第4話:シュヘラ姫、船に酔う。
船は揺れる。揺れれば酔う。
とは言え馬にも駱駝にも乗れるのだし、馬車にも乗ってきたのだ。そんなに酷いことはあるまい。そう思っていたシュヘラたちは部屋の中でぐったりとしていた。
「うぇぇ……」
馬などの揺れとは異なり、水流によって全体がゆったりと揺れるのが合わなかったのか、それとも景色が見えず外気の当たらない密室の中で揺れるのが合わなかったのか。
「姫様……私はもうだめです……うぇっぷ」
「せめて吐くなら盥にしてよね……うえっぷ」
それぞれの寝台の上で弱々しく声を漏らす。
少しすると中の様子をなんとなく悟ったか兵士が医官を呼んでくれた。
初老の禿げた医官である。顎にはひょろりと髭を蓄え、それを撫でながら部屋へと入ってくる。
「どれどれ、姫君。失礼しますぞ。ふむ、まだ吐いておらんし、薬を処方するほどでもなかろ。どれ、これでも口に入れときなさい」
そう言って医官は携えた小壺を漁り、横になっているシュヘラに赤茶けた柔らかい玉を渡した。
彼女はそれを口に入れ、しばしもごもごとしていると跳び起きた。
「酸っ……」
「ひょひょひょ、姫君は話梅は初めてかね」
話梅とは干し梅の菓子である。梅の塩漬けを砂糖液で漬けて干したものだ。
ロウラは医官とシュヘラを非難するような目で見ていた。毒見もなく口にするなどと思っているのだが、それを言う元気もない。
しかし、話梅を口に放り込まれると同じように跳び起きた。
「ちょいとはすっきりするじゃろ」
そう言ってから振り返る。
「姫君をもてなすのに毛皮を貼ったようじゃが、船に慣れている儂らにはともかく、慣れとらんのには獣臭が籠ってきついやもしれんな」
臭いなどほとんど感じはしない。だがその僅かな臭いが感覚を狂わせるのかも知れなかった。
扉の入り口には癸氏が立っていて頷いた。
「主上にはいずれそのようにお伝えしておこう。部屋には炭でも置くか」
––武甲帝にまで船酔いの話が伝わってしまうの?
シュヘラは恥じ入る気持ちであった。だが、船でまた別の妃嬪を連れてくることなどもあるかもしれない。そう考えれば文句も言えなかった。
「そうじゃな、揺れで倒れぬような器に小石くらいに砕いたものを盛るのが良いの」
炭は臭い取りに使われるものだ。
癸氏は外にその言葉を伝える。シュヘラからは見えないが、兵士か用人がいて炭を用意に向かったのだろう。
「ふむ、侍女殿は問題なさそうじゃが、姫君はもうちょっと見ておくかね。どれ、御手を失礼しますよ」
そう言って老医官はシュヘラの手や手首を揉みはじめた。
「ここが合谷、ここが神門……」
医官の乾いた手指がシュヘラの張りのある肌をむにむにと押していく。
「気分はどうですじゃ」
いつの間にかシュヘラは吐き気がなくなっているのを感じた。これが瓏帝国で伝えられる経穴というものかと驚く。
手を揉まれて胸の気持ち悪さが取れるとは!
「良くなりましたわ。お医者様は凄いですのね」
「ひょひょ、そうじゃろう。だがお医者様なんぞと呼ばれては尻のあたりがもぞもぞしていかんわい。陳のじじいとでも呼んでくだされ」
「では陳医官と」
うむうむと頷くと、陳はまた何か気分が悪くなるなどすればすぐに呼ぶようにと言い残して出ていった。
癸氏は炭の入った深皿を部屋の隅に置く。
「在下もこれにて。今日はゆっくりしていただき、お話は明日にいたしましょう」
そういうことになった。
夜のことである。
夕飯は部屋で粥を食すこととなった。油物は避けるべきだろうとのことで簡素な食事をと謝罪されたが、十分である。
シュヘラは感謝の言葉を告げた。
「美味しい……!」
シュヘラは匙を口に運んで感動の声を漏らす。
ロプノールは小麦の面包が主食である。ただ、交易都市ということもあり、瓏帝国南部やさらに南の諸国の主食である米も食べたことはあった。
シュヘラの感想としては白いぶつぶつしたもので特に美味いものでもない。しかも粥などは病人の食べ物であるという認識だった。
もちろんいま船に酔っているシュヘラは病人のようなものである。文句を言うつもりなどなかったが、これはどうしたことか。
まず、粥が米の形が無くなるまで煮られていてさらさらとしているのも見た目の違いだが、僅かに色付いているのは水ではなく出汁で煮ているからか。
湯気からは馥郁とした香りが漂う。
シュヘラは改めて匙を粥に差し込み、混ぜ返すように掬った。粥の中に秘され、刻まれた具材が姿をあらわす。
赤は先ほどの梅、酸味が粥に溶け出して爽やかだ。爽やかさは緑の香菜、黄色の生姜もか。
ぷりぷりとした食感は刻まれた海老だろうか。だがシュヘラは泥臭くない海老など初めて口にする。
この茶色くてこりこりとした食感のものは何だろうか。この黒い腐った卵のように見えるものは何だろうか。
「……ぷるぷるしてる」
だが食べれば臭みなどはまったくなく、ぷるぷるとして美味しいとしか言えぬものであった。
搾菜と皮蛋、彼女の終生の好物となる食べ物との出会いであった。