第47話:朱妃、愛さないと宣言される。
朱妃が竜床の足元側から枕の方へとにじり寄れば、夜の帷の中、低く落ち着いた声が響いた。
「朕が、爾を愛することはない」
––⁉︎
しかし、その内容は朱妃を困惑させるのに充分なものであった。
横たわっていると伝えられていた武甲帝。しかし皇帝陛下は寝台の枕のあたりに座っていた。勿論朱妃は皇帝を目にするのは初めてである。しかし、部屋には朱妃の他に彼一人の姿しかなく、そして彼女が寝台につくなりそう言い放ったのだった。
朱妃はあわてて寝台の逆端、足の側に両の膝をつく。絹の布団の肌触りはぬめやかで、羽毛は軽くて身体が沈み込んでいってしまいそうなほどに感じた。
––起きてるじゃない!
彼女は寝台の上で平伏する。慌てた動きに柘榴色の髪が闇の中で踊った。
沈黙が閨に落ちる。作法としては皇帝陛下の次の御言葉を待つべきだっただろう。だが静けさに耐えきれず、朱妃は不敬と知りつつも問いかけた。
「瓏帝国の主たる武甲皇帝陛下に言上仕ります。本宮に……寵をいただけぬということでございましょうか」
まだ少し覚束ない帝国語で尋ねた。
「朱妃……、朱緋蘭と申すのであったな」
しかし武甲帝はそれには答えず、彼女の名をゆっくりと口に乗せた。
「はい」
「面を上げよ」
朱妃は礼法通り伏し目がちにゆっくりと視線を上げていく。長い睫毛の下に翡翠の瞳が覗いた。
彼女にまず見えてくるのは武甲帝の胸元、衣に金糸で施された龍の刺繍。その装束の色も、五爪の龍の紋様も皇帝陛下にのみ使うことが許されたものだ。
龍は僅かに灯された明かりに照らされ、闇の中で浮かび上がって彼女を睨みつけているかのようである。
さらに顔を上げていけば、まだ若く、端正で、しかし威厳のある皇帝の尊顔が見えてくる。
闇に溶けるような射干玉の黒髪は、光の塩梅か、艶やかに輝いていた。
「改めて告げる。朕が爾を愛することはない。故に抱くこともない」
その言葉通り、真っ直ぐ彼女を見つめる皇帝の視線からは色を感じない。その向かいに座る朱妃が一糸纏わぬ姿であるというのに。
肌の色は丁子色、瓏帝国人のそれよりも濃い色合いで、遠く離れた地から彼女が渡ってきたことを示している。
肌には染みひとつない瑞々しさで、胸元の双丘はまろやかな曲線を描いている。
しかし、朱妃はもはやほとんど恥じらいを感じていなかった。
––もぅー……。正直、ちょっといらっとします。
彼女の頭を占めるのはほとんどが苛立ちと不安である。
「一つ、伺いたき義がございます」
不敬を承知で翡翠の瞳と黒き瞳を合わせて尋ねる。皇帝は鷹揚に頷いた。
「許そう」
朱妃が後宮にやってから受けてきた仕打ちや、つい先ほど宦官らに裸を確認されて連れてこられた事が思い起こされる。
––そして今になって『愛さない、抱かない』って。……もうちょっと何とかならなかったのかしら? ……ですが、これだけは尋ねておかねば。
「それは本宮が生国、ロプノールを蔑ろにするということでありましょうや?」
彼女は遥か西方はロプノール王国の姫であったのだ。たとえかの地の王宮で疎まれ、物置が如き部屋で起居していたような姫であろうとも。
それでも一国の姫として、母国に瓏帝国の矛が向かうようなことは避けねばならない。それが彼女の務めであり、矜持でもあった。
「否。過度な厚遇はしない。だが蔑ろにはせぬと皇帝の名に誓おう」
そこで彼女はそっと安堵の溜息を吐き、そして外気に晒されているが故か、緊張が解けた故か。一度ぶるりと身を震わせたのだった。
––やれやれですわ。まあ、これで最低限の仕事は果たしているということなのでしょうかね?
ちらりと朱妃は上目遣いに武甲帝を見る。
髭を生やした美丈夫である。身体が光を遮っているからか口元が暗く陰となっているように見えた。座っているため身長は分からないが、それでも良い体格をしていて、筋肉質の引き締まった肉付きなのは明らかである。
どことなく、癸氏と似ているように思う。昼に会った彼と夜に会った皇帝では印象も全く違うが、少なくとも体格は同じくらいではある。
それとも単に瓏帝国の男性を見る機会がまだ少なすぎるせいで、似ているように思えるだけだろうか?
朱妃がそのようなことを考えていると武甲帝が口を開く。
「他、何かあるか」
言いたいことは山ほどある。だが口にするには明らかに不敬なこともあろう。
はっと気付く。この部屋は宦官らに監視されている。あるいはそれ以外にも秘された護衛や隠密など朱妃には見えず聞こえぬ者らも控えているやもしれぬ。
癸氏は現在の窮状を皇帝に伝えよと言っていた。皇帝は味方である、あるいは味方となり得るのかもしれない。だが、宦官らはどうか?
宦官らから女官や皇后殿下の耳に入ることはないのであろうか?
「これ以上、この場で申せる儀は御座いません」
皇帝陛下の目が笑みに弧を描くのを感じた。
すると皇帝はやおら立ち上がると、軽々と彼女の身体を抱きあげて、寝床に押し倒した。
「きゃっ」
と思わず朱妃の唇から悲鳴が漏れた。





