第37話:朱妃、馬鹿にされていると思う。
「あら、奴婢は間違ったことなどしておりませんことよ?」
司制の女官はそう言って口元を歪め、雨雨はさらに激昂する。
朱妃には温厚な雨雨がなぜそんなに怒りを露わにするか理解できない。司制が自分を嘲笑っているのは理解できるが、何をしたことでそうなったのかがわからない。
視線を左右に。羅羅もまた困惑しているようだ。女官のうち何人かが口元に浮かぶ笑みを隠し、尚功の娥楊は……。
彼女の黒い瞳と朱妃の翡翠の視線が絡む。向こうも理由を探っているのか視線が揺れ、そして天を仰いだ。
「雨雨、本宮の為に感情を露わにしてくれているのは感謝します。ですが一度、お引きなさい」
朱妃が軽く手を挙げれば、雨雨は彼女に拱手し頭を下げてから壁際に下がる。
「……御意。過ぎた真似をいたしました」
娥楊が天を仰ぐ前、その瞳が最後に向いたのは何処であった?
視線は僅かに合わず、下を向いていた。顎先? いや、胸元か。
着ている服に不自然なところはない。正面に立つ彼女らと鏡写しで……。
違う。鏡写しであるからだ。
「司制の女官よ。名は何と?」
「燕と申します」
「では燕よ。貴女たちはみな襦の襟を、右を下に左を上にして羽織っていますね? 本宮のものを敢えて逆に、左を下に右を上にと羽織らせた意図を述べなさい」
彼女は朱妃の襦を右前ではなく、左前に着せたということである。
「異国よりいらしたことを示す、古来より伝わる風習にございます。さすれば、朱緋蘭妃様には正式な作法で襦裙をお召しになっていただければと思いまして」
燕と名乗る女は何の罪悪感も感じさせずそう言ってのけた。雨雨や蛾楊は苦々しい表情を浮かべる。
––ふむ、尚功の内部もまた一枚岩ではない。
まあ瓏の衣装に詳しくない朱妃とて、彼女らの反応からすれば最後まで言われずとも分かる。
真であると尚功も言ったということは、周辺国家では古代において左前に着る習慣があり、瓏帝国では右前に着る習慣が定着したのは事実だろうと。そして瓏帝国ではその着方を蔑んでいた、あるいは現代では奇妙に感じられるものだと。
朱妃は蛾楊に視線を向ける。
「尚功、蛾楊。今の言葉は真ですか?」
彼女は吐き捨てるように答える。
「……是。ですがそれは」
「よろしい」
朱妃は蛾楊の言葉を遮った。
事実、歴史的にはその通りであった。着物を右前に着た方が右手の自由度が高く、動きやすいことは明らかである。中原では着物を右前に着るようになった。
だが北方や西方の遊牧民にとって、彼らの主力武器たる矢を射る際に、右前だと襟に弦が引っ掛かりやすいのだ。それ故に古代の遊牧民は着物を左前に着ていたという。
つまり古き北狄と西戎の着方ではある。
しかし服飾の進化や文化の変遷によって、その風習はもう存在しない。
たとえば北方遊牧民の姫であった光輝嬪の着ていた青い服、デールは右前の着物であり左の前身頃は体の正面ではなく右肩で留められている。つまり右前だが弓の邪魔をしない構造になっているのだ。
「燕、貴女はこれが正しい作法と言うのね?」
「是。もちろんですわ」
彼女は嫣然と笑みを浮かべてすら見せた。
––面倒ね、どうするのが正解かしら?
正直、相手がちょっとこちらを馬鹿にしてきているだけのことであり、実害はない。合わせを逆にすれば良いだけのことであるし、仮に朱妃が気付かなかったとしても、後で雨雨や別の女官が直すだけであろう。
ロプノールの王宮にいた頃の朱妃であったら、間違いなく何も言わずに流していたことである。
だが、今怒りを露わにした雨雨が、羅羅やダーダーが生国からここまで着いてきてくれているという事実が、癸氏やまだ見ぬ武甲帝が彼女を妃と選んだ期待が。それではいけないと朱妃の心に語りかける。
見逃せば今後も見下され続ける。今回は実害のない悪意が、いずれ膨らみ害を持つようになる。
逆に妃という立場から強引に処罰を求めることは可能であろう。無礼に対し笞を打たせることになるのか、後宮より追放したり殺すことすら可能なのかまでは不明だ。分からないがそれは確実に恨みを買う。彼女自身か、彼女に連なる者からか。
朱妃は深く息を吐き、そして話し始める。
「……なるほど、本宮がロプノール、貴女たちの言う西戎の出身であることは間違いありません。異国人の本宮に正しき作法を教えてくれたこと、感謝するといたしましょう」
朱妃はそう言った。
雨雨の眉根に皺がよる。燕は笑みを浮かべながら拱手して答えた。
「勿体無いお言葉です」
「本宮は貴女のその古きを温めるその知識に感銘を受けました。これは、共に後宮へと来た嬪たちにも伝えるべき、いえ、伝えねばならないことだわ」
燕の身体が固まった。
朱妃は彼女の反応を待たない。
「蛾楊よ。服飾を作る司たちを管理する、尚功の位にある貴女に命じるわ。燕司制を光輝嬪、楽嬪、筍嬪のおわす宮に連れていき、燕司制より彼女たちにその旨を伝えさせて下さる? 異民族は襟の左を前にすると」
「御意承りまして御座います」
雨雨は笑みを浮かべ、蛾楊は深く頭を垂れた。





