第2話:シュヘラ姫、癸なる男に会う。
ξ˚⊿˚)ξ毎日16時投稿です。よろしくー。
シュヘラはふと、鼻を動かす。大気中の水気が強くなっているのを感じた。
「川が近づいているわ」
「そうですか? であれば本日の昼に龍河に着くはずですから旅程は順調かと」
ロウラは窓から外をちらと見るも、麦畑が青々と広がるだけである。川の近づく気配など分からないが、そう答えた。
ロウラは知っている。シュヘラには巫覡の血が強く発現していると。彼女は巫女ではないが、鋭い知覚を有し、世界に影響を及ぼし……それ故に家族から疎まれていたのだと。
実際、それから一刻も立たぬうちに随伴の兵から龍河に着くので降りる準備をと声がかけられた。
龍河。大陸を西から東へうねうねと蛇行し、東海へと流れ落ちる様が龍の如くであると。そしてひとたび荒ぶれば全てを押し流し、その流れる形をも変える故にその名が付けられたと。
そもそも瓏帝国において河とはこの龍河を示すための文字であるという。
「うわぁ……!」
平原に現れた上り坂は古代の王の治水の跡であった。土手に登り、馬車を降りて正面を見た時、シュヘラは思わず声を上げた。
視界の端から端まで広がる水。
岸には沢山の荷を積んだ船曳、そして正面には大河に浮かぶ立派な木造船。その舳先、船首像には龍が踊り、皇帝の船であることを示していた。
船の前にはずらりとならぶ官吏たち。
その先頭に立つ背の高い男がついと前に出て言う。
「ロプノール王国はシュヘラ姫とお見受けいたします!」
若く、力強い男性の声が大気を震わせた。
そして彼は手を合わせて腰を折り礼をとる。ロウラがそれに応えた。
「是。こちらにおわすがシュヘラ姫である。そなたは?」
「在下、瓏帝国は癸と申します。シュヘラ姫を玉京が主人の元までお連れすることと、その間の御世話を申しつかっております」
シュヘラはゆっくりと頷いてみせた。
在下、自分を示す謙譲の一人称であったか。瓏帝国に嫁ぐにあたって、かの国の言葉には自分を示す単語が百もあると聞き、眩暈がしたものである。
「出迎え、大儀です。癸氏と御座船を遣わせてくださった武甲帝に感謝を」
癸が再び礼の姿勢をとって立ち上がると、後ろの男たちに身振りで合図をした。彼らも一糸乱れぬ動きで礼をとると散開する。荷を改める為に。
シュヘラの背後には沢山の荷馬が連なっている。
それは瓏帝国への臣従を表すための進貢であり、ある意味ではシュヘラの輿入れ道具という扱いなのかもしれなかった。
シュヘラは正面の男を見る。瓏人の衣冠に特徴的である、束ねた髪を覆う冠。冠の下から覗く髪は艶やかな射干玉の黒であるが、どこか緑がかって見えた。
その下、猛禽類を思わせる意志の強い瞳は女性に向けるに少し強すぎるような気がする。
瓏人は髭を長く伸ばす者が多いが、彼はそうせず、黄色がかった白い肌を晒していた。
––官吏には見えないわ。
まず若い。彼女にとって瓏人はロプノールの者とは容姿が違うので比較が難しいが、それでも癸の年齢は二十代前半、どう多く見積もっても三十は超えていまい。
皇帝の君命を受けてということは彼はこの地方の官吏ではなく、中央の、科挙なる極めて難しい試験を突破した進士である筈。
あれは五十でも若いと言われる世界と聞き及んでいる。
––男性的すぎるし。
瓏帝国、というより歴代の中原を支配する帝国には特別な風習があった。
宦官である。貴人に仕える者、特に後宮の男は皆、殿方の象徴を奪われた者と聞くが、彼はとてもそうは見えない。
確かに髭を生やしていないのは中性的と言えよう。だがその顎の線や襟元の頸の筋肉はいかにも男性的である。
帝国の伝統的装束である瓏服は上衣下裳––上半身の衣は首元に襟があり、袖は大きく膨らんだ形状、下半身は西方の女性が纏うスカートのように広がっているもの––であるため、身体がどうかは分からない。
だがきっと筋肉質で鋼の如き体躯であろうと思わせた。
––そして何より覇気があるわ。
覇気、あるいは武威と言おうか。
巫覡の血が発現している彼女は感じる。
癸なる男から感じるそれは、将である。それも十人長や百人長ではなく、千や万を束ねる者のそれであった。
「何でしょうか?」
癸氏が問いかけた。
シュヘラの頭部は色とりどりの布に、顔は薄い紗に覆われている。だが翡翠の瞳が無遠慮に彼を見つめすぎたのだろう。
「いえ、なんでもございません。船を、案内下さいまし」
「お手をどうぞ」
船に乗り込む際、癸氏が手を差し出した。
「ありがとうございます」
その上に手を載せる。がっしりとした、硬く大きい手であった。
シュヘラは淑やかに見えるよう、背筋を伸ばし、ゆっくりと足を前に進めた。
しかし実のところ、船に乗り込むシュヘラの内心はおっかなびっくりというところである。
––こんな大きなものが水に浮くだなんて!
シュヘラが学問において学んだことによれば、理論上では大きさの問題ではないということは知っている。だが机上で学ぶのと実際に目の当たりにするのは、そして実際に体験してみるのは違う。
平民の家よりはずっと大きく、そこそこの屋敷ほどの大きさのものが川に浮いている。しかもそこにどんどんと荷物が積み込まれているのだ。
しかも彼女は初めて船に乗るのである。足元の板張りの地面が僅かに揺れ、船体がぎしりと鳴くのは恐ろしいものであった。