第31話:朱妃、火をつける。
「無理に決まっていますでしょう」
羅羅は呆れたように言った。
一日七斤半の肉を食えといわれても、無理に決まっている。そもそも少食である朱妃が一日一斤食べるのだって無理であろう。
雨雨も言う。
「この与えられる肉や穀物の量というのは、使用人たちに分け与える前提ですからね。妃嬪としての位が高い方が多くの肉を与えられる、つまりそれだけ多くの使用人を雇えるという方策なのですが」
つまり、この大量の食物は、妃に与えられる適正な量であるということだ。十六斤の肉を等分して一人一日半斤食べるとすれば……それだって女性にとっては多いが……単純に計算すれば三十一人の使用人を養えるという事である。
朱妃は溜息をつく。
「父である王は侍女としてロウラ、……羅羅しか連れて行くのを許さなかったし、タリムはじめ将兵たちもみな国に帰ってしまいました。そして辛花尚宮は嫌がらせでこちらに女官や宦官を連れてこないと……」
尚宮はそのあたりを狙ったのであろう。後日この宮にやってきたときに、肉の腐ったものを指摘して責めるつもりだろうか。
「どうしましょう?」
羅羅が問う。朱妃は置いていかれたものを見る。
水甕は女手では到底運べる重さではないし、穀物の袋もそうだ。
「まずはせめて肉と野菜だけでも冷暗な場所に持っていきましょう」
二人は頷く。三人がかりで倒座房の厨へとそれらを運んだ。
厨房の脇の小部屋が棚の並ぶ貯蔵庫だったので、そこに肉や野菜、ロプノールの香辛料などを並べていく。
「食事もそうですが、まずは妃殿下の身嗜みを整えていただかねば」
雨雨が言う。
朱妃は妃である。美しくあることが最大の仕事であると言えよう。
「沐浴は夕方までに用意するとして、まずは顔を洗っていただいて……」
甕を持ち上げられないので、厨から薬缶や鍋を持って甕から水を汲む。
霊山で汲んでそれを運んだという透明で清浄な水だ。ちなみに龍河の水は飲用には向かない。大量の土砂を運んでいる黄土色の水だからである。
ただしあれは上流の栄養の豊かな土を運んでいるために、農業用水としては最適である。中原の豊かさを支える柱ともいえよう。
雨雨がその水を口に含んでから、口元を隠して吐いた。
「奴婢は司膳の毒味役ではないので何とも言えませんが、それでも毒はなさそうですと一応」
向けられる悪意を思えば毒を飼われる可能性が無いとはいえない。だがその可能性は低いと考えている。それこそ責任問題になるからだ。
昨日今日の辛花尚宮の動きから考えるに、現状では自分に責任や害の及ばぬ範囲で嫌がらせをしているのではないだろうか。
「ありがとう」
昨日、雨雨が癸氏のところから持ってきた中に、船中で使っていた歯刷子などもあったのでそれで歯を磨く。
牛の角を削って加工された柄に馬の毛が植えられた刷子である。優雅な曲線を描く柄には瓏の文字で邪気祓いの呪が紋様のように刻まれている。歯を痛くさせる悪しき霊が寄らぬようにされているものだ。
朱妃が歯を磨いている間に、羅羅は鍋に水を入れて竈の上に置いた。
「布をお湯で濡らして清拭だけでもしていただければと。それとお茶をお淹れしましょう」
雨雨は朱妃の後ろに回ると、髪を解いて櫛を入れはじめた。頭皮に当たる椿の櫛歯が快い。
朱妃がしゃこしゃこと刷子を動かしている間に、羅羅がカチッカチッと石と金を打ち付ける音が何度も響く。
竈に炭と藁を入れて格闘している。燧石を火打金に叩きつけて火花を散らし、藁に火をつけようとしているのだが上手くいかないようだ。朱妃の視線の先で、屈んで突き出されている羅羅の尻が何度も揺れる。
朱妃が歯を磨き、口を漱ぎ終えたところで、申し訳なさそうに羅羅が立ち上がって燧石と火打金を朱妃に差し出した。
「朱妃様、お願いしても宜しいですか?」
「ええ、もちろんよ」
朱妃がそれらを受け取り、雨雨は首を傾げる。
「火を付けるのは大変ですが、朱妃様に渡されても仕方ないでしょう。というか万一、石で指を叩かれるようなことがあったら危険です」
雨雨がそう言うが、朱妃はそれには応えず、羅羅は首を横に振る。火打金は木の取手に半月状の鋼が取り付けられた物である。朱妃はその持ち心地を確認するかのように左手の内で何度か持ち直し、右手に燧石を弄びながら竈の前に屈み込んだ。
ゆっくりと素振りするように右手を上下させる。
「朱妃様は達人ですから」
そう羅羅が言った刹那、朱妃の右手が振り下ろされた。
カッと高い音が鳴り、左手の火打金が削れて橙の火花を放つ。産み出された火花に朱妃はそっと息を吹きかけた。
火花は狙い過たず藁の上に落ち、橙に藁が染まっていく。その火は別の藁に、そして木切れへと燃え移っていき、赤々とした火種となって炭を熱する。
炭とはなかなか火が燃え移らないものである。
しかし、雨雨が見つめる先で炭の上に陽炎がたった。
「嘘っ……」
「お見事です」
雨雨が呆然と呟き、羅羅が頭を下げる。
朱妃は振り返って羅羅に燧石を返しながら、ふふんと自慢げに笑って見せた。