第40話:朱妃、少々気まずい。
やってきた宦官らの先頭に立っていたのは内僕局の羣であった。輿を先導していた宦官である。他にも輿を担いでいた見覚えのある者たちがいる。
彼らは院子の中央、十字路に跪く。羣はそのまま本房に向かって声を張り上げた。
「永福宮の主、朱緋蘭妃にお目通り願いたい!」
……気まずい。
そもそもこのような真似をさせてしまっていることが気まずい。宮の前には宦官の門番がいるはずであり、それが内にいる別の女官や宦官に来客を告げ、そして妃に言伝すべきものである。
それが彼に無人の門を潜らせ、このように跪かせ、声を張り上げさせてしまっている。
もちろんこの状況を作ったのは朱妃のせいではない。だが宮の主としての責を感じるのである。
それともう一つ。今、朱妃が見ているのは羣氏の背と尻である。彼女が本房にいないせいで、無人の宮を跪拝させてしまっていることだ。
「きー」
か細い声が聞こえる。
「……家守か?」
いや、拝む先にダーダーがいたようだ。
いけない。払われたり踏まれたりしては大変である。朱妃は慌てて立ち上がり、使用人の食堂を出た。
「朱妃様!」
背後からは慌てる羅羅の声。
「ふむ、この宮の主人はご不在だろうかね?」
「きー」
倒座房から庭へと出た朱妃は、羣とダーダーが会話にならないやり取りをしているのを見てほっとする。
一方で近くにいた宦官たちはぎょっとした表情を見せる。
使用人のための棟から妃があらわれたのだ。当然であろう。
朱妃は咳払いを一つ。こちらに向き直ろうと腰を浮かせた宦官たちを身振りで留めて、ゆっくりと院子を半周して本房の前に立った。
「内僕局の羣よ。何用か」
そう言ったところで羅羅と雨雨が走り出て朱妃の左右を固め、ダーダーが跳んで朱妃の裳の裾に掴まった。そして膝の辺りまでかさかさと上がってくる。
「ちょっと、ダーダー!」
「きー」
羣は思わず噴き出した。
「くっ……失礼致しました。朱妃様は忠臣の方々に大切にされていらっしゃるのですな」
「え……ええ。そうですわ」
ダーダーも含めて忠臣と呼んだということは、癸氏などから蜥蜴の話を聞いていたのか、それとも輿で移動した際に気づいていたのか。朱妃は考える。
彼女が言葉を続けようとしたところで、羅羅が声を発した。
「して、何用ですか」
后妃は本来、こう言った場ではあまり直接言葉を交わさぬものである。
羣は羅羅と言葉を交わし、差し出した書状を雨雨が受け取りそれを読んだ。
「癸昭大人がお呼びであると」
纏めればそういうことであった。
「是」
「で……」
では参りましょう。そう言おうとした朱妃の言葉が雨雨の咳払いにより遮られる。
「後ほど参りますと癸昭大人にはお伝えください」
「是。妃様の準備には相応の時間がかかるもの。無論、大人もご承知の上です」
そう言って羣は彼の背後の宦官に頷きを一つ。その宦官は羣と朱妃に一礼すると宮から出て行った。癸氏に伝達に行ったのだろう。
雨雨が言葉を遮ったのも、羣がわざわざ今のような言葉を口にしたのも、朱妃にそういうものだと教えてくれているのだ。
呼び出した側としても例えば一刻後に来ると思っていた来客が、今すぐに来たら困るに違いない。
羣は続ける。
「永福宮のご様子については、昨日、雨雨さんが癸大人に伝えていらしたこと存じております。奴才らに何かその間お手伝いすることはありましょうや?」
なるほど、どうせ時間が掛かるのであれば、伝令のために一人が来て、後から輿を担ぐ衆が来れば良いはずである。
最初から大勢で来たのはそう言い出すためか。
朱妃はそう命じたであろう癸氏に感謝の念を抱いた。
––さて、何を頼もうかしら。
内僕局、輿を担ぐ者達である。つまり力はあるだろう。外に出たままの甕なども移動させてもらおうか。一方で彼らは家事に関することの専門職ではない。
朱妃は羅羅と雨雨に視線をやり、しばし考えてこう言った。
「汝らの厚意に感謝します。宮には人手が足りず、行き届いていないところがあるのは事実。ここにいる二人の女官、羅羅、雨雨の頼みを聞いていただければと。それと時間あれば東西の房にはまだ立ち入っていないので、そちらに風を入れて清掃を願いましょう」
「御意」
羣は頭を下げる。朱妃は他の宦官らにも視線をやった。
「それと貴方達」
「是」
「食事はお済みかしら?」
彼らは困惑げに顔を見合わせる。
「いえ……」
「では簡単なものではありますが、昼餉を食べていきなさい」
これで今日の分の食料は何とか使い切れるであろう。朱妃は安堵した。