第32話:朱妃、少し過去を語る。
三人で順に歯を磨き、顔を洗う。服を脱ぎ、湯に浸けた布で身体を清める。
そして卓につき茶を喫する。茶会ではないし、聞香杯などは使わない。淹れられたのは青茶である。御座船での癸氏との茶会の後、茶葉を貰ってきたものだ。
梔子色の僅かに赤みがかった黄色の液体を朱妃は口に含み、鼻に抜ける清香を楽しむ。
「こちらのお茶の味も慣れてきたわ」
砂糖も蘇油も入れないため、甘みもまろやかさもないお茶であるが、その爽やかな香りやすっきりとした味わいも良いものと思える。
特にこうして朝に喫するのは目が覚めるようで好みであった。
雨雨が応える。
「それはなによりです。瓏にはまだまだ沢山の茶の種類がありますので、楽しんでいただけたらと思います」
「どんなものがあるのかしら?」
雨雨は指を折りながら言う。
「細かく言えば千を超える品種がありますが、大別すると茶葉の発酵度合いの順に、緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶ですね。それと長期寝かしておく黒茶が六大茶です。それ以外には邪道と呼ぶ人もいますが、花の香りを茶に移す花茶や茶以外の香草を使う茶外茶と呼ぶものもあります」
朱妃は感心し、羅羅は笑う。
「雨雨さんはお茶詳しいですよね」
「趣味なので」
そう言って雨雨ははにかんだ笑みを浮かべる。
朱妃は尋ねる。
「こうして朝に飲むお茶は何が良いのかしら?」
「いま喫しているこれは青茶の中では香気が良いものですから向いていますよ。爽やかなのは緑茶も良いでしょうね。扶桑では緑茶しか飲まれないと聞いたこともあります」
裳唐衣の重ねを纏っていた黒髪の女性、楽嬪の姿が脳裏に浮かんだ。彼女も今、与えられた宮で緑茶を喫しているのだろうか。光輝嬪は、筍嬪はどうしているのだろうか。
朱妃がそのようなことを考えていると、話題を変えるように雨雨が言う。
「ところで朱妃様の先ほどの火付けの技なのですが」
「やあね、技なんて大したものではないわよ」
「いえ、奴婢は感服いたしました。ここ紫微城で火を一度で付けられる者など厨師にすらいないでしょう」
少し奇妙な物言いに感じたが、朱妃はそこには触れず、居住まいを正す。
羅羅と雨雨も背筋を伸ばした。
「雨雨、貴女に話しておかねばならないことがあります」
「は、はいっ」
––ぐー…………。
しかし腹の音がそれを遮った。
昨日の昼はなし、朱妃は月餅を食したが二人はそれもなく、夕飯は包子と棗椰子の乾果だけである。若い娘たちの腹は空腹を訴えた。
「食事を作りながらお話ししましょう」
そういうことになった。
面包を寝かせる時間も待てぬし、ちゃんとした料理をする時間もない。点心を作ることとする。瓏の料理では菜がメインディッシュを意味し、湯が羹、スープを意味する。
点心は軽食の類であり、昨日の夕食の包子も点心である。
羅羅と朱妃が驢肉と野菜、特に貯蔵に向かない葉物に卵を持ってきた。二人は卵を解き、肉や野菜を包丁で刻む。
雨雨は小麦粉を水で解いて練り始める。
「朱妃様は包丁もお使いになられるのですね」
作業しながらも雨雨は問う。
決して手際が良いというほどではない。厨師や家庭の主婦に比べればずっと劣るであろう。
だが、タンタンと小気味良く俎板を包丁が叩く律動は一定で、危なっかしさなどは微塵も感じさせない手つきでもあった。
「そう。おかしいでしょう?」
一国の姫が厨に立つか否か。
国や地域、時代によっても異なるだろう。だが少なくとも瓏の公主たち、現皇帝にはまだ子がいないので、前皇帝の娘という意味になるが、彼女たちの中で料理ができるのは誰一人としていないだろう。
朱妃は続ける。
「これは船の中でも話したことだけれど、私、ロプノールの王宮で冷遇されていたのよ。料理だって出ない日があってね。それで包丁の使い方を羅羅から教えてもらったの」
一国の姫が料理すら出ないほど冷遇されるものなのかと雨雨は一瞬思ったが、瓏の後宮では皇帝の子供すらしばしば殺されるのであった。
「羅羅は朱妃様の先生なのですね」
雨雨はそう言って言葉を繋ぐ。
羅羅がやめてよと言って笑った。
「それで、そもそもなぜ私が疎まれているかという話になるのだけれど」
朱妃は包丁を置いた。
雨雨も粉だらけの手を止めて彼女の瞳を見る。
「私、呪われているの」
「呪われている……ですか」
雨雨が鸚鵡返しに問い返す。羅羅は痛ましそうに眉をひそめた。
「私のいた部屋で、火事が四度起きているのよ。火の気なんてなかったのに」
「それは……」
雨雨は絶句する。
間違いなく悪霊に憑かれているなどという話になるだろう。
まだそんなに長い月日が経ったわけではないが、それでも雨雨が朱妃と接する日々の中で、彼女が悪であるだとか呪われているような気配などを感じたことは一度もない。
それでも流石に考えられない数字であった。
瓏帝国であったら、私刑で殺されているかもしれない。雨雨はそう思う。
実際、瓏や扶桑のように木造建築の多い地域であったらそうだっただろう。あるいは延焼して彼女自身の身が焼かれていたかもしれない。
シュヘラ・ロプノールが冷遇されつつも生きてこられた理由は、火事によって死者が出ていないからに他ならなかった。