第3話:シュヘラ姫、船に乗る。
この大きさの船というものをシュヘラは見たことがない。
彼女の出身であるロプノールは砂漠と荒野の間にある王国であり、オアシスの都である。
もちろん都を少し離れれば川も流れているし、放浪湖という名の塩湖もある。ちなみに放浪湖とは季節や年によって湖の位置が変化するが故につけられた名である。
そこで採れる塩は交易路を行き交う人や駱駝の生命線であり、今回の進貢の品々の中にも放浪湖の塩がある。
だが、そもそもこの龍河のような水量は無く、このような巨大な船を使うことはないのだ。
船の構造が気になるシュヘラはきょろきょろと首を巡らせては、侍女のロウラに袖を引かれる。
甲板や廊下は板張りで、戦での使用を考えてか一部は鉄で補強された無骨なものであった。
「まあ……!」
だが通された部屋を見てシュヘラは感嘆の声を上げた。
その床一面に精緻な紋様の絨毯が敷かれ、壁は毛皮で覆われていたのだ。
「長い旅路、ご不便をおかけいたしますが、御二方にはこちらの部屋でお寛ぎいただければと」
癸氏は彼女とロウラにそう言った。
なるほど、寝台が二つある。主人と侍女が同じ部屋で寝ることは本来あまり無いことではあるが、船という限られた空間であることではあるし、警備などの関係からでもあろう。
シュヘラはゆるゆると首を横に振った。
「不便などとんでもない。ご厚意に感謝しますわ」
癸氏は手を合わせて腰を折る。
「では在下はこれにて失礼いたします。しばらくお休みいただき、お疲れの出ない様子であれば、瓏の文化や紫微城での振る舞いについてお話しできればと」
シュヘラは首を傾げた。
「あら、私は元気ですわよ」
癸氏はにっこりと微笑んだ。
「それはようございます。念の為、隣室には医官がおりますので、何かあれば部屋の前にいる兵に伝えて貰えれば直ぐに参りますので」
そう言って癸氏は部屋を後にした。
その後、癸氏とは別の官吏が部屋まで運び込んでくれた荷物を引き取ったり、ロウラがその中身を確認しているうちに、シュヘラは船室の毛皮の手触りを楽しんでいたりしていたのである。
すると扉が叩かれた。
「はい」
ロウラが答え、シュヘラが許可を出す前に扉が開いて、男が入室してきた。
なるほど、まだ出入りがあるから鍵を掛けないでいるようにと、シュヘラはロウラに伝えていた。だがそれと勝手に入る無礼は別問題である。
彼は革鎧の上に外套を纏い、腰に剣を佩いた武人で、頭には布を巻き、褐色の肌をした壮年の男であった。
彼はじろりと、毛皮張りの椅子に座るシュヘラを睨むように見つめる。
「タリムよ、何か」
シュヘラが硬い声で問うた。
タリムはロプノールの将の一人である。今回、この進貢と嫁入りの旅の護衛の長を務めていた。
「進貢の荷を積み終えたのでその報告を」
「大儀ですわ」
シュヘラは頷き、労いの言葉を掛けた。だがその返答はさらに非常識なものであった。
「これを以て我らが部隊全員は、ロプノールへと帰還致します」
「はあっ⁉︎」
思わずといった様子でロウラが身を乗り出してシュヘラの前に立った。
「将軍、この先の姫の護衛はなんとするのです!」
「瓏帝国の兵がつくでしょう」
そうこともなげに言い放った。
あり得ない言葉である。確かにシュヘラの護衛には瓏帝国の兵や宦官がつく。だが万が一彼らが裏切った場合は? 両国の関係が悪くなった場合は?
瓏帝国の兵は彼女の身を拘束するだろう。
そもそもシュヘラが帝国の後宮に入るのは半分以上は人質のようなものである。その際、ロプノールは彼女を護らないと宣言するようなものだ。
「……ロウラ」
シュヘラが翡翠の瞳をロウラに向けた。それは毅然とした視線であるが、それでもなお揺れていた。
ロウラには理解る。
心優しき主人は、ロウラを死地に連れて行かずに、彼女を国元へ返そうと言わんとしていると。しかしそれは彼女にとって慈悲でもあり、残酷なことでもあった。
ロウラは咳払いを一つ、そして敢えて明るく声を出した。
「不肖このロウラ、齢十にして親を失い、シュヘラ姫の側付きに選ばれてより早十五年。気付けばもう二十五の行き遅れに御座います。国元へ戻れど孝行すべき親はなく、尼とでもなって遥か彼方の姫の無事を祈って無聊を託つのみ」
通常、王の姫に侍る側付きとなれば高位貴族の娘がつくもの。しかしてシュヘラは疎まれた姫であり、その側付きに誰もつきたくはなかった。
故に下位の貴族令嬢であり、流行り病で親を失ったロウラが選ばれたのだ。
ロウラの言葉は続く。
「故に遠き異郷に姫が行かれるのであれば、箒とはたきでその露払いを。万に一つ彼の地で姫が追われるのであれば、鍋釜抱えて殿を、見事務めてみせましょう」
「ロウラ……!」
シュヘラは彼女の腰の辺りに抱き着いた。
タリム将軍は大きく響く舌打ちを一つ。
「勝手にするがいい。……御前失礼仕る」
そう言って引き上げていった。
シュヘラもロウラはぷりぷりと憤慨しながら、馬革の水筒に入れておいた柑橘水を飲む。そしてこれからの話をしているうちに船が出た。
ある意味でそれから半刻ほどは元気であったと言えよう。
「うえぇぇぇぇぇ」
「げえぇ………」
しかし部屋には苦悶の声が満ちたのである。