慌てて男に棒を突きつけて誰何する。
「止まれ! 何奴だ⁉︎」
朱妃もまた慌てて答える。
「ほ、本宮です。朱緋蘭ですわ!」
「おお、朱妃様! ……しかしそちらは? 敬事房の宦官には見えませんが」
朱妃はちらりと抱き上げられている男を見上げた。紅の臉譜を被った、おそらくは癸氏であろう男。
「えっとぉ……聖君です。私の、命の恩人ですわ。武器を下ろしなさい」
番人らはあからさまな偽名に一瞬困惑を表情に浮かべならも、手にした棒を下ろした。
「聖君ですか……確かにその瞼譜はそのものですが。しかし命の恩人とは。敬事房の者はどうされました」
「皇上のもとからの帰り道、彼らに襲われたのです」
「なんと!」
「敬事房の者らに襲われる直前、こちらの聖君に救っていただきました」
番人の宦官らも敬事房の悪辣さに顔を顰めた。
それは有名である。後宮における公然の秘密と言っても良い。
敬事房の太監が、皇帝の晩膳の後に、彼の前に妃嬪らの名の書かれた木片を銀の盆に載せて現れ、皇帝が返した木片の名の妃嬪が伽の相手を務めるということは朱妃も雨雨から教わった。
これを膳牌というが、これについて朱妃は気付いていないことがある。後宮の妃嬪の人数は数百や場合によっては千を超え、決してその全てを盆に載せられるようなものではないということだ。
つまり、最終的に膳牌で伽の相手を選ぶのは皇帝陛下その人であるにせよ、数百の妃嬪から銀盆に載る十人程度を選ぶのは敬事房の宦官らの胸先三寸なのである。
そこで自分の名を盆に載せさせるために賄賂が横行する。とはいえ瓏は、いや中原は古来より賄賂の横行する文化である。妃嬪らから敬事房の太監らに袖の下が贈られているだけなら悪辣とまでは言われまい。
お前の名を盆に載せぬぞと宦官が妃嬪を脅迫して賄賂や便宜を強要したり、肉体関係を迫るのが悪辣なのだ。
ちなみに男の象徴を切り取っている宦官だが、これにより獣欲が失われることはまずないのである。
「もし、朱妃様がお戻りですか?」
羅羅の声であった。門での騒ぎが聞こえたのだろう。宮の中から様子を伺いに来たようである。
「羅羅、ここよ」
朱妃は答える。思ったより元気そうな声に安堵したのか、羅羅は小走りに近寄り……。
「ひえぇっ!」
そして悲鳴を上げた。倒れそうになり、番人に支えられる。
闇に浮かぶ紅の臉譜を見て驚愕したのだろう。
「では達者でな」
そう言いながら聖君は身を屈めた。朱妃を地に降ろすべく。
朱妃は聖君の袖をきゅっと握った。
「せめて些少なりとも感謝の気持ちを受けていただけませぬか」
「義により為したのみ、礼など不要である」
武勇に長け、義を重んじたとされる聖君である。男は演劇などでよく使われる聖君の台詞で言葉を返した。
朱妃は笑う。
「聖君ともあろう方が女を門から宮まで裸足で歩かせはしないでしょう」
男は嘆息し、立ち上がった。そして朱妃を抱え直すと、すたすたと永福宮の本房へと歩み始めた。羅羅たちはその後を追う。
本房の前には雨雨がいて、主人の帰りを拱手して迎えた。
「朱妃様、お帰りなさいませ。そしてお客人、朱妃様をお連れくださったこと感謝いたします」
男は、うむ、と唸るように答えて本房に歩む。そして絨毯の上に朱妃をそっと立たせた。
柔らかい毛が朱妃の足裏を包み込むように支えるも、朱妃の足腰に力が入らなかった。慌てて駆け寄った羅羅と男にそれぞれの手を取られ、なんとか転倒はせずに済んだという有様だ。
「御免なさいね。今宵は色々なことがあり過ぎました……」
「朱妃様、血の臭いが強く」
「破瓜や怪我ではない。返り血だ」
聖君の言葉に羅羅も雨雨も困惑と心配を表情に浮かべた。雨雨が顎に手を当て、少し考えてから言う。
「朱妃様、お風呂を温めてあります。羅羅さんの介添でお入りくださいませ。そしてお客様、せめてのおもてなしに茶を供しますのでお付き合い頂けますね?」
朱妃は雨雨の身体から立ち昇る怒気を感じる。朱妃はそこにかつて一度見た小熊猫が立ち上がり、威嚇の姿勢をとっているところを幻視した。
つまり、あまり怖くはないということだ。
だが聖君なる男は殊勝に頭を下げて言った。
「茶をいただきましょう」
そういうことになった。
朱妃は数刻前に入ったばかりの金に輝く風呂場へと向かう。
そこで羅羅に今日の顛末を話しながら返り血を落とし、そして湯船に浸かっているうちに疲労が襲ってきたか眠ってしまったらしい。
気づいた時には朝日が僅かに差し込む寝室で、羅羅と雨雨と並んで寝床に横たわっていたのであった。
枕元には黒く艶やかな鱗のダーダーの姿。朱妃の身動ぎに合わせて目を醒ましたのか、舌をちろりと出して小さく鳴いた。
「きー」
朱妃はその背を指で撫でながら呟く。
「あの後、どうなったのかしら」
夜明けの寝室に、朱妃の声がぽつりと響いた。
朱太后秘録、書籍化します。
2023年9月頭にアーススタールナノベル様からです。よろしくお願いします。
病気で倒れていたり、書籍化作業などありまして長らくお休みをいただきました。
今話と明日投稿の閑話で4章は終わりです。
5章ですが、二日に一話くらいのペースで連載できればいいなと思っておりますので今後ともよろしくお願いします!