第36話:朱妃、衣を作られる。
四合院の庭、院子は四方を棟に囲まれているため、概ね正方形の形状であり、その中央には棟と棟を繋ぐ十文字に交差する道が走る。ちょうど田の文字を思い浮かべると良いだろう。
道は石畳となっていて、本房に向かう道の脇には一対の小振りな石の燈籠が設置されている。夜、足元を照らすためのものだ。
道でない部分には草花や木を植えて庭を彩るのだろう。
ただ、朱妃が入るまで無人だった関係か、そこに草花はなく、剥き出しの土に二本の木が植えられているだけであった。
「……うーん。悪くはないわ」
少々華やかさには欠ける。だが後宮の赤や黄色、白に瑠璃色の壁や甍の中にあって、木の緑は安らぎを覚えさせた。
朱妃が葉に手を差し伸ばせば、風に吹かれてさわさわと梢が揺れる。
朱妃はその名を知らないが、垂絲海棠の木である。高さは朱妃の倍、十尺くらいであり、枝ぶりも悪くない。
木には林檎のような形で、爪よりは少し大きいくらいの緑色の実がなっている。もう少し秋が深まれば色付いてくるのだろうか。
「たーんと召し上がれ」
朱妃はそう言いながら、如雨露がわりの薬缶で木の周囲の土に水を撒いた。
「朱妃様、失礼します」
その時、聞き覚えのない女性の声で名を呼ばれた。
いつの間にか女官が庭に入っていたようだ。
「あら」
振り返ればそこにいたのは女官数名と、荷物を担ぐ宦官たちである。
先頭に立つ女官が拱手する。
「奴婢は尚功の娥楊と申します。後ろは同局に務める司制、司珍、司綵の者です。永福宮の門番がおらず、また外よりお声掛けしても応えがありませんでしたので、殿下の宮の庭へと勝手に入ったこと、お許しください」
娥楊と名乗った女はそう言って頭を下げる。背後の女たちもそれに倣った。
ふむ、と朱妃は考える。門番がいないのは事実であるし、太極殿での儀式の音量に掻き消されて彼女らの声が聞こえなかったのだろう。
「ええ、門番がいないのは尚宮の手落ちですからね。貴女たちに責は無いわ。許しましょう」
背後で頭を下げていた者の数名の肩が揺れたのは、主人を貶された故の怒りか。その者には注意を払っておこうと朱妃は思う。
娥楊は頭を上げ、特に感情を見せずに言う。
「感謝いたします。朱妃様は、お忙しいでしょうか?」
彼女の視線は朱妃の手にした薬缶へ。
「木に水を上げていただけ、大丈夫よ」
「下賎な……」
ぼそり、と声が響く。
背後の女官の誰かが言ったのだろう。拱手することで口元を隠し、誰が言葉を口にしたか判らぬように。
「……本宮が生国ロプノールでは、館の最も大きな木に水を与えるのは主人の務めですわ」
それはロプノールが砂漠の国であり、水を大切にするが故の風習ではある。
「手の者が失礼を申しました」
娥楊が代わって頭を下げ、朱妃は再びそれを許した。
それにしても木に水を与えるだけで蔑まれかねないとは。このくらいは后妃や公主たちの趣味の範疇としてもおかしくはないであろうに。
そう思えばこれが干し肉など作っていたら酷かったであろう。雨雨が言っていたことは正しかったと、朱妃は感謝の念を覚える。
「尚功局……。昨日、商皇后の仰っていた、服の件かしら」
「是」
朱妃たちは皇后殿下から布を賜っている。そして尚功局に服を作らせると、そう言っていた。
「ではお願いするわ。貴女たちはそれぞれどのようなお役目なのかしら?」
聞けば司制は后妃の身体を測り、布を断ち、縫い上げて服を作る役職であると。司珍は后妃に似合い、その位に応じた玉や貴金属、真珠、珊瑚などを選ぶ役職。司綵は服に刺繍を施す役職であるとの説明であった。
まあ、もちろん実際に裁縫や刺繍をする針子や、玉を磨き金を彫るのは下級の女官や宦官たちであろう。
本房へと向かう。羅羅と雨雨も保存食作りが終わったのか、会釈を交わしこちらへと合流する。
宦官たちが荷物を降ろす。そこには針や巻尺などの道具や大量の布、玉の見本などが収められていた。彼女らはそこから道具を取り出すと、朱妃の身体を測っては紙に数値を書き付け、布や玉を当てながら色を見始める。
朱妃は着ているロプノールから持ってきた服を脱ぎ、実際に襦裙なるものを初めて着用してみた。
襦とは前開きで裾の短い上着、裙とは裾の長い女袴を意味する言葉である。
「これらは中原の伝統的装束ですが、今の流行の型は襖裙と言いまして……」
襦に裏地があり、襟の部分の布が違う色であること、裙に襞が入っていることなどが特徴であると娥楊は説明した。
なるほど、今着ているこれは仮縫いのためのもので、刺繍などない素朴なものだ。しかし形状としては后妃らも女官らも同様の形状のものを纏っているように朱妃は思う。
司制の女官が朱妃の前に立ち、実際に服を着せながら構造を説明していく。裙を紐で留め、襦を羽織らせる。そして帯を手にした時であった。
「貴女っ! 朱妃様になんという非礼をっ!」
雨雨が叫び、司制の女官に掴み掛かった。
朱妃はきょとんと首を傾げた。