第50話:朱妃、宮へと戻る。
「なっ! ひ、ひいっ!」
もう一人の宦官が悲鳴をあげつつ地面に尻をつく。
臉譜、即ち仮面を被った男であった。
身の丈六尺、堂々たる体躯の上の顔は黒白の隈取がなされた紅面であった。異邦人である朱妃ですらその物語を読んだことのある、古代中原の英雄を模した伝統の意匠の面である。
演劇であれば見栄を切る場面であろうが、男はただぽつりと闇に言葉を落とす。
「妃を脅す権限が宦官ら如きにあるとでも?」
「け、敬事房太監様に逆らうか!」
仮面の男は冷笑した。
「それはお前の上司であり、俺の上司ではない。そしてお前が太監に泣きつく機会などもはやない」
宦官は地面を後退りながら言う。
「ええい、貴様! 貴様っ! 宦官ではないな? 男が後宮に入るのも、後宮で刃を持つのも禁じられている! 罰が下るぞ!」
後宮では料理人を除き、刃を持つことは許可されない。后妃らの護衛ですら宦官たちが努め、その得物は棒である。
「そうだな。俺は罪を犯している。だがそれは貴様もだ」
妃を宮に返すべきところをこうして暗がりに連れ込むことが、正しき行いである筈はない。
白刃が闇に円弧の軌跡を描き、宦官の首が落ちた。力なく胴が倒れ、地面に紅が広がっていく。
目の前で二人の命があっけなく奪われたことに朱妃が呆然としていると、地面を靴が叩く音が聞こえた。
男が朱妃の前に立ったのだ。
朱妃の前の白刃からは血が垂れる。そして朱妃ははっと気づく。
それは刀ではなく剣であった。片刃ではなく諸刃、その剣身は弧を描かず直だったのである。
剣は身分卑き者の兵器ではない。武神が創造し、その手にあったとされる剣は、古代では王のみが持つことを許されていた時代もあるほどだ。
瓏帝国においては流石にそこまでではなく、官僚らの腰には剣がある。だがそれはあくまでも象徴的なものであり、それが抜かれることはない。
それは彼らが文官であることもあるが、剣を扱う者がいないということでもある。剣を武術として扱う、剣術を知る者がいないということだ。
「あ……」
しかしこの男性は剣をただ振ったのではない。そこには明らかな武の理があった。素人が剣を振って首を断てる筈がないのだ。
朱妃は慌てて居住まいを正し、跪拝した。
「皇帝陛下に在らせられましょうや」
頭上より咳払いが一つ。
「いや。面を上げなさい」
朱妃はゆっくりと顔を上げる。
「では、癸昭大人で御座いましょうや?」
仮面の下だからか、何らかの技術で声色を変じているのか。似ているように思うが確信は持てない。だがその体格や、朱妃を守ろうとする人物として考えれば、その二人かそれに命じられた者しかあり得ないだろうと思う。そして刀ではなく剣を扱うとなれば部下とも考え難い。
朱妃が見詰めれば、仮面の男は少し動揺しているようにも見える。
「……我は聖君としておいてくれ」
男はその仮面の模した英雄の神格化された名を告げた。
朱妃は場違いにも思わずくすりと笑い、頭を下げた。
「では偉大なる聖君様。我が身を救っていただき、恐悦至極に御座います」
「ん、うむ。先程も言ったが礼はもう良い」
男はそう言うと剣を懐より取り出した布で拭うと鞘に収めた。
朱妃の身がぶるりと震える。秋の夜に屋外で全裸である。そして地面に座っていれば体温が奪われるのも当然であった。
男は裘を拾い上げると、朱妃の身体に羽織らせた。
「立てるか?」
朱妃はゆっくりと立ち上がる。だがその足は素足である。男は僅かに嘆息し、朱妃の膝裏に手を差し込んだ。
「失礼」
朱妃の視界がぐるりと動く。
朱妃の背中と膝裏で支えられて男に抱き上げられているのだ。男の体幹は小揺るぎもしない。男は女一人を抱えているとは思えぬしっかりとした足取りで歩き始める。
「揺れるぞ、首に手を回せ」
朱妃はおずおずとした動きで男に抱きついた。
すると強く抱きしめられたかと思うと、衝撃が身体を襲った。
「きゃっ!」
男は朱妃を抱えたまま、猿の如く、壁の飾りを足場にして壁の上へと刹那のうちに登ったのである。
甍を踏む男の胸の中、朱妃がちらと目を向ければ、紫微城の外は堀の水面に月が映るのが見える。
城の内、さっきまでいた場所には元から転がっていた幼い宦官の死体の横に、血を撒き散らした二人の宦官の死体が転がっていた。
そして後宮の角の向こうから手灯籠の明かりが近づいてきていた。後宮の夜警の巡回であろうか。男がこれに気づき、壁を登ったのは明らかであった。
「移動するぞ、静かにな」
男は朱妃の耳元で囁くように言い、朱妃が頷くのを見て壁の上を音もなく走り始めた。
その場を離れた直後、背後から宦官らの悲鳴が聞こえた。
こうして朱妃は抱え上げられたまま、屋根や壁の上を伝って永福宮へと戻ったのである。