第49話:朱妃、壁際に追い詰められる。
武甲皇帝陛下の夜伽の相手を務める。実際には交合することはなかったにせよ、初対面の皇帝に抱かれねばならないという重圧。そして宦官らに裸身を晒さねばならないという恥辱。
朱妃は精神的に疲労困憊し、敬事房の宦官に運ばれながらぐったりとしていた。それが隙といえば隙であったのかもしれない。
朱妃ははっと気付く。
まだ後宮に不慣れであるが、それでも分かる。行きと道が違う。これは永福宮への帰り道ではないと。
「何処へ」
そう言うが、宦官らは答えない。
「何処へ向かっているのです!」
その身を運ばれ、全身を揺すられながらでは大声を出すことすら難しい。悲鳴を上げようと思えば顎を押さえられる。
空気に夜の冷たさと、悪臭が混じるようになった。
朱妃は頭の中で地図を描く。おそらく向かっているのは後宮の北西。そう思えば今、闇に浮かんで見えるのは西八宮だろうか。
後宮入りの際に、嘲りの言葉と馬糞を投げつけられたところである。
朱妃は気付く、悪臭は糞尿の臭いであると。それに加え、死臭が漂っている。
路上にぽつんと人が倒れている。朱妃の目が驚愕に開いた。
それは痩せて襤褸を纏った少年の宦官であった。冷たい石畳の上にあって彼の身体は微動だにしていない。
「痛っ!」
どさり、と朱妃の身体が後宮の端、外壁のそばに落とされた。
壁には瑠璃色や黄色に焼かれた七宝を配して描かれた何匹もの龍が壁に踊る。
その絢爛たる美しさと、死体の転がったままの醜悪さに眩暈すら感じた。
思わず痛いとは言ったが、尻から落とされているしそこまで痛みがあったわけではない。だが突然のことで驚きがそう言わせたのだった。何があったかと朱妃が見上げれば、彼女を抱えていた宦官らが朱妃の翠の瞳を覗き込むかのように顔を寄せていた。
ひょろっとした髭の上、口が動く。
「妃よ。皇上に何を吹き込んだ」
宦官らは交互に言う。
「乾坤殿にて妃嬪らが皇上に話をすることは許されておらぬ」
「女が政治に関わらぬよう、世を乱さぬようにな」
「うむ。外戚どもがのさばらぬように」
なるほど、言い分自体は分かると朱妃は思う。
傾国傾城。女が政治に口出しをし、世が乱れ国が亡くなる例は枚挙にいとまがない。王妃の一族が宮廷を、政治を牛耳るという話もよく聞くものだ。幼き王を擁立し、その摂政などとして実質的な最高権力者になるなどと。
そして宦官とはそもそも外戚を排する働きがある。つまり、彼らは子を為せぬために外戚とは無縁であるからである。
「随分と無礼な言葉を放つものですね」
朱妃はそう言った。
彼らの言葉はおためごかしに過ぎない。後宮に入って二日目の朱妃にすら分かること。
尚宮が皇后と同じ辛姓であることから考えれば、既に外戚は権力を握っているし、宦官らが握った権力を減じないようにそう言っているに過ぎないのだ。
案の定、彼らは馬鹿にしたような視線で朱妃を見下す。
「妃と上位の妃嬪であるから自惚れているか? 妃嬪如き、それも夷狄の者が我らに逆らえると思わぬことだな」
朱妃が疎まれた姫であったことを彼らが知らぬとしても、生国ロプノールは遥か遠い。助力がこの後宮に及ばぬのは事実である。
「然り。貴妃であろうとも我らの助力なければ生活も出来ぬし、皇上に呼ばれることもないのだ」
なるほど、後宮の女達の生活を支えるのは宦官らの働きあってのことであろう。だが朱妃にとって笑ってしまうことでもある。
「ふふ」
「何が可笑しい?」
「確かにそれは正しいのでしょう。でも本宮がこの後宮に入った日、本宮の生活を支えるべき宦官は誰一人居なかったわ。その不手際を皇帝陛下にお伝えしていたの」
「貴様!」
宦官は声を荒げる。
「何を怒るの? ただ事実を伝えただけだわ」
「それは我らの管轄ではない!」
確かにそうであろう。後宮の宦官は万を超える。その中にはそこで屍を晒すような最下層の者も、皇帝の側に侍るような高位の者もいる。
宦官は無数の部署に分かれ、確かにいま朱妃を問い詰める彼らと、永福宮にて朱妃に仕えるはずであった宦官に関係はないだろう。
「敬事房でしたか? それを責めた訳ではありませんわ」
朱妃はそう言うが、彼らの怒りは収まらない。
「妃よ。図に乗るなよ。皇上にそう告げればまず責められるは皇上の近くにお控えする敬事太監であることくらい考えよ」
宦官がそう言った時であった。
彼らの背後から新たな声が掛けられる。
「図に乗っているのは貴様らだ、宦官ども」
ぐっ、と正面の宦官がくぐもった声が漏らした。
月光に照らされ、彼の喉から銀色のものが突き出しているのが朱妃の目に映る。
それは刃であった。宦官は何が起きたか分からぬと困惑を表情に浮かべて喉に手を当てようとする。
しかし刃は触れられる前に引き抜かれ、宦官は喉から奇妙な音を立てながら横に倒れた。
赤く、生温かい液体が朱妃の裸身を濡らした。